夜明けは未だ遠く
大広間に集められた面々を見渡してから、燈季は目の前に出された食事を見下ろした。食卓に並べられた食事は白飯と綺麗に焼かれた鰆と、桜海老と山菜の掻き揚げ、菜の花のお浸しなどの小鉢が二つ、それから揚げ出し豆腐とお吸い物。四季華の一族の食事にしては恐らく質素な方であるが、ぴかぴかの白米や旬である鰆、山の幸である山菜をふんだんに使われた食事は、神威で食べていたものよりは当然ながらずっと豪華だ。
それが燈季と斜め前に座った咲空の前に並べられている。はいどうぞ、と菜乃羽(によく似た誰か)からお茶の湯飲みを受け取ると「さて!」という元気いっぱいの声が柏手を打った。
「どうぞお召し上がり下さい〜」
「頂きます」
「……頂きます」
どうして自分が彼女と食卓を囲んでいるのか、使用人である慶斗達と同じように後で食べるべきではないのか、という押し問答は「まあまあ!」と菜乃羽に(強引に)押し切られる形で収束していた。こういう時に、華印序列を強く感じるなと、ふと思うのだ。
しかしとくに会話もなく、咲空も黙々と箸を進める。あの仇姫と食卓を囲っているという事実が何だか居心地が悪く、折角の食事も味がいまいちわからない。
ゆっくり嚥下している内に、咲空は菜乃羽(によく似た誰か)に茶碗を差し出して「おかわり、くれる?」と言った。受け取った少女も慣れたように咲空専用だろう、空色に花の絵柄の茶碗に山盛り一杯よそって返す。その細い身体のどこに入っているのだろうか。彼女は意外にも大食いらしい。そういえば、一番上の兄、燈慈も細身だが下手したら燈汰や燈季よりも食べるので、舞手というのは大食漢なのだろうか。
食事があらかた終わった頃、菜乃羽が「はい注目です〜」と手を上げた。
「ではここでうちの子達の自己紹介を始めます!はい!映夕から!」
「はーい、わたしが映夕です〜基本的にお洗濯がお仕事です〜」
寝具を運んできた淡黄の着物の少女が手をあげる。口調は菜乃羽よりも更におっとりとさせた感じだ。菜乃羽よりも髪が短く、肩にも付かない程だった。
「夕霧だ。厨房を任されている」
先程後からやってきた青柳の着物の少女が淡々と言う。彼女は菜乃羽、映夕と打って変わって、動きが静かで区別が付きやすそうだ。先程も指差して笑っていた彼女の隣で、呆れた様な視線を送っていた気がする。
「桐佳。買い出しとかまあー色々やってる」
頭の後ろで腕を組んだ、芥子色の着物の彼女は先程言い合いをしていた菜乃羽と慶斗を見て大笑いしていた少女だ。菜乃羽と同じくらいの長さの髪を高い位置で一本に結い上げている。
「わたしは金糸雀……うん、もう寝てもいいですかぁ……?」
名前につけられた小鳥と同じ色の着物の少女は先程居なかった、筈だ。寝てもいいかと言い切る前に既に目を閉じてこくりこくりと船を漕いでいる。もしかして、さっきも寝ていたから顔を出さなかったのだろうか。
「明日菜です。担当は主に掃除洗濯ですが、まあ何でもやります。宜しくお願いします」
ぺこりと頭を下げられて、ならって此方こそと会釈する。飴色の着物を着た彼女は個性的な面々の中でも、一番礼儀正しそうな印象を受ける。顔は本当に、表情の違いはあれど全く造りが同じなので、髪型と着物を変えられては絶対に見分けがつかない自信がある。
「そして〜この子達の大元、菜乃羽です!」
「……大元、ですか」
「菜乃羽の“異能”ですよ」
彼女が説明係では不十分だと判断したのか、慶斗が咲空の前に食後の甘味に薄紅色の氷菓を置きながら、話に割って入ってくる。どうやら燈季の分はないらしい。それは構わないのだが、あれ程食べて甘味まで行けるのか。本当にその胃袋はどうなっているのだろうとこっちが胃もたれしてくる。
