リョクインノコウ
夢、と口にすると、人は決まって甘やかな響きを期待するらしい。
まるでそこには希望が、あるいは何某かの願望が凝縮したものであるかのように扱うのは、それこそ夢見がちとしか言い表しようがない。
なぜ、人は忘れることが出来るのだろう。
世の中にはあまりにも純然とした悪意、絶望、恐怖。
そんなものがまるで日常そのもののような顔をして転がっているのに。
したり顔で囁き交わす噂の中に潜ませた毒が、ゆっくりと回っていくように。
悪意や絶望は、ゆっくりと染み込んで来るものなのだ。
例えばそう、あの叢の影、ひっそりと覆い隠された朽ち果てた場所。
あれも言わば夢そのものだろう。
悪夢、という名の。
粘りつく熱を踏み締めるようにして、影ひとつない道を歩く。
この頃は夏の盛りになると、比喩でも何でもなく、道路のアスファルトが靴底に粘りつくのだからタチが悪い。
もっとも、私の足が重いのは実際に気を抜けば足を取られる灼熱の悪路のせいだけとは言えない。
行きたくもないのに足が向くまま、こうして歩きたくもない真夏の舗道を歩いているからだ。
こうして歩いている間、私はいつも思う。
これもまた、醒めない悪夢なのだと。
行きたくもないのに、体が覚え込んでしまった道をひたすら歩く。
心に満ちて来る負の感情を刻み込むように、払い落としていくように、一歩一歩。
私は、彼らのことが嫌いだ。
心底厭わしい。
それでもこの身に流れる血が糸になり、ギリギリと私を縛り、この場所へと向かわせる。
「ごめんください」
ほんの小さな子どもの頃から、一度も変わっていないかのような木製の引き戸が、カラカラと音を立てる。
途端に頬を撫でるのは、土のような黴のような古いものの匂いを含んだ空気だ。
土蔵のような、どこか滞留した時間を感じさせる空気に目をすがめる。
病身の母に請われなければ、誰がこんなところになど。
「あらあら、まぁまぁ。やっと来たんねぇ〜」
転がるように暗がりから現れた、丸い人影に意識して笑みを貼り付ける。
「お久し振りです。おばさんもお元気そうで」
「ぃいやぁ〜、見違えたわぁ。よっちゃん? あんの山猿がぁ、すっかり都会っ子ねぇえ!」
見違えたわぁ〜。と騒ぎながら増殖したおばその2に、意識して口角を上げる。
抗う術すら持たない非力な私にとって、笑顔だけが武器で、盾で、杖。
誰かにとっては悪意ですらない言葉に隠された濁り切った感情に、呼吸を乱される。
締めあげられるように息が出来なくなるのを、無理矢理笑顔を作り出して支える。
あくまでも、名代なのだから。
義理を欠いてはいけないと、うわごとのように繰り返してどうにか行こうとする母を、押し留めて来たからには役目を果たさなければならない。
物思いに沈んでいる間にも、人が増えていく。
心の中にある、形の分からないモヤモヤとした不快感のような違和感のような、そんな陰りが払っても払っても、まとわりついて離れない。
どれもこれも、見覚えがあるような顔ばかりなのに、妙にしっくりこないようなちぐはぐな感じがする。
そもそも、いつも間違えられるのだ。
さほど顔立ちが似ているとも思えない母と私を、この人たちはいつだって間違える。
明らかに興味を持ってくれていない人たちのことを、知りたいとも思えない。
だからたぶん、昔から見分けがつかないのだろう。
きっとこのモヤモヤした不快感は、そのせいだと無理矢理自分を納得させて、気合を入れる。
どんなに嫌でも、引き受けた以上は役目を果たさなければならない。
役目を、果たさなければならないのだ。
「ねぇ、入らないの?」
急に、背後の、ごく近い場所から男の声がして我に返った。
足元に目をやれば、玄関の敷居をまたいでもいない自分がいて、目を上げてそこにわだかまる暗がりに、不意に心細くなる。
外の日差しが強すぎるからだろうと思う。
でも、古い日本家屋独特の、開放的なようで奥が見通せないその構造に、訳もなく足が竦む。
「ああ、やすひこ? あんたが来たん?」
「あんたでも良いんよ。もう、とぅちゃんは来とるしぃ」
「はよ、入りぃ」
足が竦んでまごつく私に興味を失った様子で、おばさんたちは、私の背後にいる男に向かって手を伸ばすと、強引なぐらいの力で、その手を引く。
「や、ちょっと、え、まっ……」
戸惑ったような男の声と、その姿が、確かに目の前にあるはずなのに。
なぜか、その姿が幼児が黒い鉛筆かクレヨンで塗りつぶしたような、いびつな線の塊みたいになる。
その様子に私は、ああ、あの人が連れていかれるんだなと、妙にはっきりとそんなことを思った。
思わず息を飲んだ私の前に、不意に大きな黒い蜘蛛が現れた。
『あんたも一緒に行くのかい?』
不思議と、何を問われているのか分かった。
