第二話 西と東の"もののけ"
八雲妖怪奇談
第二話 西と東の“もののけ”
あらすじ
歴史学科の資料室で見つけた小泉八雲の著書『妖怪奇談』をあらためて読み解くことにした服部教授とその生徒たち。
この書で語られている小泉八雲は果たして何者なのか。
不気味ながらも、歴史学科の生徒、楓はその謎について紐解いていかずにはいられなかった。
八雲の奇なる妖怪探訪記、再び歩み始める……。
〈気味の悪さに導かれ〉
――ひゅう~ ひゅうう~~――
唸る風の音が街中を通り抜けてゆく。
身を切るようなつめたい真冬の風が、都内のビル群に吹きすさぶ。
冬休みが終わり、卒論のテーマを見つけるため大学へ足を運びだした彩樫大学、歴史学科の三年生、笹島楓。
しかし、昨年末に服部教授が口にした言葉がどうにも気になり彼女の頭から離れなかった。
――君たちは八雲がいったい何者なのか、さらに知りたくはないかね? ――
そもそも、あの『妖怪奇談』の内容は、小泉八雲が書いた本の中でも今までに見たことのないモノなのは間違いなかった。
小泉八雲が妖怪と闘ってるお話なんて、あったかしら……?
そんな思いを巡らせながら歴史学科の研究棟の廊下を歩いていた楓だったが、いつの間にやら服部教授の研究室の前に立っている自分に気が付いた。
「先生、失礼しまーす……」
扉を開けると誰もいない。
教授の机の上には、例の小泉八雲の著書がポツンと置かれていた。
誰も戻ってくる様子がない。そっと教授の椅子を拝借しつつ、楓はその本の表紙を少し眺めてから、昨年の末に三人で読み解いた次の話のページを捲った。
〈二の話・妖艶なる海の美女〉
――すぅー……っとのびる光の尾、満月に照る海面走る……――
首無し地蔵の怨念を積年の呪縛から解放した後、ハーンは島根の沿岸を独り歩いていた。
黒酒村を通り過ぎたのは七月の終わり頃。夜の帳が下りた日本海から、静かに白波が打ち寄せる。
波はやわらかな月明かりに照らされて郷愁を漂わせている。
「かなり歩いたか、今宵はそろそろこの辺りで身を休めるとしよう」
ハーンが海辺の月夜の下で、どうにか眠りにつけそうな場所を探していると、高くそびえる岩が二つ並んでいる地形が目に入った。
「あの岩間なら丁度良さそうだ」
岩場の中で身を落ち着けると、夏の夜空にのぼった丸い月を見上げてハーンはひと言呟く。
「……出雲まで、あと少しだな」
眼を閉じて眠ろうとしたそのとき、遠くから人影が近づいてくる気配を感じた。
ハーンの居るところへ向かってゆったりとした足取りで、何者かが歩いてくる。
その風貌は、黒く艶やかな長い髪を風に泳がせた色白き者。
月明かりに照らされた、透き通るように煌びやかな着物に身を包み、すらりと伸びた素足に黒塗りのぽっくり下駄を履いた美しい女であった。
「……其なたは何者か」
ハーンは女に向かって問うた。
「およ、かような処におのこがおったか」
女は気品に溢れた声色を発すると、問いかけに応じる様子もなく、じりりとそばへ寄ってきた。
「うぅむ……げによきおのこじゃ」
まじまじとハーンの顔を見て囁き、そっと手繰り寄せるような仕草を取る美女。
「ほれ……もっと、ちこう」
「何か仕掛けようとも、己れには効かぬぞ」
「なんと……、儂の誘い灯に囚われんのか、ぬしは?」
ハーンの言葉に女は途端に驚いた様子で反応した。
――忌目開眼……――
閉じていたハーンの左目が見開き、闇夜の中でも力強く輝く金色の瞳を覗かせた。
――ハーンは隻眼であった。理由あって少年時代に左目を失明していたが、ある時を境にこの忌目の力を体得した。
自らの妖気を込めて開いたその瞳は、易々と妖怪の真の姿を見抜くことができた。
