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最後の審判

作者: 齊川萌

 少女は未成熟な身体と、成長した卵型の顔を持っていた。凛とした瞳と薄皿のような唇だけを見れば、知的な大学教授のような印象を得るが、視線を落とすにつれ、生意気な少女へと退行する。全体で見れば、顔つきも身長も「少女」と呼ぶのがしっくりくるが、ぶきみであった。

 少女は歩道橋の手すりに立ち、青年を見下ろしていた。緑と白のボーダー柄のポロシャツに、ベージュのチノパンを履いている。その猫背で頼りなさげな顔を見れば、いじめられっ子と呼ぶのがしっくりくるが、「青年」であることに違いない。

「死のうと思ったの?」

「そう。だからどいてくれよ」

「だめよ」

「どうして」

「死ぬ前に、やらなきゃならないことが、あるでしょう」

青年は腕を組み、考えた。思い浮かんでくるのは、写真でしか見たことがない、死んだ両親の顔だけだった。青年は首を横に振った。

「ぼくにはもう、なにもないよ」

「いいえ、あるわ」

「なんだい」

「いいことを三つしなくちゃならないのよ」

「なるほど。でも、そんなことをしなくても、死ねるじゃないか」

「あなたのためよ」

 少女がそう言うと霧が立ち込め、晴れると彼女は消えていた。青年は不思議に思って歩道橋の下を覗き込んだが、くすんだアスファルトが横たわるだけだった。憎くて仕方がなかった世界が、おもちゃのような下らないものに思えた。

青年はひとまず、歩道橋を降りた。

知らない街に行こうと、電車に乗った彼は、腰が曲がったおばあちゃんに席を譲った。彼はおばあちゃんに、飴玉を一つもらった。

「優しい君に、あめちゃんあげるよ。ありがとうね」

 青年は電車を降り、行く当てもなく歩いていると、大きな川に出た。河川敷には緑が整備され、家族連れやカップルがちらほらとくつろいでいる。

河川敷に下りると、足元にボールが転がってきた。彼はこちらに走ってくる男の子に気づいて、ボールを投げた。しかし、強風が吹き、ボールは川へと落ちてしまった。

 青年はチノパンが濡れるのも気にせず、川へ入っていき、今度こそ男の子の手にボールを渡した。男の子はポケットから飴玉をひとつ出すと、青年に差し出した。

「お兄ちゃん、かっこいい! ほんとうにありがとう!」

 青年は、母親の元へ走り去っていく男の子の背中を、微笑ましく見つめていた。

 河川敷に腰かけ、しばらく空を眺めていると、雲の流れが速くなってきた。雨が降りそうだ、と彼は立ち上がり、早足で歩き始めた。しかし、雨宿りができる場所など知らない。

 青年は、あの歩道橋へ戻ることにした。そこから飛び降りることだけが、彼の中で確かなことだったからだ。

「ここまで来て、ふたつもいいことをしたんだ。帰り道にあとひとつくらい、チャンスはあるだろう」

青年は再び歩道橋に辿り着いたら、すぐに実行に移すことを心に決めた。

 しかし、駅におり立っても、歩道橋までの道のりを歩きだしても、一向に困った人は現れない。このままでは歩道橋に到着してしまう。

 青年は、焦る気持ちを抑えて歩き続けた。歩道橋が見えてくると、彼は思わず笑っていた。

 歩道橋の手すりから、誰かが身を乗り出しているのだ。死のうとしている! 青年は走り出し、階段を駆け上がった。

「待って!」

 手すりから身を乗り出していたのは、「少女」だった。しかし、先ほどよりも顔がいくらか幼くなっていて、全体のバランスが整えられている。青年を振り返った少女の顔は美しかったが、彼を知らないことを物語っていた。

 青年が彼女にゆっくり近づいていくと、少女は彼に向き合うようにして立った。

「死のうとしているのかい」

「そう」

「だめだ」

「どうして」

「死ぬ前に、やらなきゃならないことが、あるだろう」

少女は首を横に振った。

「私にはもう、なにもない」

「いいや、あるさ」

「なによ」

「いいことを三つしなくちゃならないんだ」

「なるほど。でも、そんなことしなくたって、死ねるじゃない」

「……ぼくのためだ」

 青年は少女の手を取り、階段を駆け下りた。少女の手は冷たかったが、青年の気には留まらなかった。階段を降りて少し歩いたところで、二人は立ち止まった。

「きみのおかげで、いいことが三つそろったよ。ありがとう」

 青年は、ポケットの中の飴玉をふたつ、少女の手に握らせると、元来た道を走り出した。

 少女はその背中を見送りながら、ピンク色の飴玉を、口に放り込んでつぶやいた。

「行き先が決まってよかったじゃない。天国は無理でも、地獄の方がまだましよ」

 少女の周りに、たくさんの「アンバランスな人間」が集まってくる。彼女がそれらを引き連れて歩き出すと、霧が立ち込めてくる。

少女が青年を見ることは、二度となかった。


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