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Because, I Love You.  作者: カレー屋
1/1

YOU and US

はじめまして。カレー屋です。

小説家になろうは初めて投稿するので、分からない事だらけですが、よろしくお願い致します。


この作品はイベント用に書き下ろしたもので、誤字やミスを修正しつつ全3回程度で完結予定です。

誰にも理解されない「愛」を書きました。よろしくおねがいいたします!

         1

…は?え…、えっと、ちょっと、わけが、分からな、かった。まずはじめに浮かんだのは、「なんで?」ってこと。

  山田海(やまだうみ)は、思わず笑ってしまった。そして、その大きな両目から落ちた涙は病院の清潔な床にパタパタ落ちた。買ったばかりのウォータープルーフのマスカラは、なるほど水に強いらしい。

 話を聞いた時、とてもじゃないが信じられなかった。何もかもを信じられなかった。悪趣味なドッキリか何かだと思った。しかし、いつまで待ってもネタばらしが無いし、何より目の前のベッドで横たわるのは、本物の亡骸だった。彼が死んだという事実が今、目の前の白いシーツの上に居る。涙でグワグワに滲んで霞む世界で、有宇はピクリともしない。

 

 有宇の印象的な笑顔は、子どもからお年寄り、男にも、そしてもちろん女にも、犬や猫、文鳥やハリネズミにだって好かれた。顔の中心をくしゃっとさせて太陽みたいに温かな笑顔を見せる彼は、いつも誰かのために頑張っていて。「いいひと成分」をこねて固めて立体化したら有宇になるんだろう、なんて私が冗談を言って彼声を出して笑ったのは、ほんの一日前のことだというのに。


「えっと…ご自宅で包丁を首に。ええ。もちろん調べさせて頂きまして、部屋は内側から施錠されていましたし、室内に争った形跡もなくてですね。傷口の形状と鑑識結果からも事件性は考えられず、でしてね。はい。遺書などは見つかっていないのですが、…ご友人宛てになにかご連絡などなかったですか?あとは…例えば、何かそういう素ぶりなどが、」手元の資料をパラパラめくりながら、少し汚れたメガネ越しに視線と質問を投げてきた男性の刑事さんの言葉を、私の隣で立ち尽くしていた健人が遮る。

「ありません。」

そうきっぱりと言い切った。普段騒がしい健人のこんな声を聞いたのは初めてだ。ああ、なんだか、段々音も意識も遠くなってくる。私の人生は平凡そのもの、こんなドラマみたいなシーンが自分の人生で起こるなんて、全くリアリティがない。頭はボンヤリするのに、氷の杭で胸を刺されたみたいに身体の中が、ひどく寒い。

私はいつだって有宇のことを見ていた。たった2年だったが、ずっと彼のことを見ていた。否、見ていたはずだった。私は一体、何を見逃してしまったのだろう。


 片想いの相手が、自殺をした。



         2

私が有宇を好きになるのに時間は要らなかった。友だちに彼との出会い、彼に惚れたフローを何度となく話しているから、記憶が段々と美化されている可能性はあるけれど、それでも。あの時の彼はとてもかっこよかったし、あの日抱いた彼の印象は今でも変わらない。むしろ、仲良くなってますます有宇を好きになったんだ。


私の大学は一年で入るゼミを決める。私は社会学部の中でも一番歴史の浅い、昨年出来たばかりの「デジタル情報社会」のゼミに決めた。…決してラクそうだから、という理由で決めたのではない。

 一人一台以上のスマートデバイスを持つこの情報化社に於いて、手軽で簡単に人と繋がれるSNSは、便利で私も良く使っている。しかし時にそれが脅威になる場合があり、私も実際、数々の炎上事案を目の当たりにしてきた。また、SNSを見ていると、現実では出会わないようないろんな人をたくさん見つけることができる。つい先日、ツイッターで見つけたのは、ひたすら猫の死体の写真と、猫の性別と特徴、そして死体のある場所の位置情報をアップし続けているアカウント。てっきり、動物虐待系のものだと思い、ツイッター社に通報しようとそのアカウントのプロフィールを見てみると《ひっそりと消えていってしまった子達をアップします。飼い主の方へ届きますように。誰にも知られずに死んだ子たちも、あなたには知っていて欲しいはずだから。》と書かれていた。私は猫を飼ったことはないけれど、猫は飼い主の前ではなくどこかでこっそりと死ぬことがあると聞く。このアカウントの管理者は、そんな猫たちの死を、心配して探し回っているであろう飼い主へ届けるために行っているということなのだろう。なんでそんなことを続けてるのか、わからないけれど興味深かった。このアカウントの管理者も、卑猥な画像ばかりアップしているような悪質なアカウントの管理者も、攻撃的なリプライばかり飛ばしているアカウント管理者も。案外、日常生活では普通の人なのかもしれない。でもきっと、何か理由や思うところがあってそんな事をしているのだ。  

私がこのゼミを選んだのは、ネット上で起こるさまざまなコミュニケーションの衝突メカニズムと、その向こう側にいる人間の内面に興味があったし、それは研究価値があると思ったからだった。

