第七十八伝: 移り行く世界の中で
<シヴセ・ヤ平原>
曇天と雪原。
地面に無数に降り注ぐ僅か数ミリの雪の結晶が、緑色の大地を白銀に染め上げる。
一面に広がる白い景色を一瞥しながら、3人の男女が足跡を残しながら重い足取りを進めていた。
笠に積もった雪を最早気にせず、黒いロングコートを身に纏う男が腰に差した刀の柄に手を掛けながら雪を踏みしめる。
白い襟巻が風に揺れ、男は笠の縁を傾けて空を仰いだ。
無精ひげを剃り、武士らしい武骨な顔が姿を現す。
近衛雷蔵。
忌々しそうに空を見上げる男の名は、そんな名前だった。
「何をしている、雷蔵。止まっていたらあっという間に体温を奪われて死ぬぞ」
動物の毛皮で作られた厚手のコートを身に纏い、雷蔵と同じような笠を被る少女――――志鶴椛が振り返って口を開く。
「嬢ちゃんの言う通りだ。こんなとこ、さっさと抜けてどこかの村にでも入った方が良いねェ」
その隣で、藁の防寒具を着ている白髪交じりの老人――――霧生平重郎が手にした杖で雪を掻き分けながらそう言い放った。
雷蔵はそんな二人に肩を竦めて見せ、再び雪で重くなった足を進める。
3人がフレイピオスを抜け出してから、約一年の月日が経過していた。
未だにロイの足取りは掴めておらず、唯一得た情報は彼らがこの機甲帝国ヴァルスカに潜伏している事。
道中で様々な村や町を訪ねた結果、一年という長い時間を有してしまった。
現在彼らはフレイピオスとヴァルスカの国境付近まで辿り着いており、ようやく帝国の領土内に入る事が出来た。
この帝国では冬の季節に雪が降り積もる事が有名で、毎度記録的な豪雪のようすが新聞の記事に取り上げられている。
鉱山資源が潤沢な帝国はこの時期でも鉱山を稼働させており、工業製品や技術力の高さがその一因となっていた。
「済まぬ。あまり見慣れぬ風景で年甲斐もなく興奮してしまっているのだ」
「童心に還るのもいいが、足だけは引っ張るな。せめて、暖かい暖炉の前だけにしろ」
また、雷蔵だけはロイの暗殺指令を依頼したゼルギウスとは定期的に通信媒体で連絡を取り合っている。
各地で得た情報の交換もあるが、何も言わずに残してしまった仲間たちの様子も彼から聞いていた。
そして何よりも、雷蔵にとって気がかりなのがシルヴィの事である。
彼女に別れを告げたとしても、好きな事には変わりはない。
「言えているな。早くどこかに入って暖かい酒でも飲みたいものだ」
「おっ、熱燗かァ。いいねェ、茹でた烏賊なんかで締めたら最高だ」
「そんなものはこの国で手に入らん。精々、蒸留酒がいい線だろう。希望を持ちすぎるなよ、酒飲み共」
「怖いねェ。昨日ヴァルスカの肉を大喜びで食べてた女の子が良く言うよォ」
瞬間、椛の頬が赤く染まり彼女は平重郎に詰め寄る。
「うるさい! 食べ物に喜んで何が悪いんだ! 空腹で死ぬかと思ったんだ! 」
「あの時ほどお主を愛いと思った時はないな」
「きっ、貴様! 忘れるまで許さんぞっ! 」
「ははっ、捕まえてみろ椛」
無駄な体力を使わせるな、と叫びながら椛は一足早く先に逃げる雷蔵を追いかけ始めた。
雪で足が取られるせいか、二人はうまく走る事が出来ずに顔面から雪の中へ飛び込む羽目になってしまう。
そんな様子を見た平重郎は笑い声を上げながら着物の懐から煙管を取り出し、マッチの火を近づけた。
顔が雪塗れになりながらも雷蔵は起き上がり、再び曇天の空を見上げる。
「いたたた……慣れない事はするものではないな……ってどわっ!? 」
「捕まえたぞ雷蔵! 伊達に忍として生きてきたわけではないのだ! 」
「む、無駄な体力と言っていた口はどこに……! 」
「ほざけ! 炊き付けたのはお前だ! 」
いきなり椛の細い両腕が雷蔵の筋肉質な首へ伸び、彼の首に巻き付いた。
二人が争う様子をまるで父親のように視線を向ける平重郎は、笑い声を上げながら彼らの下へ歩み寄る。