その隣で菜乃羽は少し得意げに胸をそらして見せて、「そうなのです!」と高らかに告げた。
「異能」とは、華印に宿る特殊な力の事だ。
華印を持つ者なら大なり小なり、特殊な力をもっている。他者そっくりに姿形を変えられる者、傷を治す事に特化した者からどんな匂いも嗅ぎ分けられるだとか、動物を使役出来るだとか様々だ。華印の花数が多ければ多いだけ「異能」の力は強く、濃くなる。
そして、この「異能」こそが四季華を華印階級の最上位たらしめるものである。
四季華の華印、桜、蓮、菊、椿はそれぞれ神祖から直接賜った特別な「異能」を宿し、奉納舞の舞手が四季華の華印を持つ者でなければならないのはこの「異能」を持つからなのだった。
しかし四季華の「異能」にも長い歴史の中で血が混じり「異能」の純度が落ち始めている。四季華の華印を持っていても舞手に足る「異能」を持つ者は生まれにくくなっているのが現状だ。燈季の生まれた椿家でも、椿の華印を持つ者は数名いるものの、「異能」を引き継いだのは父と燈慈のみだった。
菜乃羽はぴん、と人差し指を立てて少し得意げな顔をしている。説明出来るのが嬉しいのだろうか。
「わたしの異能はご覧の通り分身です。まあ、自分を増やす事しか出来ないので、菜乃羽が出来ない事はこの子達も出来ませんけど!あとは全員を同時に動かすのは長時間出来ませんし、一定距離わたしから離れると消えてしまいますね」
「……自我というか、個性があるように見えるのは?」
「その辺はさっぱり〜でも意識というか、認識というか、そういうのはあくまでわたしである菜乃羽に収束しているのでわたしが好きなものは好き、嫌いなものは嫌いです」
「親機と子機のようなものですよ」
「なるほど……?」
菜乃羽の異能の説明をしている間に、咲空は黙々と氷菓を平らげていた。……本当に全部食べ切った。胃の中に何か、別の生命体でも飼育しているんじゃないだろうか。
「まあ難しいことは置いておいて、とりあえず屋敷には大体誰かがいますから、何かあれば遠慮なく言いつけて下さい」
「わかりました」
「他に何か聞きたい事はございますか?」
「いや、今はとくにない。東風殿の造りが霜月殿と同じなお陰で、大体の場所の把握も出来た。寝ずの番や見回りなどはどのように?」
「不要よ」
きちんと手を合わせた後、咲空が立ち上がる。見上げる形で咲空の方を見ると、彼女は相変わらず無表情に、けれど燈季からやや視線を外す。
「不要?」
「暫くは何もないから、貴方は好きに過ごしてくれて構わない」
「それは、どういう意味でしょうか」
「そのままの意味。じゃあ私は下がるわね。夕霧、今日も美味しかった。さっきの苺の氷菓また作ってほしい」
「ありがとうございます、後でそのままの苺もお持ちしますね」
「うん」
「え、あの!」
呼び止める前に無情にもぱたんという音を立てて襖が閉じられる。菜乃羽達と慶斗が食器を下げていく方を見ると、いつの間にか菜乃羽達は飴色の着物を着た彼女、確か明日菜といった、しか残っていなかった。
「本当に見廻りが不要なのですか?」
「不要です。むしろ勝手にあちこち動き回られる方が迷惑なので、夜は大人しく、屋敷の敷地内から出られませんよう」
「しかしこの人数で、これだけの広さだ。何かあった時、対処が難しいのではないか」
「咲空様が大丈夫って言うんだから大丈夫ですよぉ〜」
