1-1 「序」
これから記する一文は、良い歳をした大人が綴るにはあまりに稚拙で、正気を疑われ、もしかしたら憐れにすら思われてしまう物かも知れません。
しかし、一人で奇妙な妄想を弄んで、頭をグラつかせながら生きていく位なら、もしかしたら似たような考えを持つ方がいるやも知れないことを期待して、いっそ吐露してしまった方が良いのではと思い、書き綴ってみます。
そんなに長々とは書かないつもりなので、暫しお目汚しをお許しいただければ幸いであります。
夢について語ります。
将来の希望とかではなくて、睡眠時に『見る』夢のことです。
タイトル詐欺ではないかと言われそうですが、これは、夢に対する認識が旧来の物と将来的には変わってくるのではないかという意味でのものです。
先述で夢を『見る』とカッコ書きしたのは、先ず第一に夢とは、『見る』で正解なのかという疑問があったからです。
いつの頃から夢を『見る』と表現するのかは判りませんが、見ると云うのは、テレビとか映画とかみたいに、映し出される画像を眺めることなのでしょうか?
果たして夢とは見るだけにとどまるのでしょうか?
夢には『自分』がいるはずです。
○○へ行く夢。
○○と喧嘩する夢。
見る、だとしても、見ている自分は画面の外ではなくて中のはずです。
なので、テレビや映画みたいに画面の動画をただ眺めるだけではなく、夢は双方向性のある体験、つまりゲームのプレイに近いのではないかと思うのです。
かと言って、それについて簡単に首肯出来ない方も多いとは思います。
その理由は『夢の中では自分の思いのままに動けないから』なのではないでしょうか。
能動的になれず、ただ受動的に『体験』するしかないから、夢は映像のようであると思われています。
ここにも私は疑問があります。
それらについての考察は後々述べたいと思いますが、簡単に言えば夢の中の自分は、『表層的な記憶や経験に基づく判断が出来ない』状態なのではないか、というのが私の仮説です。
前段で私は、夢は映画ではなくてゲームに近いという仮説を述べました。
夢の中での人物なり場所なり、もしかしたら言葉なども、夢を見る人のその時その時の、記憶が反映されていると云うことには、皆さんご同意いただけることでしょう。
そこだけを捉えると、夢というものに関する一般的な認識である、『夢とはつまり、脳内の情報の整理であり、録画情報の編集みたいなものだ』という結論に行き着くことになるのかも知れません。
上記の考えを主張する心理学者の中には、『夢の中では脳が知り得ること以外は起こり得ないはずで、夢が荒唐無稽に思う方は、単なる記憶違いに気付いていないだけだ』と言い切る方もある。
そんな意見に接していたからこそ、私自身もこれからお話する自分の考えについて懐疑的でありました。
しかし、夢は映像ではなくゲームに近い、という考え方を念頭に置くと、夢に対する認識が違ってくるように思えるのです。
先日私は、みなさんご存じ『鬼○の刃』を一気読みしました。
そしてその日の夢に『禰○子』が出てきました。
では私は鬼滅の刃の夢を見たと言えるのでしょうか?
『そんなの当たり前ではないか』と言われるでしょう。
でも夢の中の小さい禰豆子は、私の家の近所の公園でブランコに乗ったり、シーソーをギッタンバッコンしていました。
私の認識では禰豆子なんですが、その禰豆子の行動は、先日公園で遊ばせた時の私の一番下の娘の動きだったのです。
もしかしたら私の鬼滅の刃の読み込みが甘かったのかもしれません。
ただただ『禰豆子はめんこい(東北以北の方言で可愛い)なぁ』という感想だったのがいけなかったのでしょう。
夢の世界は、鬼の跋扈する大正時代ではなくて、先日の休日過ごした近所の公園でした。
つまり、私の見た夢は、娘を公園で遊ばせた時の夢で、娘が禰豆子に変換されていたのです。
夢が映画だとしたら、こんなエラーは有り得ないでしょう。
20世紀初頭、ジークムント・フロイト等の心理学、精神分析学者達が、直近の体験が夢に大きな影響を与えている(前日の記憶)などと記していたり、夢の研究が積極的になされていた頃は、映画の黎明期と重なります。
『夢には色がない』などと主張する一文を目にした時、私は、もしかしたら、その夢に対する認識は、当時の白黒映画が念頭に有るのではと考えました。
更に踏み込んで考えれば、白黒ではあるが、初めて動く画像に接した人々が『これは夢と同じなのではないか』と思ったことから、夢への研究が、映画との比較という形で加速したのではないかとも思えるのです。
当然、当時コンピューターゲームは無かったわけで、私は新しい取り組みとして、夢とゲームとの比較を行いたいのです。
夢はただ能動的に見させられるのではなく、一定のルールに従いプレイさせられる双方向性のある、体験ではないか。
そしてその体験には、何らかの意図と云うか目論みのような物があり、端的に表現すれば『教材』のようなものではないか?
私の妄想に暫しお付き合い頂ければ幸いでございます。
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若い頃から予感めいた物はあった。
その朧気な予感が予感のまま、私の思いの中でぶくぶくと肥大化していったのは、ここ十年くらいである。
家庭を持ち、冒険心などは傍に押し遣り、老いの足音に怯える男の毎日は、ある意味単調であります。
しかし、単調故に気付くこともある。
年に数度くらい、定期的に体験する、ある種の夢について。
直感として私は、それらの夢を何らかの試験ではないかと思いました。
誰が施した何の為の試験なのか?
そんな事は知りようもない。
いや、それらについても仮説はあるが、その仮説は荒唐無稽が過ぎるので、此処では言及しません。
仮説は兎も角、私が試験ではないかと疑う夢を、何種か後々書き記してみようと思います。
皆さんにも共感いただけると思うのですが、夢を正確に説明するのは、なかなか難しいです。
細かい部分は特に。
何より一番の障害は正確に憶えていられないことでしょう。
なので、かなり曖昧模糊な文章になるとは思いますが、何分夢なので予めご了承ください。