どうやら女は元々人の成りをしていたようだが、ハーンが忌目で見た際には魚のヒレのような形をした細長い耳と、頭の先から何やらぽうっと輝く飾りのようなものが夜風にふらりふらりと揺れている様が左目に映った。
女を見やると、珍しくもハーンは含み笑いした。
「な、なんじゃ? なにがおかしい?」
「いや、これは失敬……其なたの頭に付いた、先が光る竿のようなものが揺れる様が、ちと滑稽だったものでな」
「! ……まさか、これが見えとるのか! ええい見るな見るな! ……恥ずかしい」
女はハーンの視線を避けようと必死で手をはためかせる。
忌目を閉じると、右目に女が元の雅な身なりの美女の姿で映る。首元には綺麗な巻き貝の首飾りを下げていた。
そのあとハーンは自身の名を名乗った。
「我が名はラフカディオ・ハーン。日本を訪れてまだ間も無い」
「らふかで、おはん? ふうん、珍しい名前じゃ……まるでおなごのようじゃな。儂は海姫じゃ、大昔からこの海に棲んでおる」
〈潮流の化身〉
「……海姫、たしかその名は」
ハーンは日本の妖怪に関する記録や歴史なども、実際にこの地へ訪れる以前にひと通りは調べていた。
――海姫(Umihime)とは、東洋の海域に棲むと言われる妖怪で、磯姫、磯女などとも呼ばれる。
この世のものとは思えぬ美しい女性の容姿で現れ、海原に漁に出た漁師を妖艶な魅惑で誘い込む。
そうして近づいた生者たちの生き血を吸い尽くす恐ろしい存在と伝えられている――
「……ところでおはん、ぬしは何者じゃ? どこから来た?」
伝書の内容からは想像もできぬほど垢ぬけて好奇心旺盛な様子で、海姫は珍しい来訪者のことをあれこれ聞きたがった。
「己れはここより遠き西の国、レフカダ島はギリシャの生まれだ」
「れふかだと……わぎりしや? 変わった名の国もあるのじゃのう」
続け様に、ハーンは自身の素性を包み隠さず明かした。
「祖国では己れのような存在のことを吸血鬼という」
「吸血……すると、ぬしも血吸いか! 儂らは遠い親戚かのう!?」
海姫はハーンが口にした言葉に何やら気持ちが弾んで嬉しそうである。
「なぜそんなに日ノ本の言葉をうまく話せる?」
「祖国の吸血鬼は、ある程度その国の言葉を目と耳にすれば、多少は上手く話せるようになる」
「やぁや、多少どころではないと思うがの」
海姫はハーンの流れるように巧みな日本語に舌を巻いている。
「日本の伝記もそれなりにいろいろと読んだ。古事記、日本書紀、大和神話……今昔物語集、それに和歌や俳句も少し。そうだな……源氏物語や南総里見八犬伝などは実に興味深いものだ」
「ヒトの書き物にもそこまで目を通したのか さようなもののけがおるとは面白い!」
その後も、親近感の沸いたひとりのもののけを質問攻めにする海姫。
次から次へと飛んでくる問いかけに対して、ハーンはひとつひとつ律義に応えた。
「んー、話しておったら腹が空いたな。最初はぬしの血を吸おうかと思うたが……そうじゃ、よいものをやろう! ちと待っておれ」
そう言うと海姫は突然、暗い闇の広がる海辺へと駆け出して、なんとそのまま海中へと飛び込んでいってしまった。
「……随分と自由な妖霊怪奇だな」
夜の海辺でハーンはぼそりと呟いた。
――ハーンは西洋の魔物や日本の妖怪、また世界各地の幽霊や怪異を指して妖霊怪奇とよく呼んでいた――
〈吸血妃のもてなし〉
しばらくして、波打ち際からずぶ濡れになった海姫が戻ってきた。
手にはなかなかの大きさの魚を一匹、尻尾を掴んでぶら下げている。
「取れたてのヒラマサじゃ、海の中で締めてきた。いつもは踊り食いじゃが今宵は久方ぶりに腕を振るおう」