 しかし、ゼミに入って三日目。顔合わせと言う名の新入生歓迎会に参加した私は、既にめちゃくちゃ後悔し始めていた。  

去年新設されたゼミということで、先輩は全員が二年生。数十人いる先輩の中に女性はたったの三人。そして驚くなかれ、私の学年は女子が私ひとり。大学全体の男女比はほぼ半々であるのに、だ。

 チェーンの安居酒屋で開かれた新歓(しんかん)の飲み会は、教授が体調不良で欠席したことも手伝って、懇親会というよりコンパと化していた。男の先輩たちのいわゆる“ウェイ系”のノリに付いて行けず、トイレに立つフリをして居酒屋の廊下に避難した。もこもこした茶色い柴犬の手帳型ケースを広げてスマホを取り出した。片手で素早く友人にメッセージを送信する。

『まじむり。ゼミ飲み最悪すぎで泣く。』ホッと一息ついたのもつかの間、

「なになに、『サイアクすぎて泣く』?あは、酷ぇなァ。俺ら先輩が、お前ら一年のためにわざわざ盛り上げてやってんのにさァ。」

 気付いたら隣に男の先輩が立っていた。名前、は覚えていない。…酒臭いし、歯に食べカスが挟まっているのが見える。そんなものが見えてしまう距離までいつの間にか詰められていた。

「…いえ、あの、すみません。」

反射的に謝った。私は本当にこの種の人たちが苦手なのだ。

「俺、超傷ついたんだけど。どうすんの。新入生のくせに先輩傷つけちゃダメじゃね?…ウミちゃん、だっけ。このまま抜けてさ、カラオケで仲直りしようよ。」


…カチン。漫画だったらそんな表現するだろうなって位には頭にきた。この口臭食べカス男、私が年下の女だからナメてるんだ。

「…この程度で傷つくなんて、これから社会に出たら困るんじゃないですか?それともそれを口実に誘ってるんだとしたら、最低っていう私の感想、やっぱり間違ってないですよ。」

「…テメェ。」

ああ、またやってしまった。私は昔からこうだ。臆病なくせに感情がせき止められないことがある。先輩の口は大きな声で、穴がどうとか、何か下品で屈辱的なことを罵りながら、臭い唾の塊を私の顔に浴びせる。食べカスが挟まった汚い歯が目前に迫り、スマホを持った手を掴まれ、その握力の強さと痛さに顔をしかめる。ざあざあと自分の血の気が引くのが分かる。何を言われてるか理解できなくなっているが、自分が赤信号な状況にあることだけはハッキリと分かった。…どうしよう、怖い。


「なぁ、あんた。その子放して貰えませんか?」

不意に温度の低い声が遮った。たしか、同じ一年の…名前なんだっけ。私って本当に何も覚えていないんだ全くもう…。 

身長の高い彼はややうつむき加減のままに前髪の下から鋭い視線を先輩に向けた。そして、私の手首を締め上げる先輩の手を掴んで払った。

「彼女がただの穴なら、あんたはただの棒切れでしょ。…穴って場合もあるかもしれないけど。どっちが付いてるか便所で確認してこいよ。」

「あ?何だお前。1年か?」

「僕は一年の高橋です。そうそう、ついでに便所で歯も磨いてきたらいいと思いますよ。先輩?」

 小馬鹿にしたような笑いを含ませ吐き捨てると同時、フリスクを先輩のポケットに入れた彼が、背筋を伸ばせば先輩よりたっぷり十〇センチは身長が大きくて見下ろす格好になった。気が付けば店員さんや他のお客さんがこちらを見ていた。あれだけ大声を出していれば、こうもなるだろう。…見ているだけで誰も助けには来てくれなかったけど。彼を除いては、誰も。

 周囲の注目に気付いた先輩は決まりが悪くなったのか、はたまた酔いが醒めたのか、悪態をつきながら店を出て行った。

思い返してみても、あんなに強い口調で話す有宇はあの時だけだった。彼も少し酔っていたのかもしれないけれど、それでも、誰もが見て見ぬ振りする中で、あなただけは、特別だった。

「あ、あ、あの、」

解放された腕が震える。気が動転してうまく言葉が出ない私に、彼が声を掛けた。


「そのスマホケース、可愛いね。」

それだけ言うと彼も店を出て行った。遠くで店員さんがコップを落として割るのが聞こえた。

耳もとで恋に落ちる音がした。柴犬のスマホケースをぎゅっと握りしめた。



         3

 飯島健人(いいじまけんと)にとって、高橋有宇(たかはしゆう)は恋仇だった。

同時に、親友だった。少なくとも、彼はそう思っていた。


 「なぁ、有宇。海のどこがダメなんだよ」

かっこ悪いとは知りつつ酒の勢いで有宇に疑問をぶつける。海自分で勝手に飲んで勝手につぶれ、机に突っ伏して寝ている。無防備な女だ。

「ダメじゃないよ。海はいい子だし、人として大好きだよ。それに、」

「それに?何だよ?」不服な声色で先を問う。


「健人が本気で好きになる子だ。女の子としても魅力的に決まってる。」

…この野郎。有宇という男はこんなことを恥ずかしげもなく言えるヤツなんだ。だから俺はこの男を嫌いになれない。残っていたハイボールを飲み干し、今日は飲んでやると勝手に意気込んでタッチパネルでハイボールを2杯追加する。何度も頼むのもダルいからメガサイズにしてやった。有宇お前も付き合えチクショウ。


