門出
創始、未だ八百万の神々が地上を統べておられた時代。
神は大地を四つに分け、人にその地を治めるように告げると、その統治を許した証に四つの「華」をお与えになった。
春の華には先を見透す夢の桜を。
夏の華には清廉なる送還の蓮を。
秋の華には豊穣を齎す星の菊を。
冬の華には夜を照らす焔の椿を。
華をその身に宿した者達は四つに分けられた土地に移り住み、毎季、神祖へ感謝の舞を奉納する事を約束し、神祖の心を癒す為に、季節は移ろうようになった。
彼らは祈る。
舞い踊り、願い奉る。
天上から見守る神祖を慕うひとびとの心に、絶えず華が咲くように。
新春。風花のような桜が咲き誇り、暖かい風が頰を撫でる季節。
燈季は書物を紐で縛り、衣類を風呂敷に纏めて、随分とこざっぱりとした部屋を見渡す。六畳一間の洋式の部屋には既に備え付けの寝台と、空になった本棚とその隣に置かれた机しか残っていない。
十四の年に「神威」に入隊して五年。訓練や任務に明け暮れていた為ずっと間借りしていた部屋で過ごした時間はそう多くはなく、また几帳面な性格もあっていざ移るとなってもさして大掛かりな掃除をする必要もなかったので、荷造りは思いの外早くに片付いた。とはいえ引き継ぎや新居へ荷物の運び込みなど、やる事は幾らでもある。うんと背伸びをして、窓から鳥の囀る空を見上げた。
雪の代わりに窓の外には白桜の花弁が絶え間なく降り注ぎ、萌ゆる山間に点々と白っぽい山桜が見える。身を乗り出してみれば黄色い蒲公英が天へ花首を伸ばしているのが見て取れ、沈丁花の甘い香りが風に乗って届く。この香りを胸いっぱいに吸い込むと、春が来たんだなあと感じる。
そんな、なんて事ない日常だったが、この窓からの景色も見納めかと思うとどこか寂しさを感じた。
「燈季〜片付け終わった?」
ぼんやりと寂寥に浸っていると開けっ放しにしていたドアから見知った顔がひょっこりと覗く。白を基調とした隊服を羽織り代わりにして、唐紅の髪を耳の下で緩やかに結った姿はとてもじゃないが、神威随一の腕を誇る剣士であるようには見えない。
燈季の六つ上の兄、燈汰はもう殆ど物の残っていない部屋をくるりと見回して「わあ」と目をぱちぱちさせる。
「さすが早いねぇ」
「元々物も少なかったし。燈汰兄さん、仕事は?」
「今日僕は午後からなんだ。それで弟の門出のお祝いに昼食でもどうかと思って。勿論僕の奢りだ」
「燈汰兄さん忙しいのに、悪いよ。俺は別に」
「いいんだよ、僕は燈季のお兄さんだからね。それにここには居ない兄さんの分も祝ってくれって言われてるんだ」
「そっか……わかった。すぐ支度する」
たすき掛けにしていた紐を解いて纏めていた荷物の中から羽織りを引っ張り出す。一応念のために財布も持って袂に入れると、燈汰はそれを見て苦笑いして「今日は財布忘れてないよ」と言った。影で家名を文字って「落椿鬼」とまで呼ばれている兄だが、私生活だとどこか抜けており、財布を忘れて買い物に出たり染め物と白物を一緒に洗って色移りさせたりと何かと手が掛かるのだった。そういった兄のうっかりに先回りするのが燈季の役目のようなものだったが、今後はそうもいかない。
何しろ、燈季はこの神威本部である冬領の焔都から春領との境にあるとある都へ、転属が決まったのだから。
「しかしびっくりしたよ、燈季がまさか桜家付きになるなんてね。すごい栄転じゃないか」
「栄転、ね」
舌打ちでもしそうな声音で、はあ、と溜息を吐く燈季に燈汰はまた苦く笑う。
──桜家。それは四季華の中でも宗主たる白桜を宿す家で、日の出る東の地、春領を治める一族だった。燈季の生まれ育った冬領とは隣接しており、また二人が生まれた家も四季華の地位にあった。
椿を冠する燈季達の家と、桜を頂く桜家は古くから親交があり、桜家の長である千桜のことも、直接言葉を交わした事は数える程ではあるが昔から知っている。
だからこそ、千桜は燈季に白羽の矢を立てたのだろう、というのがこの転属が決まってから神威の隊員の間で実しやかに話されている事を燈季も耳にしていた。
全く、人はどうして噂話がこんなにも好きなのだろうか。そんな話をしている間に剣の稽古でもしている方がよっぽど有意義だろうに。
「栄転なものか。あの仇姫の護衛なんて」
「燈季」
「…………」
優しさの中に咎めるような声音を含めて呼ばれて、燈季は奥歯を噛み締める。燈汰はいつも柔らかく、冬の華を持つ者にしては角の取れた性格だが、こういう時やはりこの人は冬椿の者なのだと実感する。
「今年は千年祭の年だ。今、舞姫を喪うことはこの国を大きく損なう事になる。お前も、それは理解るだろう?」
「……ああ」
「ならその呼び名止めなさい。帰華の始まった千桜様に代わって舞を奉納出来るのは、神祖から与えられた彼女のお役目だ。それに、根も葉もない噂を僕らのような地位ある者がみだりに口にするものではないよ」
「はい、理解ってます。申し訳ありません」
「よろしい。さて、何を食べたい?今日は寿司でも牛鍋でも何でもご馳走しちゃうよ〜」
先程とは打って変わって、燈汰は人好きする笑みを浮かべて店屋の立ち並ぶ区域へ向けてのんびり歩く。
燈季は釈然としない気持ちを喉の奥に引っ掛けたまま、その背中を追いかけるのだった。