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牧本荘の307号室

作者: 梨川 紀尾井

時間は時にはやく,またゆっくりと過ぎてゆく。

私たちは川を登る鮭のように一方の流れにしか行けないのが時間である。毎日の流れの中で誰しもが逆方向に流れればと願うことがあるだろう。過去に戻って真相を確かめたいと願ってしまう。過去に引きずられないようにしても人は過去からできている。

 とある町ではこんなうわさ話がある。『この町にある牧本荘の307号室にある二つのベッドの右側に夜に横になり,戻りたい時間を正確に頭で考え体が下に沈む感覚をイメージして寝ると過去にとぶという。しかし過去を変えることはできない。朝が来るまでには必ず戻らないと,その世界線からは抜けられなくなる。』

 


1人目

 Aには既婚者で子供もいた。ここに来る前に自宅に帰る半分だけ書かれた離婚届と指輪が置いてあった。置手紙には「実家にいます。少し疲れました」の文字が書かれていた。何が悪かったのかわからず途方に暮れて仕事にミスが目立ち休暇命令を受けこの宿についた。休暇は3日間あり2泊する予定であった。

噂は聞いたことがあったが興味本位で戻りたい過去を思い出して寝た。

 彼が戻りたいのは仕事が忙しくなる前のあのころだ。


朝,目が覚めるとそこは自宅の布団であった。横には妻と子が優しい顔で眠っている。起こすまいとゆっくりと会社に行く準備をする。そして家を出る前に静かなリビングを見る。そしてふと目に入ったのはなぜか今日に赤い丸がついているカレンダーだった。その日は何気なく過ぎてしまったが,今回は妻と子の様子をじっくり見てみる。

 妻は空になった布団を見つめ悲しそうな顔をしている。子供はまだ起きていない。妻は子供のお弁当を作り,洗濯をし,子供と一緒に朝食を食べる。

 子供が妻に聞いた。

「パパはいつ帰ってくるの?」

妻は戸惑った顔を見せながら言った。

「今日には帰ってくるよ」

子供は喜んだ顔をして

「やったー!今日はパパにお願いするんだ。」

はしゃぎながら子供は朝ごはんを済ませた。しかし妻は少し不安げな顔をしていた。

その後も子供を送り届け,家事をこなす妻。その顔はやはり不安げな顔をしている。

 妻は誰かと連絡を取るそぶりも見せない。ただ専業主婦らしいことしかしていない。買い物に行き,洗濯物を取り込み,夕飯の準備に取り掛かる。材料が少し多い気はしたが,料理をする妻を見ていないせいか何も気にならなかった。いくら考えても彼には赤い丸と離婚届の意味を考えてみてもさっぱりだった。

 


夕方になり子供が家に帰ってきて,妻は子供向けのテレビを一緒に見ている。

7時を過ぎるころ子供が言った。

「パパはいつ帰ってくるの?今日は僕の誕生日でしょ?ママは言ったじゃん,パパはかえってくるって。ママのうそつき」

妻は困惑した顔で電話をした。

彼はようやく思いだしたのだ。会社での残業中に電話がかかってきて,ぶっきらぼうに切ってしまった事実を。



朝の陽ざしが彼を呼び覚ました。やっと彼は気づいたのだ。仕事に熱中するあまり大事な息子の誕生日すら忘れていたことに。熱中するあまり家族の変化に気づかなかったことに。

目覚めはいいとは言えないが今すぐに伝えなくてはいけないと思い,急いで妻の実家に行くことを決意する彼であった。



2人目

午後9時を少し過ぎたころに目を少し赤くした女子高生のBが307号室に泊まりたいと牧本荘に訪ねてきた。この日は珍しく予約が入っていなかったので従業員はBを通した。

Bは部屋につくなり右のベッドにうつぶせになり顔を枕にうずめた。彼女は義理の両親と喧嘩をして家を飛び出して今に至っている。原因は高校生なら陥る人間関係の問題や大学受験,いじめなど彼女はたくさんの問題に押しつぶされ,助けを義父母にと求めても義父母は

「ほとんどの学生はみなこれくらいのことは乗り越えて大人になる。甘ったれるな。」

といい彼女の思いをくみ取ることは無かった。つめたい義父母の言葉につい彼女は

「本当の両親でもないのに私に口出しをするな。あんたたちなんて大っ嫌い!」

と叫んで家を飛び出してしまった。

彼女の最初の記憶は義理の両親のことだけであった。彼女は喧嘩した直後で自分が愛されていないと思ってしまった。本当の両親ならば自分をちゃんと理解してくれる。そう信じた彼女は自分に対する義父母の思いを知りたく,生まれた日のことを考えて泣き寝入りした。