「…まさかとは思けど、俺に遠慮して海を振ったとかじゃねぇよな?」

「まさかと思うなら聞くな。有り得ないよ。」

口許は笑っては居るがその瞳は真剣だった。海が好きになるのも理解できる。だってさ。こんなヤツ、誰だって好きになるだろ。


「じゃあなんでだよ。海が、理由を教えてくれなかったって悲しんでたぞ。」

「失礼しまーす、メガハイボールでーす」大事な話の途中だというのに、注文したメガハイボールが二杯、運ばれてきてしまった。初めて目の当たりにする植木鉢みたいなサイズのジョッキがドスン、ドスンと音を立ててテーブルに置かれると、大事な恋の話題から俺と有宇の意識は逸れた。突っ伏した海はモゾと身じろぎするが起きる気配はない。よくこんなうるさいところで熟睡できるものだ。

「おお…デッカ。俺のもメガにしたの?持ち上げるのに一苦労だよこれ。」ジョッキを掴んだ有宇が顔をくしゃっとさせて笑う。なんていうか…犬っぽい。

「初めて頼んだけどビジュアルインパクトすげぇわ。片手で飲めば、腕鍛えられるぜこれ。」 同じようにジョッキを掴み、ダンベルのように上げ下げする。大衆居酒屋がゴールドジムに早変わりだ。

 有宇は声を上げて笑い、思い付いたように筋トレする俺と、自分の植木鉢ジョッキの写真をスマホで撮った。コイツは何かと写真を撮る。お前、インスタ女かよ。


「…って、誤魔化すな!なんで海を振ったのか言え。」

「あは、バレたか。」

話題を変えてなるものかと食い下がれば、有宇は眉尻を下げ困り顔で植木鉢ジョッキを傾け、グビグビ飲んだ。…おいおい、大丈夫かよ。酒弱いくせに。

「俺、こういうの他人に話すの初めてなんだよね。あ、ちなみに誰にも言ってほしくないんだ。」

「…おう。言わねーよ。」


ハイボールを見詰め、再びグビグビやると、決心したように有宇は口を開いた。

「好きなひとが、いる。恋愛感情で好き。もうずっと、そのひとの事だけ大切に思ってるよ。だから海とは付き合えない。」


 …なんだよ。思ったより普通の理由だった。実はゲイですとか言われるのかと思った。もちろん、もし仮に有宇がゲイだったとしても、俺は変わらず友だちでいるつもりだけれど。


「…おう。それで?どこの誰だ?大学の女か?俺も知ってるヤツか?てかもしかしてもう付き合ってんのか?」

「こういう話するの、慣れてないんだ。勘弁してよ。」

困り顔で、それでもやっぱり笑っている有宇は、話を切り上げようとする。

「言えって。俺ら、親友だろ?」

 俺なりのダメ押しのひとこと。海のこともあるが、俺は友人として有宇の恋の話をもっと聞きたかった。あまり自分の話をしない有宇が、もっと俺には相談とかしてくれたらいいって思っていたから。大した助言なんか、できないけど、さ。


 俺の言葉に、柴犬みたいな黒目がちの目をまんまるくした有宇は泣きそうな顔になった。泣きそうな顔で笑った。

「…他人にそんなことを言われたの、初めてだ。」


なんだよ、そんな嬉しそうな顔されたら…こっちまで恥ずかしくなるだろうが。

「いいから、話せって。俺のが経験豊富だし?聞いてやるよ。」

顔が赤くなるのは、きっと植木鉢ハイボールが少し濃かったからだ。

「ん。そのひとは、健人は知らないひとで、俺の幼馴染っていうか…生まれた時からずっと一緒だった。お互いの全てが理解できて、全てを許せる関係っていうか。うん。そのひとの為なら…、

…そのひとの為なら、俺は死んでも良いって位に愛している。」


 そう言う有宇は、見たことない表情で笑っていた。こんな表情、海や俺ではさせられない。有宇がこんなにも強い想いを寄せる人とは、どんな人なんだろうか。



         4

  ゼミの授業で息投合した、高橋有宇と飯島健人、そして山田海の3人がつるむようになって二年目。毎年恒例二泊三日のゼミ合宿でも、彼らは三人でグループを組んだ。

  今回の合宿では広告代理店のOBを講師に招いていた。そして『企業の若者向けSNS戦略について』というテーマに基づいて、仮想企業の若者をターゲットに設定したSNS上のプロモーションをグループ毎に企画して発表する、という課題に取り組んだ。    

 さまざまなリスクを洗い出し、炎上の可能性を最小限に留めつつ効果を発揮する、つまりは”炎上せずにバズらせる”企画を考えるというものだった。こういう発想が得意な海と、そのアイデアを論理的に構築するのが得意な有宇、そしてそれをワクワクする話法でプレゼンテーションできる健人という抜群の布陣のグループだったので、準備は早々に終わり、発表前日の夜は自由時間にすることができた。


 俺と有宇と海。いつもつるんでいるとはいえ、流石に海は別の部屋に泊っており、先ほどメッセで様子を聞いたら女子部屋で先輩の女子となにやら話し込んでいるとのことで、仕方なく野郎2人で酒盛りをすることにした。…まぁ、有宇は酒弱いから結局俺ばっか飲むんだけれど。