そう言うと海姫は、平な岩の上に魚を寝かせて言葉の通りに腕をささっと素早く動かし始めた。
――見る間に魚が切り身に変わる。
こっそり忌目を開いて見ると、海姫の前腕から伸びる鋭い刃物のような魚ヒレで器用に魚を捌いているのだった。
「もう百年あまり昔にやったきりじゃが、できるもんじゃのう」
束の間に、それはそれは見事なヒラマサの活け造りが出来上がった。
「おお、我ながらうまそうじゃ! ほれ、喰うてみい」
「……いや、見事なものだが……」
勧められた活け造りを前に、ハーンはためらう。
「どうした?」
「なにぶん、生魚は食べたことがないものでな……」
「なに? それはいかん! かように美味きものはそうないぞ!! さあ喰え喰え」
ハーンは戸惑ったが、海姫の好意を無下にはできぬと、刺身を一枚摘み口に運んだ。
「どうじゃ?」
「……! 美味い」
「ほうじゃろ ほうじゃろ! これはうまきものじゃ!」
あまりの美味さに驚いたハーンを見ながら、海姫も楽しそうに刺身をほおばり始めた。
〈海の荒くれ〉
「……にしても、ぬしは何しに日ノ本へ?」
ヒラマサの刺身を馳走になってから海姫にそう尋ねられると、ハーンは少し間を置いて口を開いた。
「ある男を訪ねてやってきた」
「ほう! 人探しか、それはどこの……」
聞きかけて海姫がぴくっと何かに反応した。
「囲まれておる……」
「……そのようだな」
海姫の言うように周りに気配を感じる、だがそれは妖気ではない。
「おぉっと、邪魔しちまったかい! お二人さん、いひひ……」
「こりゃあすんげぇべっぴんさんじゃあねえか。なあ、俺たちと来ねえか?」
よく日に焼けた数人の男たちが岩の陰から現れ、茶化すように声を掛けてきた。
「こ奴ら……賊じゃな」
ハーンと海姫があれこれと話している間に、ひっそりと近づいて来ていた者たちは、近辺の漁村から航海の物資を頂戴しようと沿岸にやってきた海賊たちだった。
「なんでもいいから大人しく持ってるもんを譲ってくれよ」
「変な真似すんじゃねえぞ」
「悪いことは言わぬ、お主等、ここから去れ」
ハーンは腕を組みつつ、脅しを掛けてくる海賊たちに向かって警告した。
「野郎はすっこんでやがれ! そっちの姉さんなら歓迎するがなぁ、うへへ……」
大声でハーンに凄みつつ、海姫を見て鼻の下を伸ばす歯抜けの男。
「威勢のよい連中じゃの……それでは、ぬしらによいものをやろう」
「おお! 何だ、なにくれんだあ?」
歯抜けが期待に胸を躍らせる。
「ほれ、ヒラマサの骨じゃ! ぬしらには似合いじゃろ?」
目の前にぶら下げられた魚の骨に唖然とする歯抜け。
「なっ……容赦しねえぞ!! このアマッ」
くせ毛の目立つ男が腰から短刀を抜いて威嚇する。
仲間がいきり立つ様を見て他の海賊たちも一斉に刃物を抜いた。
「人がせっかく交渉してやってるのによぉ」
「魚の骨なんか要るかよ! ふざけんじゃねえッ!!」
海賊共が叫び、鋭い凶器を今にも振るわんと興奮している。
一触即発な状況の中、ハーンは組んだ腕を解く。
密かに右手に握り締めていた短い棒のような魔除けから、まるで冴えわたる刀のように白き刃がすらりと伸びた。
「やすやすとは引き下がらぬか……」
ハーンは左袖の中に、帯で巻き付けた七寸ほど(約二十一センチ)の、刀の柄を模した魔除けを隠していたのだ。
「お! 何だ、珍しそうな刀じゃねえか。そいつは頂きだ!」
暗闇から唐突に現れた白刃を見た歯抜けが、勢いよく刀を振るったが、ハーンはそれを軽くあしらった。
「残念ながら、お主等に扱える代物ではない」
「いくぞッ、やっちまえ!!」
くせ毛たちが多勢で海姫に襲い掛かるも、銛で突かれては逃げる魚の如くひらりひらりと身をかわす。
