氷の女王は、酔いで溶けてゆく。
「──あんたさ、その手つきでアシスタント務めるの、あと100年は早いよ。」
披露宴の開幕前、会場「ヴェネツィア・ヴェルディ」の空気は、静寂というより緊張だった。
新米アシスタントの男子学生が、銀皿を持つ手を震わせていたその時。鋭い声が飛ぶ。
発したのは、誰あろう、“氷の女王”こと鷲宮雪。
身長は中くらい、スラリとした細身、そして絶世の美貌。
けれど、彼女が「美人」と呼ばれるのは、あくまで披露宴が始まる前の話だ。
ひとたび現場が動き出せば、彼女の目元は鋭さを増し、口からは容赦のない毒が飛び出す。
「あの人マジ怖いっすよね……」なんて声が、裏の更衣室で日常的に囁かれているのも、無理はない。
でもその日。
営業後、式場裏のスタッフ打ち上げに、雪が珍しく出てきた。
「あ、わたし……今日、ちょっとだけ飲もっかな……」
グラスを片手に、ぽつんと座るその姿。
披露宴中には似つかないカルーアミルクを口に含むたび、目尻が少しずつ下がっていく。
「……ねえ、わたしってさ……やっぱ、怖いよね。」
急に話しかけられて、一番近くに座っていた俺は固まる。
「えっ、あっ……いや、そんな、まあ、ちょっとだけ、緊張感は……」
「うん。いいよ、正直で。」
被せ気味に答えられた後。一瞬の沈黙。
雪はテーブルの上のジョッキを見つめながら、かすかに笑った。
「怒りたくて怒ってるわけじゃないんだよ、わたし。
でも、披露宴って一瞬で決まるじゃん。空気も、流れも、ゲストの気分も。
だから言い方が強くなる。手を抜けない。……そういうの、伝わらないよね。」
「……ちゃんと、伝わってると思いますよ。」
そう言うと、鼻で笑いながら小さく首を振る。
「伝わってたらさ、裏で“氷の女王”なんて呼ばれないでしょ。
今日もさ、スープのタイミングで注意したら、あの子……泣きそうな顔してた。」
彼女の指先が、いつの間にか震えている。
そして、ぽつり、ぽつりと、声が滲みはじめた。
「……わたし、本当は、誰にも怖がられたくないのに。でも気づいたら、ああいう言い方になっちゃう。どうしてだろうね。性格、悪いのかな、わたし……」
「……そんなこと、ないです。」
言った瞬間、雪は一度だけこちらを見た。
その目には、仕事中には絶対に見せない、弱さがあった。
「……酔っ払ったな、わたし。なんか、ダメだ……あは……」
静かに泣きながら、笑った。
その顔があまりに柔らかくて、誰も言葉をかけられなかった。
唯一の例外が──俺だった。
こんな顔、誰も知らないままで終わるの、もったいないねえよ。
そして翌週の土曜、また披露宴の幕が上がる。
「なにぼーっとしてんの、アサ! 次、口直しのシャーベットでしょ? 走りなさいよ。」
まるであの夜の笑顔が幻だったかのように。
でも、たまにふとした拍子に見せる、ふにゃりとした笑み。
それを知ってしまった誰かは、もうきっと彼女から目が離せなくなる。