「今回の合宿、ワンチャンお前ドタキャンするかもって思ってた」

「し、しないよ。」

「だってお前、泊まり込みとか旅行とか来ないじゃん。」

「…来るよ。たまには。海と健人と泊りたかったしさ。」

そう言う有宇は、ふわふわと曖昧な笑みを浮かべて笑う。こいつは、よくこの表情をする。

「有宇ってさ、なんでいつも笑ってんの?」

 小さな冷蔵庫からチューハイを取り出し、仕入れていたツマミ類の袋と塩味のカップ麺をかき集め、酒盛りの準備をしながら純粋に疑問だったから聞いた。深い意味は無かった。


「…なんで、だろうね。俺には何もないから、かな。」

寂しげに笑う有宇に、何故だか少し悪い事を言ってしまった気がして、俺は話題を逸らした。


「で、最近どうなのよ。例の(ゆう)さん」

敷きっぱなしのせんべい蒲団に胡坐をかいて、カップ麺を小脇に抱えてチーカマの端っこを齧って袋に穴を開けながら有宇に問いかける。有宇はカップ麺苦手だから、これは俺専用だ。チーカマは食うかもしんない。

 あれから、少しずつ、有宇は自分のことや恋愛のことも俺に話してくれるようになった。


 有宇は俺と同じで一人っ子だということ。小学校、中学校、高校時代はみんなと仲良かったが、今の俺や海みたいな特別仲良いやつというのは居なかったということ。そして、有宇がずっと好きだという相手は同い年で、今は海外留学をしていて、遠距離恋愛だということ。とても偶然だが有宇と読みは同じで”遊”という名前だということ。よくスマホで写真を撮るのは遊さんに送るためだということ。遊さんは有宇と違って酒が強いということ。聞けば照れながらも教えてくれた。


「どうって?変わりないよ。今は合宿中だからアレだけど、できる時はビデオ通話してる。」

きのこの山を開けながら、有宇が答える。酒飲みながら甘いもん食うヤツの気が知れないが、有宇はツマミに必ずきのこの山を入れてくる。最初は、甘い物が好きな海の為かと思い、その”気遣い出来る男”感にイラッとしたものだが、実は自分が食いたいから買っているんだと分かったのは最近だ。どうせ買うならたけのこにしろよ。

「ふーん、てか遊さんとはもうヤッたの?」

歯で空けた穴からぽろんとチーカマが飛び出す。よしよし、やっと食える。この苦労があってこそのチーカマだ。


「…ゲホ、ゲホッ、」きのこを頬張っていた有宇が噎せる。

レモンチューハイのプルタブを起こしてプシュと開け、差し出してやる。

「…ありがと、」

レモンチューハイで口の中をスッキリさせた有宇が律儀に礼を言う。が、次いで俺を非難する。

「いきなり変なこと聞くなよ。()せちゃっただろ。」

「で?どうなの?」

有宇は酒と俺に弱い。少し意地悪い気もするが俺と飲んでいると時の有宇は、少しだけお口のガードがゆるい。


「…無いよ。まだ。」

スン、と鼻を鳴らし俺から視線逸らした。…なるほど?つまり。


「なんだ、有宇お前童貞(ドーテー)か!」

言うと同時、有宇に頭を叩かれた。茹でダコのように耳まで真っ赤になって焦っている有宇が可笑しい。海は俺より有宇ばかり見るし、頭も良くて顔も悪くない、背だって高い有宇に時折劣等感も感じたりしてたが、これには随分と溜飲が下がった。俺だって一応モテる。自分で言うのもアレだが、コミュニケーション能力は高いし顔もまぁまぁだし?昔からファッションが好きで合コンやクラブで出会った女の子は目をハートマークにしながら「雰囲気が好き」なんてよく言われる。もちろん、セックスも三回経験済みだ。


「遊さん次はいつ帰国の予定なんだ?付き合い長いから、中々ソッチ方面に持って行けないのは分かるが…あんま先延ばしにすると逆に『女として見てくれない!』とか言い出すぜ? それに、さ。セックスはいい。ほんと、めっちゃ気持ちいいから。絆深まるっていうの?相手のこともっと好きになるし。」

男の先輩として雄弁に語ってやれば、普段下ネタには一切ノッて来ない有宇が食いついてきた。その目は話題に似合わずとても真剣だ。まぁ、男にとってはこれ以上ない重要トピックスだから無理も無いだろう。


「…セックスをすると、もっと相手のこと好きになるものなの?」

「ああ。肉体的に繋がると、なんか生々しく相手のこと感じるしさ。俺がこんな顔とか声とか、させてるんだって思うとすげー可愛く思えるし距離感縮まるモンだよ。…もちろん、好き同士の場合な?無理矢理とかそういうのはまた別。」