「骨がいらねば、これはどうじゃ!」
攻撃を避けつつ海姫は海賊たちに向かってサッと手を振りぬいた。
無数の紫色の棘が男たちに刺さる。
「痛ッ! いてててっ……痛ってえぇッッ!! なん……なんだあ!?」
海賊たちは何が起きたのかわからぬといった様子で次々に倒れ込むと、痺れて動けなくなってしまった。
「毒のトゲじゃ……半月は腫れが引かぬぞ、もっと欲しくばいくらでもくれてやろう!!」
海姫は一網打尽にした男たちにすかさず追い打ちを掛けた。
「よせ、海姫っ――」
海賊と海姫の間に、術を短く唱えつつ滑り込むハーン。辺りが一瞬、銀に煌めく。
咄嗟に広げた手帖に毒トゲが吸い取られ、海姫が放った妖気の射撃を間一髪で防いだ。
「おはん! どかぬか!? そやつらは海の荒くれ、ほおっておけばこの一帯で好き放題じゃ!!」
「海姫よ、鎮まれ……かようなもの共でも、むやみに取ってよい命はない!」
ハーンと海姫の主張が食い違い、互いに鬼気迫る形相で睨み合う。
二人の間に緊張の糸が張り詰めているところに、海姫の背後の陰で息を潜めていた何者かが突如斬りかかった。
「! ……ぬぅっ」
寸でのところをかわしつつ海姫は振り返ったが、立て続けに逆袈裟に斬り上げられ、首飾りの紐が切れて巻き貝が落っこちた。
いかつい顔立ちのその男は、どうやら海賊たちの頭のようだ。
砂の上に落ちた首飾りを素早く拾い上げると、カシラは息を大きく吸って息巻いた。
「オレのひいじいさんのイトコの連れの知り合いはなあ……村上水軍の親戚だったんだぜ! 海の男をなめんじゃねえ!!」
「…………」
もはや赤の他人ではないか! と海姫は呆れた。
「痴れ者が……すぐそれを返せ!!」
海姫が凄むと、その滑らかな肌は不気味なほどに蒼白く、艶やかな黒髪はあっという間に灰色に染まりあがった。
「は? こっ……ここ、こいつ……人間じゃねえ!? バケモンだあ!!!」
とたんに逃げ腰になりながらも太刀を突き出し牽制するカシラ。
「返せとゆうとるじゃろう。さもなくば……」
おぞましい姿に変わり果てた海姫はゆっくりと振り返ると、ハーンの元へ歩み始める。
恐ろしげな東の吸血鬼に対してハーンは白刃を構えた。
〈海神様〉
その外見はたしかに異様であった。
ところが……悠然と近寄ってくる海姫が目くばせするのにハーンは気が付いた。
そのままハーンにそっと組み付くと、海姫は顔を近づけてささやいた。
「おはんよ、ぬしのヒトを傷付けとうない気持ちはようわかった。じゃがこ奴らはうんと懲らしめねば、近場の漁村も襲いかねん。末永く穏やかにヒトが暮らしてこそ、この海辺は護られておるのじゃ……」
海姫の胸中を耳にし、ハーンは穏やかな気持ちとなった。
「それに、あの貝がないと儂とてヒトの子同然じゃ。今はさすがにああして太刀を突き立てられてはどうにもならん……無事取り返すためにも一芝居打て、よいな?」
事情を察するとハーンは無言のままに頷いた。
妖しげにハーンに近づき組み付いた海姫の背中を、カシラは微動だにせず固唾を飲んで見つめていた。
「ぐあああーッッ!」
ハーンが突然叫んだ。
「な、何だあ!?」
その叫び声にカシラは飛び上がるほど驚いた。
左手で右の二の腕を押さえながら、ハーンはゆらりとよろめき小刻みに震えだす。
「ああ……まさか、この女が、もののけだとは……知らなんだ……」
言葉を途切れ途切れに発しながら、ハーンが続ける。
「血を……血を吸われてしまった。これはいかん……このままでは、己れも含めて、倒れている……者たちもみな仲間に、されてしまうぞ……」
「なんだってえ!? そりゃそいつはやべえ……どうすりゃいいんだあ!!?」
