第八伝: 未来への旅立ち
<オルディネール>
雷蔵が後を去った後、既に夕日は沈み夜の帳がフィルの家を包み込む。怪我人というのもあり今まで睡眠を多く採っていたせいか、フィルは寝付けずにいた。彼が寝ていたベッドから上体を起こすと、脇腹に少しではあるが痛みが走る。
「……でも、歩けなくはないな」
既に自身の怪我が回復しつつある事を直感的に感じ取り、傍にあった椅子に両手を置きながらゆっくりと立ち上がる。自分の老人のような振る舞いに自嘲気味に笑みを浮かべると、そのままフィルは玄関へと歩き始めた。玄関の靴棚に立て掛けられていた父の剣を手に取り、それを杖にしながら彼は扉を開ける。
「こんなに……綺麗だったっけな」
雲一つない夜空に幾つもの白い光が照らされ、まるでプラネタリウムのように輝く美しい景色を見上げながらフィルは家の横に耕された畑のあぜ道を歩いていく。鈴虫の鳴き声がより一層幻想的な景色を惹き立て、涼し気な風が彼の全身を駆け抜けていった。フィルが生まれ育ったこの土地にはたくさんの思い出があり過ぎた。畑仕事に従事する父を手伝い、作業が終わったと同時に父と共に剣の稽古をつける日々。幼き日のフィルの目には、父の逞しい背中と筋肉のついた両腕が確かに今まで刻み込まれている。
「……父さん……」
農作業と稽古に疲れ切ってその場で寝てしまったフィルをおぶる父の温かい背中は、今でも思い出せた。戦地で鍛え上げられた彼の背中はフィルにとってレンガで作り上げた城壁よりも固く感じられ、そして何よりも安心できた。彼の脳裏に残っていた家族の記憶に耽りながら、彼はある場所へと辿り着く。白い木で作り上げられた、三つの墓。家族が盗賊の襲撃により殺された翌日、レオとセージュが作ってくれた唯一無二の家族の墓だった。小川の辺に立てられた三つの墓が、月明りに照らされて影を形作っている。そして彼の目に映るのは、見覚えのある赤毛のボブカットだった。
「ルシア……」
「……よっ、フィル。どうしたの? 」
「ルシアこそ……ここで何してるんだ? 」
川辺に座り込む彼女の隣にゆっくりと腰を下ろし、肩と脇腹の痛みに耐えながらフィルは地面に座り込む。風呂上りなのか、川風がそよぐ度に女性物の石鹸の心地良い匂いが彼の鼻に触れた。
「うーん……なんか寝付けなくて、さ。ここに来ると落ち着くんだ」
「……奇遇だね、僕も。つくづくルシアとは気が合うんだって実感するよ」
「い、今更何言ってんの。幼馴染なんだから、当たり前でしょ」
水面に映る満月が揺らぎ、傍に住んでいた両生類の鳴き声が二人の間の沈黙を飾り付ける。三つの墓は何も言わず二人を見守るのみで、静寂がルシアとフィルを包み込んだ。
「……ねぇ、フィル。私たちが初めて出会った時の事、覚えてる? 」
「うん? えーと確か……この小川で……だったっけ」
「そうそう。私が6歳の誕生日に買ってもらった髪飾りを落としちゃった、って言ってフィルとおじさんに探してもらったの。結局見つからなかったけど……泣いてる私にあの後、お花の髪飾りをくれたんだよね」
そんな事もあったな、とフィルは深く息を吐く。彼の家族がこの村に引っ越して間もない頃、フィルは父と共に家の周辺へ探検に出かけた。美しいこの小川が流れるこの土地で、泣きじゃくる彼女を見つけたフィルは彼女を助けようと子供ながら必死になっていた。家族がまだ生きていたころの楽しい記憶。それが、二人の邂逅だった。
「びっくりしちゃったよ。だって全然知らない男の子が私にいきなりプレゼントだって言って、急に髪飾り渡してくるんだもん」
「あ、あれはその……泣いてるルシアを放ってはいきたくなかったから……。何か出来る事はないかって母さんに聞いたら、髪飾りの作り方を教えてくれたんだ」
「それでも……私すごく嬉しかった。異性にあんなことをされたなんて初めてだったし」