「そうだよね。無理矢理とかは…絶対に、許せない。…じゃあさ。健人はどんな人としたの?」

一瞬、有宇の目が暗く沈んだ気がしたが、こんな話にノッてくるのは本当に珍しかったので、俺はロング缶のストロングチューハイ片手に話した。

「はじめては中学んときの先輩。細くてスタイル抜群で結構美人でさ。芸能人でいうと、菜々緒に似てた。」

「…なんか、海と全然タイプ違うね?」

「うるせえ。俺は、好きになった人がタイプなんだよ。」

 女子部屋で談笑する海を思い浮かべる。

有宇に二回振られたあとも有宇のことを好きで居続ける彼女を、俺もずっと好きで居続けている。告白ももちろんしたが、断られた。「有宇が好きだから、」という彼女の切なげな顔も、いつものニコニコと笑う顔も、物事をハッキリ言う強い眼差しも、俺が下ネタを言うと「健人のばか!」と頬を膨らませるのも、全部が可愛くて大好きだ。俺なら海を一番好きでいてやれる。海がいるなら、もうぜってークラブも合コンも行かない。…有宇の事を好きでも良い。俺が、その分全力で海を好きになる。いつか、俺のことを見てくれるように、全力で大事にするのに。


「…海、俺にしてくんねーかなぁ…。」

 そうなったらいいのに、とガラにもなく祈るような気持が少し声を震わせた。すると有宇が俺の頭をくしゃくしゃと撫でた。その手は、とても温かかった。

「…やめろ、気色悪い!」

くそ、童貞のくせに。柔らかく笑う有宇の手を払い、ストロングチューハイを煽る。


「ああー、海とシたい。海とひとつになりてー」

少し戯けた調子でオブラート無しの欲望を口に出すと、有宇が俺の肩を小突いた。

「健人。声でかいよ。聞こえるって。」


アーとかウーとか言いながら俺が固い布団に転げると、有宇が抑えた声で言った。



「…ひとつになるってそんなに良いものじゃないよ。」

 

  飲み過ぎたのか、ストロングチューハイがとても予想以上にストロングだったために、俺はしばらく呻いたあと、有宇の布団の上で寝落ちしてしまった。



        5

 普通、二回も振られたら諦めるものだろう。

もしも友だちが二回振られた相手に懲りずに片想いし続けていたら、脈無いから次に行った方が良いよ、と勧めるだろう。けど、いざ自分の事となると少しも諦めることが出来なかった。

 健人と有宇と三人で過ごす時間が大好き。健人の気持ちに応えられないけど、変わらず仲良くしてくれる彼は良いやつだなって思う。三角関係で気まずくなるのは嫌だったけど、有宇も健人も本当に良いやつなんだ。


 三人で飲んでいた時のこと、私はその日生理だったこともあって、お酒がすごく回ってしまいテーブルに突っ伏して寝ていた。すると途中で物凄く大きな音がして目が覚めた。顔を上げようと思ったが、もしかしたらヨダレ出てるかも…有宇にそんな顔見せられない、と急に乙女心が発動した為に、しばらく寝たフリを続けようと思った。すると、男二人の話題は有宇の好きな人の話へと移って。やっぱり好きな人がいるんだ、と、私はテーブルにこっそり涙の水たまりを作った。 

初めて聞く有宇の優しげな声色に、敵わないなぁと思ってまた涙が出た。そして泣きながら再度テーブルで眠りに落ちた。長い時間そのままでいたものだから、袖のボタンの痕がおでこについてしまって、居酒屋の帰り道に健人と有宇に散々笑われた。あんまり笑うもんだから、つられて私も笑ってしまった。


 だから、有宇が私の事を好きにならないって分かってはいた。けれど、諦めることが出来なかった。大学のカフェテラスで独り感傷に浸っていると、有宇がコーヒーときのこの山を持って来た。

 彼はよくきのこの山を買ってきてくれる。いつだったか、有宇は言っていた。「海が好きそうだから買ってたら、いつの間にか俺もきのこ派になってたよ。」…ほんと、そういうところズルい。健人なんか、たけのこ派だし。チャラいし。良いやつだけど。


「海、ここに居たんだ。今日見かけないなって思ってた。」

「今日ゼミも英語も無かったしね。私、今日は福祉の講義だけだったんだ。」

「海、福祉取ってるのか。俺も履修しようか迷ったんだよね。内容どう?座学だよね?」

「うん、基本的には座学かな。たまに外部から講師も呼んで授業するよ。今日は、精神科の先生が講演してくれたんだ。」


「…精神科、へぇ。」

「最初眠くなるかなって思ったんだけど、精神科の先生ってさ、患者さんとお話しながら治療するからか、お話すごく面白くて!先生が書いた本も一人一冊配ってくれたんだよ」

「うーん。お寺のお坊さんの話が面白いみたいな感じかな?」

「あはは、確かに!お坊さんのお話も面白いよね。職業柄、なのかな。」


 有宇の買って来たきのこの山を2人で食べながら、談笑する。木々の隙間から零れた風と光が有宇に当たる。彼の柔らかい笑顔が、声が、私の胸の中を温かく満たす。ああ。やっぱり好きだなぁ。やっぱり、諦められないや。ごめんね、有宇。もう少しだけ、好きでいさせてね。

「これ、その先生が書いたっていう本?」

有宇が、きのこの山のとなりに置いてある本に視線をやって問う。本の背には『臨床精神病理学(りんしょうせいしんびょうりがく)入門―解離(かいり)の特性と原因―』と書かれている。小難しそうなタイトルだが、最近は多動性障害とか統合失調症とか、そのあたりの精神障害へ理解を進めようとする世の中的な動きもあるし、読んでおいて損になることはないと思う。