「う、海神様の祟り……呪いを解かねば……その貝があれば、助かる……はず……」
カシラは慌てて巻き貝をハーンに放り投げた。
飛んできた貝をハーンは左手で受け取ると、不安そうなカシラを見て口元を緩ませた。
「くくっ……ハッハッハハハ! 」
「な、なんだなんだ、いきなりどうしたんだよぉ」
「フフッ……愚か者め……己れは当の昔から、この海姫の仲間よ」
戸惑うカシラを、ハーンはキッと睨みつけて言い放つ。
「んだとお? おお……、おいおいオイ! 話が違うじゃねえか!!」
ハーンはカシラに猛然と駆け寄り、打刀を一瞬で弾き飛ばした。
「ひいいいいッ た、助けてえええええ!!?」
「さあて……おはんよ、その輩、ぬしはどう思うのじゃ? 云うてみい」
逃げ出そうとしたカシラを抑え込んだハーンは海姫に告げた。
「うむ、かようなものならば……海の神に命を取られても仕方がなかろう」
「そ、そんな……か、かんべんしてくれえ! ……かんべんしてくださいいぃ」
強面の、大の男がべそをかく。
「さ~あ、ちこう……」
海姫の誘い灯がカシラの動きを静かに封じる……。
そうっと優しげにカシラの両腕をさすり掴み、海姫は手のひらに力を込めた。
海姫の指先が鮮やかに紅く染まり始め……。
「あ、ああぁ……、あぁああああッ……!」
ぢうううううううッッッ!!
「ンぎゃああああーーーッッ!!!? 」
カシラの悲鳴が海の夜空に吸い込まれていった。
〈宝珠貝〉
「……あぁ……た……たす……け……へェ……」
血の気がごっそり減ったカシラはうなされるように呻いていた。
「ぬしら、もうそろそろ動けるじゃろう。そこのひいじい様のナニガシを連れてとっとと帰れ!」
「わわ……わ、わかった! わかったからっ 殺さないでくれえええ」
「田舎さ帰ってまた傘張りするだあああ!」
体中が毒のトゲで腫れあがったくせ毛と歯抜けたち海賊一行は、干からびかけたカシラを引きずって必死に自分たちの船へと運んで行った。
「……べえぇっ、ぺっぺっ!! やはり、めんこいおのこ(いい男)以外の血はまずいわ! まったく……血を吸うたとて仲間になりゃせん。そもあんな男共と海を一緒に泳ぎとうないぞ」
指先から吸った血を砂浜に吐き捨て海賊たちの文句を垂れ終えると、海姫の姿が元の美しい姿に戻っていった。
「うまく退けたものだな」
海姫に巻き貝を手渡しつつハーンは言った。
「しかしまぁ、ぬし……芝居がヘタじゃのお! ハッハッハ! 力が入りすぎとったぞ! まあおかげで大いに怖がって逃げおったがな……にしても海神様とは、たばかったものじゃ」
「さようか、さほど偽ったつもりはないのだが」
「やぁや、おかげでこうして首飾りも戻った。ありがたや」
からかうように芝居の感想を口にした後、海姫はハーンに礼を述べた。
「この宝珠貝がないと妖気がうまく練れぬゆえ、潮の流れの激しい海で自在に泳ぐこともかなわぬ」
海姫は巻貝の首飾りを首に掛け直すと、ハーンの手に握られた魔除けを見て言った。
「ぬしのそれも似たようなものか、お互い大事にせんとな」
「ああ、肌身離せぬ大切なものだ……」
白き刃の消えた魔除けを見てハーンはつぶやいた。
「ところで海姫、まさにもののけらしい姿になったが、あれは……」
「たんなるこけ脅しじゃ、ほれ、イカやタコは危のう感じると身の色をがらりと変えおるじゃろ。アレとおなじことよ」
海姫の説明にハーンは妙に合点がいった。
「それに、吸い尽くす気とて毛頭ないのじゃ。儂はもとよりヒトの血は土臭い気がしてあまり好かん、海の幸のほうがよほど美味いからの」
海姫には譲れぬ味へのこだわりがあったようだ。