ひしめいていたはずのおばさんたちは、なぜかいつの間にかいなくなっていて、大きな蜘蛛の向こうに何匹か同じような蜘蛛が見えて、私は不思議とそれがあのおばさんたちだと思えた。
「私は…駄目、行かない。……私の母も、駄目だからね! 連れて行ったら、駄目なんだから!!」
『分かった』
恐ろし気な大蜘蛛が、かすかに笑ったような気がした。
それは妙に気安げな笑い方で、不思議と、私はその人を知っているような気がした。
ふと、全身が回転したような感覚に襲われて、目を開ける。
そこは、見慣れた自宅のベッドの上で。
バクバクと、心臓が早鐘を打っている。
私は、昨日祖父が亡くなったばかりだったことを思い出して、ゾクリと背筋を震わせた。
「あのね、お母さん。私、夢の中で古い家をお母さんの名代で訪ねてたの」
肺炎で寝込んで、何日も朦朧としていたらしい私の言葉に、母が顔色を変える。
その家の様子と、そこに辿り着くまでの道筋を説明する私に、母の顔色が少しずつ青褪めていくのを見て、私は自分で立てた仮説が正しいことを悟った。
「それ、お父さんの実家だわ。だけど、あそこは跡取りがいなくてね、絶えてるのよ。だから今は、誰も住んでいないはずなの」
嫌な予感に、背筋を汗が伝っていくのを感じながら、私は思い出せる限りその場にいた人たちの特徴を伝える。
「出迎えてくれたのは、本家の百合さんで、その後出て来たのは、多分、志佳さんと伊予さん、宇多さん、幸さん……それで、ゆうちゃんの背後に立っていたのは、厚木の康彦さんだと思うけど」
困ったように眉を下げた母の言葉が終わるかどうかのうちに、電話が鳴る。
2人して飛び上がるほど驚き、告げられた親戚の名字に、嫌な音を立てる心臓をなだめながら電話に出て、和やかに挨拶を交わした母が、続く言葉に息を飲み、顔色と返す言葉と、両方を失って重い沈黙が落ちた。
恐らく、ほんの10秒にも満たないような沈黙だったのだろうと思う。
それでも、それは本当に重い、息も忘れるような沈黙だった。
「ごめんなさい、こちらも、私と娘も寝込んでいて父の葬儀にも参列できないような状況だから。……はい、はい、お知らせいただきましてありがとうございます。どうか、お気を落とされませんように。お体大事になさってね。それでは、ごめんくださいませ」
丁寧に受話器を置いた母の、唇が震えているのをぼんやりと見る。
「あのね、ゆうちゃん。昔あなたのお祖母さんが言っていたんだけど、お祖父さんの方の本家が絶えているのは、年長者が亡くなる時に、必ずお供を連れて行くからだって」
続く言葉が、分かってしまった。
「厚木の康彦さん、昨日の夕方ごろに亡くなったんだって。急に容態が悪くなって、それで……」
「じゃあ、あの夢に出てきた人たちは」
私の言葉を遮るように、母がポツリと呟く。
「私も、ついさっきまで夢を見てたの。お父さんを探していたら、大きな蜘蛛が出てきて、『ここはお前の来るところじゃないよ、二度と来てはいけない』って追い返されたの」
よく見れば、母もパジャマ姿で、ようやくはっきりした来た頭を抱えて、私は思わずうなった。
そういえば、私が持ち込んだ肺炎が母にもうつって、2人で高熱を出して寝込んでいたことをやっと思い出した。
「子どもの頃、お父さんの実家に行った時に近所の子どもと遊ぼうとしたら、断られたの。あの家は、禍がついているから、あの家に近寄ったらだめだって言われているって。それを伝えたら、根も葉もないただの噂だとお父さんたちにそれはそれはひどく叱られたのだけど」
思わず、どちらからともなくため息を吐く。
あの時、敷居をまたいでいたら。
蜘蛛の言葉に、一緒に行くと答えてしまっていたら。
そう思うと、高熱に体力を奪われて力が入らない体が、更に重たく、眩暈までして来る。
「思えば、お兄さんが亡くなった時も、父方のおじさんが同じぐらいに亡くなっているのよね」
私たちが女だったから免れたのか、それとも、あの蜘蛛が守ってくれたのか。
ただ、あの悪夢は、噂は。
「根も葉もなくなんて、なかったわね」
ポツリと呟いた母の言葉が、妙に胸に迫った。
拝啓 緑陰の候、いかがお過ごしでしょうか。
あの時、垣間見たあなたのことが、今でも目の裏に焼き付いております。
粋に着物を着こなしたきりりとした立ち姿が、母に生き写しだったことは、口外せず墓場まで持って行こうと思います。
やはり、噂は本当だったのですね。
この先も、ご尊名を伺う機会はないかと存じますが、あなた様のご冥福をお祈り申し上げます。 敬具
あなたの曾孫より
曾お祖母様
一族の秘密は、緑の影濃い、今は絶えた家の裏庭にひっそりと眠っている。
その人は、存在を隠され、緑陰に沈む。
語られることのない悪夢の記憶。
それを紐解くものは、まだいないから。
だからこれは仮初の、根も葉もあるただの噂。