「そこまでにしときな、二人とも。本当に体力を消耗して死んじまうぞ。それに、最寄の村までもうすぐみたいだしキビキビ行こうじゃないか」
平重郎が指さした方向には確かに白い煙が上がっている光景が見え、雷蔵と椛の口角が自然に吊り上がった。
知らず知らずのうちに雪原を歩いていたのだろう。
彼の言葉と共に3人は再び歩き始め、曇天の空と白銀の雪原の奥へと消えていった。
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<ぺルセルド郡・テオボスの村>
帝国の南西側に位置するこのぺルセルド郡では、冬の季節の度に豪雪に見舞われる。
雷蔵たちのような旅人がフレイピオスからヴァルスカへ向かう際、必ず目にするのが白銀に包まれた関所や村の光景であった。
彼らは"テオボスの村"と書かれた門を潜り抜け、ようやく雪が掻き分けられた地面を踏みしめる。
時刻は既に夕方時を過ぎており、大通りにあまり人の姿は見られない。
むしろ村人たちの方からは珍しいものを見るような視線を投げかけられた。
「……妙に寂れた感じだが……何かあったのだろうか? 」
「外来客用の宿屋くらいはある筈だ。探すぞ」
雪と冷気で凍った土の地面を歩き始め、3人は宿屋を探し始める。
大通りの奥地へと進んでいくにつれて、倒壊した家屋や建物が多く見受けられるようになっていた。
そんな景色に不安を抱きつつも雷蔵はようやく宿屋の看板を見つける。
しかし――――。
「崩れている……? 」
「……おいおい、冗談だろう……」
目の前に広がるのは、無残にも破壊された二階建ての家屋。
一階の食堂が外に野ざらしになった状態で放置されており、半分以上が雪に埋もれていた。
その時、一人の若い女性が雷蔵たちを見つける。
彼女は3人に駆け寄り、雷蔵の肩を叩いた。
「あ、あの……貴方達……もしかして冒険者ですか……? 」
「如何にも。そう言う貴殿は、この村の方と御見受けする。この惨状について、何か知っている事をお聞かせ願いたい」
「ここじゃあまり……。でも、お話を聞いてくれるというなら……家に来て下さい。事情は其処でお話します」
雷蔵は椛と平重郎に目配せをすると、二人はその視線に応えるかのように頷く。
この女性が信用に値するという事だろう。
「承知した。御宅に上がらせて頂く」
「ありがとうございます。では、こちらに」
おそらく彼女は雷蔵たちに依頼の話を持ち掛けるのであろう、女性の表情は深刻なものだった。
女性に言われるがまま3人は服に付いた雪を払い落としてから一軒家の扉を開け、中に入る。
石で作られた家の中は玄関を開けたすぐ其処にリビングが一体化しており、二段ベッドの一段目には幼い少女が寝かされていた。
暖かな光を放つ暖炉が雷蔵たちを含めた四人を寒さから解放し、気を緩ませる。
「お姉ちゃん……? その人たちは……」
「……初めまして。拙者は近衛雷蔵。いきなり家に上がらせて貰って済まない。拙者たちは世界を回っている冒険者でな。今回、お主の姉上殿とお話するために上がらせてもらった」
「わたし、ヴェーラっていうの。よろしくね、雷蔵さん」
美しい金髪の少女、ヴェーラは弱々しく雷蔵の手を握った。
彼はヴェーラに一度だけ別れを告げると、彼女の姉の案内のもと客間へと導かれる。
身に着けていた防寒具と笠を外し、雷蔵は普段の胴着姿となってから腰に差していた愛刀を壁に立て掛けた。
その時、お盆に三つのマグカップを乗せた女性が姿を現す。
「……改めまして、リラ・ウルノフと申します。今回貴方がたをこの場に御呼びしたのは他でもありません……"人工魔獣"に関する事です」
人工魔獣。
雷蔵たちがフレイピオスを出国したとほぼ同時に姿を現し始めた、異形の怪物。
殆どの魔物は人型や獣型の2種類に分類される謂わば他種族の生き物であるが、この人工魔獣というのは完全に原型を留めていない。
人体を模した骸骨であったり、空中を飛び交う光そのものであったり、または地面を這う液体であったり……と多岐に渡る分類が多く存在する。