「貸してあげるから、有宇も読んでみて!有宇のゼミの研究、『ネットリンチ』でしょ?いじめの被害者とか加害者の子どもとかの心理状態の研究もあったけど、こういうのの可能性もあるんじゃないかなって思うし、何か発見あるかもだし。」

本を有宇に差しだすと、有宇は少しの間無表情で本を見詰め、やがていつもの笑顔に戻って本を受け取った。


「うん。ありがとう、海。読んでみるね。」


どういたしまして、と言いながらきのこの山を口に入れた。やっぱりきのこだよね。チョコが多くてほんと、おいしい。

そう言えば、完全に無表情の有宇を、初めて見た気がするなと思った。



        6

 三人一緒に履修している、現代グローバルビジネスの授業。私たちのゼミの教授が担当する授業なので迷わず履修した。教室で集合しいつも同じ席を三人で陣取る。


 新歓飲み(参加強要型コンパ)の忌まわしい記憶もあり、ゼミの先輩はあまり好きでは無かったが、教授はこの分野の研究者として有名なだけあり、とても尊敬できる先生だった。ゼミの講義はもちろん、このグロビジの講義もとてもおもしろかった。私たちでも知っているようなグーローバルの新しい企業たちは、なぜこんなに発展したのか、隠れたニーズとそれに応えるサービスの新しさなどを分かりやすく解説してくれた。受講生にはここの学生だけではなく、起業を目指す外部の学生や社会人たちもいて、早く来ないと前の方の席が埋まってしまうという奇跡の講義だった。


 しかし、その日の授業に健人が来なかった。

 周りからは意外だと言われるけれど、彼は真面目な学生だ。遅刻はもちろん無断欠席は有り得ない。いつも待ち合わせの十分前には到着しているタイプだった。

そして、これも意外だと言われるが、その逆で有宇はドタキャンと遅刻の常連だった。前日や当日に突然、「ごめん。調子悪くて今日行けない。」と連絡してきたり、約束そのものを忘れて翌日に土下座の勢いで謝ってきたりする。しっかりしているように見えて、結構ぬけているのだ。本人曰く、低血圧だから、だそうだ。まぁ、そういうぬけた所も含めて可愛いなんて思ってしまうんだから、私も救いようがない。

なのに、今日の授業は有宇は居て、健人が無断欠席。珍しいこともあるものだ。有宇も怪訝そうな顔をしている。

「健人から何か連絡あった?」

「いや、ないよ。」

「電車遅延とかかなぁ。」

私はスマホで電車の運行状況を調べてみたが、遅延は無さそうだ。

「…健人、飲み会がない時は、バイクで来てるよね」

「そういえば、そうだね…。風邪かなぁ。」

「低血圧かもね。」

「それは有宇でしょ。」

結局、授業の最後まで健人は来なかった。講義後、大学事務員の方が教室に来て教授と何やら話している。


「健人に電話してみようかな。」

「俺がかけてみるよ。」

有宇がスマホを取り出すのと同時に、教授は私たちところにやって来た。

「高橋、山田。いま飯島のお母様から大学にお電話があったらしいんだが…学校に来る途中で事故にあったらしい。病院聞いてあるから、午後の授業は休んで行きなさい。」


 タクシーに乗って教わった病院へ向かった。容態は分からなかった。手術中で、健人のお母さんにもまだ詳しく分からないとのことだった。

 病院に着くと、直ぐ正面にあった総合受付に行った。今日事故でこの病院に運ばれた飯島健人の友人である旨を伝え、今彼が何処にいるかを聞いた。看護師さんは直ぐに内線電話で確認をしてくれ、そして私たちに病室番号を教えてくれた。手術は終わったのだろうか…。

それを聞くと同時に、有宇が走り出した。びっくりして私も必死で追い付こうと急いだ。多分、ていうか、絶対病院は走っちゃだめだけど、それどころじゃなくて。

 

着いた病室は、窓が開いていて白いカーテンが揺れていた。ベッドは三つあったが、ひとつしか埋まってなかった。そのベッドの上には水色の病院着を着て顔の右半分と頭に包帯を巻いた健人が横になっていた。

「健人…ッ、」

急いだ為にガサガサの声で、彼の名を呼んだ。すると健人がこちらを向いた。

「…おー、悪いなわざわざ。海、髪ボサボサだぞ?」

「ばか健人!心配したんだからね!」膝の力が抜けそうになる。痛々しいが取りあえず、元気そうだ。

「…悪い悪い。バイクで滑っちまってガードレールにドン!死ぬかと思ったー。」

「…それ笑えないよ。身体、大丈夫なの?」

「おう。スネと頬骨の骨折、あと各所縫ってもらった。ズボンの中、見る?」

「ばか。」

ふと、健人が何も言わない有宇に視線を向けて笑う。よく見ると眉上にも切り傷があって痛々しかった。

「…おい、有宇。お前、それはどういう顔だよ。」

言われて有宇を見ると、たしかに変な顔をしていた。眉をハの字にしながら唇震わせて笑っていた。なんというか、苦笑いみたいな変な顔だった。有宇には左目の下にホクロがあって、それがピクピクと動いていた。


