セピア11 〜エピローグ〜セピア
ぽかぽかと心地よい、四月のある日曜の午後。ここ、某郊外のいわゆるベットタウンにある、とある家ではゆったりとした時が流れていた。
少し古びて、こぢんまりとした作りながら白い壁に赤い屋根の家は綺麗に手入れされており、同様に手入れの行き届いた庭には小さな犬小屋と、白いむくむくとした犬がいて、のんびりと春のうららかな日差しを楽しんでいる。台所の辺りからはクッキーを焼いているのだろうか、香ばしくて甘い香りが漂っていた。
コトコトコト…
その台所ではケトルが湯気を噴き、母娘がお茶の支度と焼きたてのクッキーを皿に盛りつけて、と、忙しく動いて…いや、正確には母親はてきぱきとお茶の支度をしているのだが、娘の方はまだまだ修行が足りない、というか、ぎこちない様子だ。
「熱っ!!」
長い髪を首の辺りでまとめ、ふわふわの真っ白い薄手のセーターにベージュのズボン、オレンジと赤のチェック柄のエプロン姿の娘が、熱くなっているオーブンの板に触ってしまったらしい。短く悲鳴を上げて手を引っ込めると、水道の蛇口をひねり、流水に浸す。
「大丈夫? 綾香?」
髪をアップにまとめ、こちらは明るいグリーンのセーターに淡いオレンジ色のスカート、白いレースのエプロンと言う姿の母親の方が、振り返って心配そうに声をかける。
綾香と言われた娘の方は涙目で頷いた。
「気をつけて。もうこっちは良いから、痛みが治まったらお父さん呼んできてちょうだい。さっきから呼んでるのに全然下りて来ないの」
そう言って、母親は不満そうに天井を見上げる。
「はーい」
そう返事すると、綾香は台所を出て階段をトントン、とリズミカルに登っていく。
「ちょっと綾香? 痛みが治まってからで良いのに…全くもう、人の言う事ちゃんと聞かないのは一体誰に似たのかしら?」
母親の嘆きをよそに、二階へ上った綾香はそのまま父親の仕事部屋へと向かう。
「パパ…あれ?」
コンコン、とノックしてからそっとドアを開けてみるとそこには誰もいない。部屋の奥の窓際には傾斜付の机と普通の机が二つ並んでいるが、そこにいるはずの部屋の主の姿はどこにも見あたらない。かわりに机の隅に置かれているつけっぱなしの液晶テレビが空しく一人で喋っていた。
「パパ…?」
綾香はそろりそろりと足下を確かめながら部屋の中に入る。床にはそこいら中に壁際の本棚から引っ張り出されたと思われる雑誌などが散らばり、足の踏み場のない程だ。
(これじゃまたママが怒りそうだよ…)
そう思いながら歩いていると、ふと、奥の小部屋の方から明かりが漏れているのに気付く。その部屋はクローゼットになっていて、屋根裏部屋があるのだ。
「…パパ?」
ひょい、と覗き込むと、屋根裏部屋への階段が降りていて、その上から明かりが漏れている。綾香はそろそろと階段を上る。そこでは、父親がこちらに背を向けて座り込み、何かを見ていた。
「パパ?」
綾香はその背中に声をかけるが、気付いた様子はない。
「何見てるの?」
綾香が近づいていきそう声をかけると、父親はびっくりした様子で振り向き、
「わっ!! 何だ、綾香か。脅かすなよ」
と言って安堵したように胸をなで下ろす。
「だってパパ呼んでも気付かないんだもん。…何? それ。アルバム?」
綾香は父親が手にしていた古ぼけた赤い表紙のアルバムを覗き込む。
「…ああ。お父さん達が綾香ぐらいの時のね。イラストの資料に、使おうと思って」
父親はそう言ってそのアルバムを懐かしそうに見つめている。
「あなた! 綾香!! 何してるの!?」
見せて、と綾香が言おうとした瞬間、一階の方から母親のちょっとイライラしたような声が響いてきた。
「あ、いっけない、お茶だって」
悪戯っぽく微笑んで、綾香はぺろっと舌を出す。
「あ、うん」
そう言って父親はアルバムをしまおうとする。綾香は一足先に階段を下りようとしたが、ふと振り返って尋ねた。
「ねぇパパ」
「ん?」
「その頃って、もうお母さんと出逢ってた?」
父親は綾香のその質問に一瞬驚いたような顔をするが、すぐに懐かしそうな顔になった。そして、何も言わずに曖昧に微笑む。
「何よそれー」
綾香はぷくっと頬を膨らますが、父親は取り合わない。
「まだ秘密さ。お父さんと、お母さんとのね」
父親はウインクしてそう言った。
「『まだ』って事はいつか話してくれるの?」
「…そうだな、いつか、な」
手の中のアルバムを懐かしそうに見つめながら、父親は答える。
「約束よ?」
「ああ」
「絶対?」
「ああ」
「ウソついたらハリセンボン飲ましちゃうんだから」
悪戯っぽく微笑んでそう言うと、綾香はリズミカルに階段を下りていく。父親は暫く手の中の古ぼけたアルバムの表紙を懐かしそうに見つめていたが、やがてふっと微笑んでそれを置く。
(高校の頃のあいつに似てきたかな…?)
ぼんやりと、そんな事を思う。いつか、綾香も誰かを好きになり、家庭を持って、そして、初恋の頃を懐かしく思い出す事があるのだろうか。
ちょうど、今の自分のように。
その時までに、自分は一体何を伝えられるのだろうか。父親として、男として、そして、一人の人間として。
辺りに、クッキーの甘い、香ばしい香りが漂って来て、物思いから現実に引き戻す。
「イカン、もたもたしてたらまた怒鳴られる」
父親はそう呟き、重い腰を上げるとゆっくりと階段を下りていく。
後には、まだ未整理らしい古ぼけたセピア色の写真が、たくさんの思い出と共に残されていた。
完
読んでいただいた皆様、長い間お付き合いありがとうございました。
この作品は元々、96年8月発行の同人誌「セピア短編集1 一歩ずつの季節」に収録された第一話から、04年12月発行の「季節の終わりに/セピア」まで、実に8年もの時間をかけて掲載されたものでした。そして、私と水谷のサークル、クランク・インの出発点でもありました。
あれからもう10年以上の時間が経ち、当時20代だった二人とも30代を過ぎ、お互いの環境も随分と変わっていきました。
今、この作品を読み返してみると、当時の技術力の無さや若さに自分の存在を消してしまいたい気分になりますが(笑)、同時に当時の色々なこと〜徹夜明けの朝日のまぶしさやら何やら〜も思い出され、とても懐かしい気持ちになります。
今の私は仕事の関係でなかなか同人には関わって行けそうもなくなってしまったのですが、また折を見て作品を発表したりして行けたらなぁと思います。
最後まで、ありがとうございました。