雷蔵はその単語がリラの口から出た瞬間、眉を顰めた。
事実彼らも、この人工魔獣に何度も苦戦を強いられてきたからだ。
その理由は、この魔獣自体の性質にある。
それは、"魔法を伴った攻撃でしか倒せない"という事。
逆に言ってしまえば、魔法の効果を付与した武器でなら倒せるという性質だ。
冒険者には人工魔獣に対抗する為に魔法具の装備が義務付けられ、今や殆どの旅人たちが武器に魔法を付与している。
「……やはり、か。ここは元々、あまり魔物の襲撃を受けない地域だと聞いている。雪の寒さに耐える為に自然の中で狩りをして、冬眠に備える種がほとんどだとな」
「はい、仰る通りです。この村にも、人工魔獣の影響が大きく出ているんです。あの……黒い甲冑を着た騎士がここに来てから」
「黒い甲冑……? この寒さをしのぐのには随分と軽装に聞こえるねェ」
平重郎の言葉に戸惑いながらも、リラは頷く。
マグカップに入った暖かいココアを口にしながら、彼女の言葉を待った。
「最初は私もおかしいと思いました。でも……そんなことを思ってる暇も無く、あの黒い騎士は村の人間を次々と殺し始めたんです。それこそ私のような女から、ヴェーラのような子供まで」
「何……? 」
苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながらリラは当時の惨状を思い出しているようで、瞳に段々と涙が浮かんでいく。
椛がすぐに彼女に寄り添い、落ち着かせるように背中を擦った。
「その騎士が満足したかは分かりませんが……。ある程度の人間を殺したところで逃げ惑う私たちにこう言ったんです。"脆弱な人間共よ。私を殺しに来い"……と。そう告げた後、騎士は村の先にある洞窟へと去って行きました。その後に魔獣が村の周りで出るようになって……。今は帝都から送られてきた兵士さん達に防衛をお願いしている状況です」
「……なるほど。だいたいの事情は読み込めた。それで拙者たちに、その騎士の殺害を頼みたいのだな? 」
リラはおそるおそる頷く。
元々争いを好む性格ではないのだろう、殺すという単語に彼女は過剰に反応しているかのように見えた。
「お願いします……! どうか、この村を……救ってください……! お金でも何でも差し上げます! だからどうか……! 」
縋りつくようにリラは床に頭を擦りつけ、雷蔵達三人に頭を下げる。
人工魔獣が関わっているのなら、彼らが黙っている訳にはいかない。
一連の事件と魔獣の発生は必ずどこかでロイが関係している、と雷蔵は推測していた。
無論、確証はないが。
「……顔を上げてくれ、リラ殿。拙者たちはこの暖かい飲み物に救われ、貴女の暖かいお気持ちによって寒さを凌げた。それだけで構わない」
「で、ですが……! 」
「この男は馬鹿と言う程のお人好しで、超が付くほどの頑固者だ。一度認めてしまった事は意地でも曲げない。……諦めた方が良い、ご婦人」
「そうそう。まあ俺たちもそんな馬鹿に付いて行ってるから何も言えないがねェ」
笑みを浮かべる雷蔵とは裏腹に、彼女は立ち上がる。
再び深いお辞儀の後、リラは顔を上げた。
「ありがとうございます……! では、せめてお宿の代わりはさせて下さい。ここには数人分の空きのベッドとお風呂もありますし、お食事も出せますから」
「お気遣い痛み入る。明日には作戦を練って、その黒い騎士とやらを殺しに向かう。リラ殿は、しっかりと休まれよ」
「はい……。では、また夕食の時に伺いますね」
雷蔵の言葉と共にリラは客間を後にし、もう一度深く頭を下げてから退出する。
「私は夕食時まで寝る。少し疲れてしまってな」
「俺もそうするよォ。ジジイにはちィと辛い道のりだったからねェ」
「そうか。なら拙者は少し辺りを見てくる」
椛と平重郎がそれぞれのベッドで横になる光景を一瞥し、雷蔵は部屋の明かりを点けたまま客間を出た。




