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産後の肥立ちと福松 改め

 『キク』は実家の使用人の娘だ。

 年齢は私『マツ』の三つ上、今年で二十六歳になる。

 彼女の家系は彼女の祖父祖母の代から私の実家の使用人で今も実家の離れに住んでいる。

 彼女自身は三年前に他の使用人と結婚しすでに二歳の女の子ももうけているのでもう四世代の家族がその離れに住んでいる。

 昔から使用人の多かった我が家とはいえ、そろそろ離れが手狭な様子であった。


 キクの家系にはひとつ大きな特徴がある、それは性根が明るい事だ。

 何しろ家族そろってよくしゃべる。

 彼女のおじいちゃん、おとうさんといった男衆も女に負けずかしましい。

 それこそ毎日気がついた事や変わった事から始まり、知ってる事、思った事を全部しゃべらないと気が済まない質のようだ。

 そして最後は大笑いする。

 この大笑いこそがキクの家族の美点。

 私の実家がこの家族を重宝する大きな理由だ。


 武家という堅苦しく緊張を伴う我が家が忘れそうになる『笑い』の感情を高水準で維持しているのはキク達がいるからだ。

 おかげで実家はにぎやか。

 不思議なものでこの美点は病気のように伝染していくものらしい。

 キクの夫となった使用人も知らぬ間に底抜けのおしゃべりになり実家を一層明るくしている。


 今キクはその実家から徒歩十分の私の新居に押しかけてかいがいしく世話を焼いてくれている。

 幼い頃から世話を焼きたがる性分だったが今回の出産に関しては私が死にかけた事もあり、いつにもまして私を働かすまいという強い意思が感じ取れた。

 ただ手も動かすが口もそれ以上に動かし「おひいさん、おひいさん」とかしましい。

 実家で両親が何を食べたとか祖父はアジの骨がのどに引っ掛かったとか些細なことも面白おかしくしゃべり続けている。

 キクなりに私を退屈させまいと気を使っているのだろう。

 私は持ち前の笑顔を絶やさぬようにしてキクの気遣いを汲んだ。


 さて布団の上から移動する事もままならない中、私は自分の記憶と『マツ』の記憶の擦り合わせを綿密に行うことにした。

 まずは目につくもの、手の届く範囲にある物から始まる。

 箸、食器の類は漆塗りで、現代社会のプラスチック製品よりよほど存在感が感じられる。

 身分としてはなかなか高めの家柄なのを再認識。

 そしてこの新居、旦那の『芝龍さん』が今回の結婚生活のために準備したものだ。

 船着き場から近い高台に構えられたその新居は小ぶりだが土間のある家。

 太く立派な柱を基にして組まれ、壁は真っ白な漆喰で畳の部屋と板敷きの部屋がある。

 高価な瓦葺でしっかりとした造りのこの家はなまなかな大風(おおかぜ)くらいではびくともしないだろう。

 何よりその家を守るように傍らに大きく根を張ったナギの巨木が、その家にある種の威厳をもたらしている。

 そして家から一歩、踏み出せば港全体を一望できる贅沢な立地だった。

 尚、土間の横にある使用人部屋を目ざとく見つけたキクは夫を残しさっさと娘と引っ越してきた。


 私が『マツ』になって、いや?『マツ』が私の魂と記憶を取り込んですでに一週間、いろいろと気が付いたことがある。

 今こうやってものを考えている意識はもうどちらのものでもないようだ。

 肉体に残った意識や記憶は魂の記憶と混ざり合い、もう区別がつかない。

 そして現代社会の知識も決して忘れることが無いほどに記憶に彫り刻まれている。

 少なくとも栄養、衛生の概念はこの時代を生き抜くに大いに役立つだろうと思っている。

 なにより元の私にとっても『マツ』にとっても初対面となる新しい生命。

 生まれたばかりの可愛らしい男児。

 彼をちゃんと育て上げるには必要不可欠な知識なのだ。


 私は『マツ』より更に幸せになってほしいという意味でこの子に『福松』と名付けた。

 キクによるとこの時代、女が子供の名前を付けるなど滅相もない事だそうな。

 その家の主人の面子をつぶす行為とも取れるらしい。

 これは『マツ』の記憶にも残っていた知識だが実際に人の口から伝えられるとそれはそれでなるほどといった気持になる。

 歴史には詳しいつもりでもこういった雰囲気は書物から感じ取る事は出来なかった。

 特にそういった部分に武家である私の実家はうるさいので今後とも注意が必要だ。


 ただ夫である『芝龍さん』はその部分にあまり頓着がないようで喜んで『福松』という名に同意してくれた。

 こういう部分だけ見てもこの人に嫁いでよかったと思う、最も私の機嫌をとるふりをして案外私の方が手のひらで転がされてるのかもしれないとも思っている。

 そんな私の思惑を知ってか知らずか我が旦那様はひとしきり福松を愛でた後、昨日からまた航海に出ていた。

 今回の航海は近場ちかばでの行商が中心らしく三日ほどで戻ってくるらしい。


 動けないなりにそういった事を考えていると横においてある綿のおくるみがもそっと動く。

 福松が起きたようだ。

 私はゆっくりとおくるみを覗き込み、福松の様子をうかがう。

 ふにゃっとした顔の両脇に半開きのこぶしが二つ添えられている。

 赤ちゃんの手を紅葉に形容する事がよくあるが本当にそんな感じだ。

 見えてるのか見えてないのかよくわからないが細い目がちょっとだけ開いた、そして小さな鼻の下にある唇がもごもごと動き始めた。

 ああお腹が減ったのだな。

 福松のその愛らしい表情を見た途端、急に乳が張り出すような感覚を覚える、肉体が子の欲求に反応してるようだ。

 おくるみのまま福松を膝に抱え、口元に乳首を寄せると小さい口を一生懸命動かしながらお乳を吸い始めた。

 その様子を見るだけで私は今まで感じたことが無い幸福感を得ている。

 いつの時代であれ人が人である限りこの感情は決して変わる事のない感情なのだろうと思った。

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