月夜の悪夢
辺りを包む夜の匂い。
月の光が静かに照らし出すのは、人通りのない路地。
あれ……。
私、なんでこんなところに居るの?
芳乃は大きく首を捻ると辺りを見渡した。
土がむき出しの道の両側には木の板を張り合わせた塀と、たいして珍しくもない平屋建ての家が軒を連ねている。
何の変哲もない下町の風景だが。
「ここ、どこ?」
見覚えのない場所であるどころか、何故ここにたっているのかの記憶すらない。
服は流行りの高い襟と大きく膨らんだスカートに焦げ茶色の編み上げブーツ。
女学校から帰ったそのままの姿だ。
とにかく、こんなところに立ったままではいられない。
芳乃は空に浮かぶ大きな月を正面に足を踏み出した。
幸い立ち並ぶ家からは明かりが漏れているし、帰宅してくる人に出会えればここがどこかも分かるかもしれない。
辺りを伺いながら歩くうちに、妙な違和感を感じて芳乃は足を止めた。
相変わらず人気のない道は、月の明かりのもと長く長く伸びている。
左右には木の板を張り合わせた塀。
何の変哲もない、平屋。
何?
芳乃自身もなんだか分からない感覚に焦燥が募る。
明かりの漏れる窓。
「あっ」
違和感の正体に、芳乃の白い手が唇を覆い隠す。
目の前の家も、1つ手前の家も。
これから向かう先の家々も……。
「全て同じ家」
同じ門に同じ板塀、同じ窓から明かりが漏れている。
慌てて視線を向けた向かいの家々さえ、全く同じ造り。
悪夢が現実となって目の前にある。この異常な感覚に「逃げなくてはならない」と激しく身体が突き動かされた。
どこに向かえばいいかなんて分からないまま、気力を振り絞って足を動かし続けた。
きっちりと詰まった家は路地のひとつも見せずに、芳乃を嘲笑ってくるかのようにさえ見えてくる。
息苦しさに目眩がした。
足がもつれて崩れ落ちそうになり、芳乃の足が止まる。
通りは相も変わらず明かりを蓄えた窓が規則的に闇夜を照らしていた。
「い……やぁ」
そんな発狂しそうな心が大きく波打った。
月明かりの下を人影が歩いてくる。
少し先の弱々しい光を落とす街灯の下には、背の高い男性のフォルムがはっきりと姿を現した。
「あっ、あっ」
芳乃はすがる思いで、もがくように進んでいく。
洋装の男性はそんな芳乃に気がついたようで足を止めた。
街灯の下で煌めく銀色の髪が、さわりと揺れる。
「ヨシノ」
聞き覚えのある声に、美しく整った顔が微笑んで芳乃を迎えてくれた。