「…いや、俺…、こんな時どんな顔していいか分かんなくてさ。」

「綾波レイかよ」

「ごめん俺エヴァ分かんない。」

ほっとしたのもあって、私たちは笑った。


 それからしばらくは、有宇の様子が変だった。健人が事故ったのが随分ショックだったようで。彼は私なんかよりもずっと、繊細だったのかもしれない。健人は三週間も入院になったから、しばらくはランチも二人きりだった。好きな人とふたりきりのシチュエーションだけれど、私もちっとも嬉しくはなかった。

「海。俺さ、健人が死ぬかもしれないって思ったとき、初めて“人が消える”ってどういうことか具体的に想像したんだ。」

「うん。」

有宇のコロッケパンはテーブルに放置されたまま、少しも減らない。

「大切なひとが急に消えて、もう二度と会えなくなる。それがとても恐ろしいことだって、初めて気づいた。当たり前のことなんだけど、今までは想像もできなかったんだ。」

そう言う有宇の手は震えていた。どこかにぶつけたのか、握りしめた拳にはアザがあった。


 有宇、大切な人が死ぬことは恐ろしいことだって言ってたね。私や健人が同じ思いをするって気づかなかったなら、あなたは本当に大馬鹿者だよ。私たちにとって、あなたは大切なひとだったのに。



         7

 いつかの日、励ますように俺の頭を撫でた手をそっと握ると、硬い消しゴムのように硬く、そして冷たかった。

俺が病院のベッドで寝ていたとき、変な顔で見舞いに来た有宇は、死んでもなお、ほんの少し笑っているように見えた。…なんでいつも笑っているんだって聞いた時、「俺には何もないから」とか、そんなことを言っていたっけ。


 俺は有宇の親友だった。少なくとも、俺はそう思っていた。自分の話はあまりしない有宇だったが、聞けばいろんなことを教えてくれた。悩んでいる素ぶりなんて、まして自殺の素ぶりなんて、少しも無かった。どうして、なんで、どうして。グルグル頭を巡るのは、なんでこんなことになったかということと、自分には有宇の自殺を止められたのではないか、という自責の念。


 明らかに憔悴している海を引きずるように病院から連れ出して、近くのファミレスに行った。とてもじゃないが酒を飲む気分にはなれなかったし、昨日まで有宇と一緒に居た大学に行く気にもなれなかった。

 海の好物のクリームソーダと、俺はコーヒーを注文した。海が好きな、赤い缶詰のさくらんぼが乗っているやつだったが、彼女は手を付けなかった。


「私…全然気付かなかった。」

「そんなの。俺だってそうだ…。」

真っ青な顔で泣く海を見ていたら、こっちまで泣きそうになったが耐えた。有宇、お前はほんとに海を泣かしてばっかりだな。


「健人、有宇のお母さんとお父さんってお会いしたこと、ある?」

涙をごしごしと使い捨てのお手ふきで拭うと、海が思い出したように聞いた。

「…いや。有宇の家は行ったことあるけど。実家には流石に行ったことねぇよ。」

「有宇の実家、千葉だよね?」

「ああ、そう言ってた。何でだ?」

「だって…病院にご両親、居なかったから。…ご挨拶っていうか、私、謝りたくて…、」

そう言って再び声を詰まらせる海から、視線を逸らした。泣きそうになっている場合ではない、しっかりしねぇと。息を吸い込み、短く吐き出す。大丈夫。親友のために、出来ることをしよう。


「そうだな。ちゃんとご挨拶しに行こう。有宇の私物、ゼミの部屋に置きっぱなしの物も返してあげたいしさ。大学での話とか。…自殺するようなことは、無かったって事も。ちゃんと伝えよう。有宇のところで待ってれば会えるだろ。」


 有宇の家族に会えると踏んで再び向かった病院で聞かされたのは、有宇の亡骸が、通夜も葬儀もされず直葬になるということだった。

…は?直葬?葬式をしないなんて、そんな事あるんですかと詰め寄れば「行政の行旅病人及行旅死亡人取扱法に則った手順です」と訳の分からない説明を受けた。

俺たちが噛み砕いた説明を求めた結果分かったのは、有宇には彼の葬儀を行うような血縁者が居ないということ。だから、そのまま火葬場で焼いて共同墓地に入ると言うことだった。

 有宇には、俺たちが思い描くような実家とか家族とかっていうものは無かった。


 最初は警察に、次いで大学の学部の事務局に問い合わせたけど、どちらも個人情報だという事を理由に何も教えてくれなかった。困っていた俺たちに手を差し伸べてくれたのはゼミの教授だった。

教授は、俺と海が有宇と特別親しかったこと、ゼミの教室に残されたままの彼の私物を持っていて、彼の関係者にお返ししたいと思っていることなどを大学事務局に説明してくれた。事情が事情ということもあり、大学事務局は有宇が高校まで過ごしていたという養護施設について俺たちに教えてくれた。