フィルは自身の頬が紅潮していくのが感じて取れる。まさか素直な子供だった頃の話を今この場でされるとは正直彼も予想だにしていなかったからだ。照れ臭さを隠す様にフィルは隣の彼女から目を逸らし、後頭部を掻き始める。こうして見ると初めて出会った頃に比べてルシアは随分と綺麗な女性になったと、フィルは実感する。夜空に映る満月を見上げる彼女の顔立ちは、月明りに照らされてまるで一国の王女のように荘厳と可憐を兼ね備えていた。
「……フィル。明日、行っちゃうんでしょ? 騎士学校に」
「えっ? ど、どこでそれを……」
「お兄ちゃんから聞いたの。雷蔵さんたちと一緒に明日旅立つって、聞いて……それでね。だから……お別れを言いに……」
フィルが彼女と見つめ合った瞬間、彼女の両目から真珠のような大粒の涙が幾つも零れ落ちる。
「あ、あれ? なんでだろ……? どうして私……泣いて……? 見送るって、決めたのに……」
「……ごめん。ルシア」
初めて出会った時のように泣きじゃくる彼女にフィルがしてやれることはただ彼女の身体を自分の胸へ迎え入れる事だった。ただ一つ、あの時と違う点を挙げるのならばそれはフィルが彼女を助けてあげられない事だろう。彼はルシアに言葉では言い表せない程の感謝の念を抱いていた。家族を失ったフィルを励まそうと毎日彼の家へ詰め寄り、掃除や食事を作ってくれた。今の自分があるのは、間違いなくルシアのお陰だと断言できるだろう。
「嫌だよ……フィル……。行かないでよ……! 私……まだなにもしてあげられてないのに……」
「何を言うんだ、ルシア。君から僕は沢山のものを貰ったよ。落ち込んだ時に支えてくれたのは君だった。それがどんなに有難かったか。どんなに救われたか。君が思っている以上に、僕はルシアに感謝してる」
「でも……また今日みたいにボロボロになるのかと思うと……! 」
その瞬間、月明りに照らされた二人の影が一度だけ重なった。
「僕は必ず帰ってくる。必ず君の元へ、僕は戻る。今よりももっと大きくなって……村を、ルシアを守れるくらいに強くなる」
「うん……うん……」
「手紙を送るよ。それに好きな人には笑って見送ってほしいんだ」
抱き合っていた状態からルシアを離し、フィルは立ち上がる。隣の彼女も涙を拭って立ち上がり、フィルの腕と自身の腕を絡ませた。ふと背後を振り向くと月明りに照らされた小川の水面が白く輝き、そしてフィルははにかんだ笑顔を見せる。そこには確かに、笑顔を浮かべている家族の姿が見えたから。
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<オルディネール・西門>
翌日の明朝。まだ太陽が半分しか顔を出さず、水色と橙色の優美なコントラストが空に浮かぶ頃に雷蔵たちは次の目的地であるトランテスタへと向かう西門へと足を進めていた。ただ一つ特筆すべき点と言えば、彼らの旅に一人の少年が加わったことだろうか。少年――フィランダー・カミエールは普段から着ていた服とは違い、鉄製の胸当てやなめし革で出来た篭手、鉄靴を身に纏っている。防寒用の朱色のマントを首から提げ、腰には彼の父から受け継いだ両刃剣を差していた。
「本当に良いのか? 誰にも別れを告げずに立ち去るなど……」
「いいんですよ。今みんなの顔を見たら未練が残っちゃいますから。それに……大切な人とは昨日の内に話しておきましたし」
「ほほう? ルシア殿と逢引きでもしおったか? ふふ、意外に抜け目がないのだな」
「他人の恋路を邪魔しちゃダメですってば。フィル君がそう言うならいいじゃありませんか、ね? 」
確かにそうだ、と言い残し雷蔵は石造りの西門へと辿り着く。早朝というのもあってか関所には数人の衛兵しか見回っておらず、村人の姿は見当たらない。関所を通り抜けようとした時、雷蔵の背後を歩いていたフィルの足が止まった。16年間生まれ育った故郷を捨て、新天地へと向かう少年の心境は雷蔵は痛いほどよく理解できる。
「寂しいか? 」
「……いいえと言えば、それは嘘になります。でも……僕自身が選んだことですから」