〈還るべき処〉
海の荒くれたちを追い払った頃には、空がほんのりと白んでいた。直に暁の空が海の向こうに広がることだろう。
「……仲間か、大昔にはここにもけっこうおったんじゃが、めんこいおのこを探して、みなほかの海に行ってしもうたな」
静かに寄せては返す波の前で、海姫は感慨深げにつぶやいた。
「其なたは何処にも行かぬのか」
海の遠くを見ている海姫に、ハーンは何気なく問うた。
「儂はこの海が好きじゃ。景色もいいし魚も美味い。何より、ここにおると、なぜか落ち着く」
故郷の海を誇らしげに眺めながら、海姫はそう言った。
「ぬしは人に会いに来たのじゃったな。見つかるとよいな!」
海姫は曇りのない笑顔でハーンを応援した。
「儂もそろそろ帰らねば……日を浴びると、このように骨になってしまうでの」
海賊たちとのひと悶着の間にも、岩の上に置かれていた魚の骨を見やって海姫は言った。
「さあ、このヒラマサと海の深くへ還るとしよう!」
骨の尾っぽを掴むと、海姫はハーンに別れを告げて海の中へと歩き出す。
「馳走になった、次は日本で見た出来事をたくさんお話ししよう」
「うむ、期待しておるぞ、おはん! げに楽しきひと時じゃった……ではまたの!」
まるで入水してゆく平安の姫君のように……しかし住み慣れたところへ帰する海の妖妃は凛として美しかった。
その姿を見てハーンもまた、己が遠き故郷の海に思いを馳せた。
「骨になる、……か」
これから高く日が昇ることを恐れることもなく、ハーンは心地よさそうに空を見上げて呟いた。
「さてと……少し寝るとしよう」
ギリシャの吸血鬼は、日の光に当たっても何事も起きないのだから。
〈レフカダ島の吸血鬼〉
ガチャリ……。
「わあっ……! びっくりした!」
ちょうど話を読み終えたとき、急に研究室のドアが開き、楓は心臓が飛び出しそうに驚いた。
「おや、楓くん。明けましておめでとう」
「あっ、明けましておめでとうございます! 先生」
教授同士のミーティングを終えて部屋に戻ってきた服部教授に、楓は今しがた読んだ話から感じたことを伝えた。
「先生、小泉八雲が吸血鬼だなんて……、本当にそう思いますか?」
「そうだねぇ、たしかに信じがたい内容だが……」
教授は少し考えて楓の方を向いて話し始めた。
「たとえば……平安時代の歌人だった紀貫之は、『土佐日記』の冒頭でも“男が書く日記というものを、女の私も書いてみようと思った”という風に、自身を女性に見立てて表現したとされているしねぇ。だからこの本の物語は、妖怪との出会いというロマンを演出するために、八雲が自身を吸血鬼に見立てて書いたという形式なのかもしれないね」
「ああー……なるほど、まるで自分も妖怪になって本物の妖怪たちと出会ったという感じでしょうか」
「うん……彼は自身の随筆に関しては非常に強いこだわりがあったと言われているから、その書き方も十分考えられると思うよ」
服部の言葉に納得できるところもあったが、楓の中に何やら落ち着かぬ気持ちが湧いてくる。
――……でも、アタシには何だかこのお話は ただの空想とは思えない――
年明けの大学に通い始めた生徒たちが忙しなく行き交う構内。研究室の窓の外では、ひゅるりひゅるりと風に舞う雪がちらつきはじめていた。
八雲妖怪奇談 第二話 西と東の“もののけ”
終わり
参考文献
今野圓輔(2007年)『日本怪談集―妖怪編―(10)磯女』,インタープレイ
太安万侶(712年)『古事記』
舎人親王(720年)『日本書紀』
(発行年不明)『今昔物語集』
紫式部(1008年)『源氏物語』
曲亭馬琴(1814年)『南総里見八犬伝』
紀貫之(935年)『土佐日記』