いやでも、と言い募ろうとするも慶斗の「片付けの邪魔だ引っ込め」と言わんばかりの笑顔にすごすごと用意された自室へ下がる。戻ってみるといつのまにか神威にいた時に使っていた家具の一部や書物等が運び込まれていたので、恐らく菜乃羽達の誰かがしてくれたのだろう。誰に礼を言ったらいいのかわからないので、取り敢えず次に会ったときに菜乃羽に言おうと思う。
その後は菜乃羽が湯あみの準備が出来たと呼びに来るまで部屋の片付けをして過ごしたが、元々物の多い方でもないのですぐに終わってしまった。神威に入隊した際、兄二人から贈られた懐中時計の針はまだ寝るには随分早い時間をさしている。
今まで要人の警護などの任務もこなして来たが、このような状況は初めてだ。これでは完全にただの客人である。
(もう寝てしまおうか……)
咲空はああ言ったが、夜中に何があるかなんて分からない。寝れる時に寝ておいた方がいいかもしれない、と布団を敷いてそのまま横になる。思いの外疲れがあったようで、ひなたの匂いのする寝具に包まると、すぐに睡魔の波が目蓋を攫って行った。
***
────花の香りがする。
ぱちり、とまるで導かれるように目を開ける。
まだ障子の向こうは暗く、寝る直前の記憶を頼りに枕元に置いた懐中時計を月明かりに翳してみると夜明けまであと二時間ばかり程だ。
不意に遠くからしゃん、しゃん……という金属の触れ合う音色が聞こえた。考えるよりも速く、燈季はすぐに寝巻きの上から羽織りを着て、愛刀を持って静かに部屋を抜け出す。
音は昼間見た中庭の小さな舞台から聞こえてきていた。
導かれるように、手繰り寄せられるように、燈季はその音色を追う。そこに誰が居るのか、燈季にはもう分かっていた。
少女はいつかとは違って髪も結っておらず、衣装も裾がほんのり淡い桃色に染められた白い単のみで、手には鈴のついた扇子を持っていた。その鈴がしゃーん、しゃーんと不思議な音色を奏でる。楽士もいない、篝火もなく、彼女を照らすのは青白い満月と満開の桜吹雪だけ。
建物の影に凭れて、燈季はぼんやりとその舞を見つめる。
長く垂らされた黒の帯が、蝶の翅のように彼女の動きに合わせて羽ばたく。
(どうして)
八年前の記憶が目蓋に再び過ぎる。
此処にいるのは何もかもを失った十九歳の燈季なのか、それとも何も知らない十一歳の燈季か。
(……どうして)
長い髪が、記憶の中で、篝火の中で、月光の中で、瞳の中で、淡く反射する。
まるで自ら輝いているかのように、暗闇の中でも彼女だけが光を失わない。いつまでもいつまでも、きっと、彼女だけが。
(どうして、きみだけが、あの日のまま)
浮かんでは消える、途方もないどうしてという問い掛け。胸の内を焦燥だけが掻き毟る。失ったもの、変わってしまったものばかりの世界で、彼女だけが、あの日のままだった。
八年前のあの奉納舞の次の日、燈季は神威への入隊を決めた。
元々入隊したいという希望は父にも兄にも話していたが、それを二年も繰り上げたのは試験や任務だと何かと理由を付けて奉納舞の参列を逃げたかったからだ。
本来なら、何があっても四季華の一員として参列すべき公務であったが、燈汰が良いようにしてくれたらしく父から多少小言を言われたくらいで済んだのが有り難かった。
それとも兄は、知っていたのだろうか。燈季が見たくなかったものを。
(ああ、そうだ。出来ることなら、もう二度と見たくなかったんだ)
それなのに今、この場から動けない。くしゃりと前髪を握ってその場に蹲って、それでも視線は動かせない、そんな自分が惨めだった。
浮かんでは消える泡ぶくのような問い掛けに、答えてくれる者は自分の中にいない。あの雪の日に、みんな失くした。
結局、空が藍から薄紫へ染められるまで、燈季はそこから一歩も動けなかった。