「……そうだな。なぁに、そう気に病むではない。戻ろうと思えばいつでも戻れるさ」
「そう、ですね」
関所の衛兵に通行証を手渡し、3枚に増えた書類に雷蔵は少しだけ違和感を覚えた。シルヴィを先に行かせ、雷蔵とフィルは関所を通り抜けようとしたその時。衛兵の一人が彼らの行く手を止める。
「……これで通行の手続きは完了です。どうぞお通りください」
「うむ、かたじけない」
雷蔵は背後から何者かが此方へ向かってくるのを感じ取り、腰に差していた愛刀の柄に手を掛けた。しかし背後を振り向くと、その感覚は杞憂に終わる。彼の視線には赤毛の男性が着の身着のまま走ってくる姿が映り、その男――レオは乱れた呼吸を整えようと膝に手をついてしばしの小休止を挟む。まさかフィル自身もこうして見送りが来るとは思っていなかったのだろう、隣の彼は驚いたように目を見開いた。
「レオ!? どうしてここに……」
「別れの言葉もねえなんてひどいぜフィル。お前の家を見に行ったら誰もいなかったから走って来たんだ」
「ごめんなさい、レオさん。フィル君がどうしても先に行きたいって言うもので……」
「あぁ、いいんだよ。もし同じ立場だったら俺もそうしてたさ」
呼吸を整えたレオはフィルを見るなり、彼よりも一回り大きな体でフィルの身体を抱きしめた。突然の事で反応できなかったのか、フィルは手にしていたズダ袋を地面に落とす。
「へっ、見違えたぜ。俺のお下がりでも似合うもんだな、フィル」
「これ……レオのだったんだ。急に用意してあったから誰のものかとおもったよ」
「弟分が旅立つって時に、何も準備できてない兄貴分じゃあ情けねえだろ? あと……ほれ。これ持ってけよ」
レオから差し出されたのは麻の紐で縛られた小さな巾着袋だった。フィルはそれを手に取り、中を開けてみると無数の金貨が袋に入っている。驚きの表情を浮かべながらフィルは彼の顔を見るが、レオは屈託のない笑顔を浮かべるだけだった。
「……何も言うな、フィル。ただお前は進めばいい。それだけでいいんだ。お前自身が決意を持って決めた道だ、胸張って歩けよ」
「……うん。ありがとう、レオ。僕、必ずここに戻ってくるから。それこそ、レオたちを守れるようになるまで」
「なにぃ? 生意気言いやがって! 鼻水垂らしながら泣きわめいてたガキんちょがよく言うぜ! 」
フィルの頭を乱暴に撫でまわすレオは、しばらくして目に涙を浮かべる。隣にいた雷蔵とシルヴィの双眸には、二人がまるで血の繋がった兄弟のように映った。
「泣いてるの、レオ? 」
「ばっ、馬鹿言うんじゃねぇ! 早く行けっての! 目にゴミが入っただけだ! ほら、さっさとしろ! 」
「う、うわぁ! 押さないでよ! 」
彼の身体を無理やり関所の外へと追いやるレオに連れられ、雷蔵とシルヴィも二人の後に続く。赤く目を腫らして涙を拭ったレオは、先ほどと同じように満面の笑みを三人に見せた。
「じゃあな、フィル! 雷蔵さん! シルヴィちゃん! また会おうぜ! 」
「……うん。必ず戻ってくるよ」
「うむ。これにて失礼するぞ」
「さようならーっ! 」
関所の大きな門が閉まるまでレオは彼らが旅立っていくのを見守り、フィルも同じように門が閉まるまでレオの姿を見続ける。そして門は音を立てて閉じ、彼の村の景色は一切見えなくなった。雷蔵とシルヴィはそんな彼らの様子を横目に、彼よりも先にゆっくりと歩き始める。
「さて、フィルよ。辛気臭いのはここから無しにしよう。これから拙者たちは西へと進み、トランテスタまで歩き続けるつもりだ。シルヴィ、そこまで辿り着くのにどのくらいかかる? 」
「うーんと……おそらく4日くらいだと思います。早ければ3日で着きますが、遅ければ5日掛かりますね」
「そういう事だ。別れを惜しんでいる暇はない。征くぞ、フィル」
目に浮かべていた涙を右腕で拭い、フィルは覚悟の宿った双眸を二人に向ける。
「はい! これからよろしくお願いします! 」
ここから第一章は終わり、次の話は第二章となります。