         8

 彼に家族は居なかった。実家の話を有宇がしなかったのは、彼には私たちに言うような実家というものが無かったからだった。そんなことも、彼が死ぬまで知らなかった。

黙り込む健人と、事務局を後にしながら私は気になっていたことを口にした。

「有宇の好きな人のこと、聞いていい?」

健人は細い目を少し見開いた。「…お前、知ってたのか。」

「まぁね。二人が居酒屋で話しているのを途中までだけど聞いてたから。…それより。その、彼女…なのかな、その人は…もう有宇が亡くなったこと知ってるのかな?」

病院では一度も顔を合わせなかった。彼女なら最期のあとも一緒に居てあげて欲しかった。

「いや、海外留学してるらしくて。」

「…じゃあ知らない可能性あるね。名前は?フルネーム分かればフェイスブックの検索で探せるかも。」

「下の名前しか聞いてない。…実はさ、病院行った日、海がトイレ行ってた時に、警察のおっさんに聞いてみたんだけど…親族じゃないと遺品のスマホのパス解除はできないんだって。有宇のスマホ見れたら彼女の連絡先分かるのに。」

 再び沈黙が落ち、八方塞がりで考え込んでいると、ふと思い出したように健人が言った。

「…そうだ、彼女…(ゆう)さんっていうんだけど、有宇と生まれた時から一緒に居る幼馴染だって言ってた。」

「遊さん。同じ名前なんだ。そっか、幼馴染…。」

「有宇がいつから施設に居たのか分かんねぇけど、施設に彼女のこと知ってる人いるかもしれない。」


 千葉にある、養護施設を健人と二人で訪れた。そこには今も五歳くらいの子から高校生くらいの子まで、二十名程が暮らしていた。施設、というと、勝手なイメージで施設員に虐められたり貧しく酷い状況を思い浮かべていが、そんな事は全くなく、施設内は清潔でピカピカに掃除された窓からは、庭のミモザの木に黄色い花がたくさん咲いているのが見えた。施設員の方々はとても親切だった。そして、既に警察から連絡が入っており有宇が自殺したこともご存知だった。


 有宇が十歳でここへ来た時から知っているという女性施設員の吉岡さんに、「『ネットリンチのメカニズムと防止』研究メモ」とラベルの貼られた有宇のゼミのノートをお渡しした。ご自身にも大学生のお子さんがいるとのことで、お母さんって言葉が似合う優しい笑顔の吉岡さんは、有宇が書いた綺麗な文字を指でなぞって静かに泣いた。

「…、どうして…。」


 吉岡さんは、有宇のノートを届けに来た私と健人に何度も何度もお礼を言った。

そして、私たちが大学での有宇の様子…明るくていつも笑っていて…自殺するほど何かに追い詰められるような事は、無かったと思うという事をお話した。

「そうですか…、やっぱりまだ不安定なままだったんじゃないか、だからこんな事になったんじゃないかって思っていたのですが…。」

無言で健人と視線を交わした。私たちだけでも、ちゃんと有宇を知って、彼がこの世にいたことを覚えておいてあげたいと思ったから。もしかしたらそんなこと、有宇は望まないのかもしれないけれど。

 私たちは、私たちの知らない有宇の過去を吉岡さんから伺った。差し支えない範囲で、とお願いをしたが、彼女が教えてくれたのはほとんど有宇の全てなんだと思う。私たちが知らなかった、彼の過去。彼が背負ってきたもの。


 有宇は一人っ子で、父親と母親と三人で暮らしていた。そして恒常的に実の父親から虐待を受けていた。何歳ころから行われていたのか定かではないそうだが、やがてエスカレートした暴力の末に、命の危険を感じた有宇が父親を刺殺した。有宇が九歳の時だった。もちろん、背景は考慮された上、正当防衛も認められたのだが、母親は精神的に追い詰められて入院。引き取り手の無かった有宇がこの施設に入所したのは彼が十歳になった日だったという。


そして、有宇の幼馴染、遊さんのこと。吉岡さんは首を傾げる。

「幼馴染の女の子…ですか?そういう子は居なかったと思いますよ。ここに来る前は軟禁状態だったと聞いていますし…ここに来てからも、ひとりで居ることの方が多かったんです。」

とても懐かしそうに、シワの刻まれた目尻を下げながら話してくれた。

「よく笑う日もあれば、ずっと一人でこもっているような日もあって。日によって感情の起伏の大きな子でしたから、友だちも出来なくて。…けれど、今日あなた達のお話に出てくるあの子は、明るくて愛されている人のように思えました。もしかしたら、本来のあの子はそういう人なんでしょうね。…それがこんな結果になってしまったのは、やっぱり過去の所為なのかしらね…本当のことは分からないけれど。」


 千葉の施設を後にして、上り電車に揺られる私と健人の間にやっぱり会話は無かった。

「俺たち、何も知らなかったんだな。俺、合宿の風呂で身体に火傷の痕があるの、見たんだよ。けど過去とか親のこととか何も気づかなくて、何も言わなかった。」

ボソボソと健人が言った。ここには居ない、彼に向かって。

「言ってくれればよかったのに。お前は…馬鹿野郎だ。」

健人の背中をそっと撫でた。こいつは、私の前だと泣かない。けれど、心が泣いているのが聞こえる。しゃくり上げて泣いている。

 ねぇ、有宇。健人が泣いてるよ。健人に、親友だと言われて嬉しかったって、そんなの初めてなんだって、いつか私に教えてくれたよね。あなたの親友が、泣いているよ。なんで、何も言わずに死んじゃったの?


タイトルにもした、Stevie Bの「Because I Love You(The Postman Song)」という90年代の洋楽から着想して書きました。既に完結済みの作品なので、あと2回、近日に更新できると思います。


最後になりましたが、読んで頂き、ありがとうございました!

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