 今から18年前の10月31日彼女の身に起きたことはとてつもなく恐ろしいものであった。両親は双方の両親から祝福されて結婚をしたわけではなかった。反対を押し切って連絡先なども教えない。いわば駆落ちであった。そして彼女が生まれた日に起きたことはとても大きな地震であった。両親は生まれたばかりの彼女に覆いかぶさるように彼女を守った。地震の影響で病院は8割がた全壊してしまった。救急隊は泣きじゃくる彼女の声を頼りになんとか救出した。しかし両親はそのまま亡くなった。病院に残されたカルテからなんとか両親の親たちを探し,育ててもらうように説得した。駆落ちで生まれた子供に愛情を注げないと言いながらなんとか育てていくことを決意する父方の両親であった。いくら駆落ちといえど二人の体でなんとか守られた小さな命。愛情をもって時に厳しく,また優しくBに接していた。義父母は生まれて間もなく大きな声で泣いているBに優しい声で

「私たちが何としてでもお前を立派に育てて,天国にいる両親に恥じない素敵な女性に育てる。だから安心していいんだよ。」

 その言葉を聞いて朝日がBを包み込んだ。Bはわかっていた。義父母の本心では愛してやまないが甘やかしすぎてはBのためにならないと思いあえて厳しく接していた。愛情の裏返しというものであった。

 優しい朝日と心地よい風がふく中でBは今までの義父母がしてくれた数々優しさに感謝をして部屋を出る準備をするのであった。


 3人目

がっしりとした27歳のCは記憶力に関しては人並み外れていた。昔にあった出来事や高校時代の友人の誕生日など一度記憶に結びつけてしまえば簡単に忘れることは無かった。その記憶が彼を長年苦しめる。中学生のころに付き合った彼女の誕生日,名前の由来,振られた日付などをいまだに覚えていた。すでに10年以上の歳月が過ぎていた。こんなにも昔のことに覚えている彼にとって高校生の時に起きたことや大学受験に失敗した浪人生のころにあったことなどを忘れることは不可能に等しかった。また彼は些細なことでも精神にダメージを受けてしまう感受性の高さも持っていた。彼がふとした時に思い出し涙することがある。それは就職と同時期に付き合い始めたDの存在である。

付き合い始めて2年がたったある日突然彼女との連絡が取れなくなった。いつものように連絡をしても既読にならなかった。会社につくと彼女のデスクには何一つとして残っておらず不振に思い,会社の名簿を調べると彼女の名前が消えていた。上司も一身上の都合の一点張りで彼女について教えてくれはしなかった。彼女の交友関係は彼には分らず途方に暮れるしかなかった。仕事後に彼女のアパートに行くとそこに彼女の名前はなかった。何かの事件に巻き込まれたのか,それとも誰にも言えない何かがあるのかと様々な憶測が彼つつむともに,何も言わなかった彼女に対する不信感を持つようになった。その中でもCの頭にはある一つのことだけは揺るがなかった。

彼が知りたいのはなぜDが何も言わずいなくなったかだけであった。

彼女と別れて3年が過ぎようとする。この町にもデートで何度か来たことがあった。そのころに彼女が言っていた牧本荘の307号室の話をわずかな希望としてCは宿泊をするのであった。

 Cは連絡が取れなくなった日の前日に戻ることを願っていた。寝る前に2年前の9月12日,日曜日と確認を済ませると睡魔に襲われ寝た。

 彼が願った通りの日に戻ることができた。彼女は日曜日にもかかわらずスーツを着て出かけるようだった。後をつけると彼女は会社に入って行った。そのままついていくとCを除いた同僚たちが皆集まっていた。すると彼女が皆の前であることを話し始めた。

「私は生まれつき心臓に重い病を抱えており25歳を迎えることはできないと医者から言われていました。そのため会社を退職して少しでも進行を抑える努力をしたいと思います。働き始めてわずかしかたっていませんが,お世話になりました。私からの最後のお願いがあります。C君には何も言わないでください。彼の場合ショックを受けすぎてしまうので決して言わないでください。」

 彼女はそういうと同僚たちはみなうなずくのであった。彼女は花束をもらうと静かに会社を後にするのであった。

 その光景を見たCはその場に泣き崩れることしかできなかった。


 目が覚めると顔から流れ出るもので枕はぬれていた。つめたい風がわずかな隙間から入り彼のほほをなでるのであった。

Cのアパートには小さな封筒に入った手紙と写真が届けられ,それを見てまた涙するCであった。


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