第七十七伝: 願いと約束
<ダラムタート城跡・庭園>
瞬間、夕日に当てられたシルヴィの表情が唖然としたものへと変貌を遂げた。
二人の間を薫風が包み込み、自身の着けていた白い襟巻が揺れる。
雷蔵がゼルギウスに対して口留めしていたのは、シルヴィへ直接自分の口から告げる為だった。
そんな不義理な事を行えば、きっと彼女は自分の事を嫌って忘れてくれるだろうと思ったから。
彼女なら、怒ってくれるだろうと思っていたから。
――――だが。
結果は違った。
目の前のシルヴィは呆然としながら宝石のような赤い目から大粒の涙を溢し、泣き声を必死に堪えている。
そんな顔をしないでくれ。
俺は君の為に、君から離れるのだから。
「……」
「……嘘って言ってください。今ならまだ許します……っ」
「シルヴィ、聞いてくれ。俺は――――」
「嘘って言ってくださいよっ!! 」
彼女の声が、夕闇の空に響き渡る。
どんなに彼女が泣こうが喚こうが、雷蔵が旅立つ事は変えられない。
それはシルヴィにも理解出来ていた。
それでも諦めたくはない。
ようやく思いを告げられる時が来たというのに。
ようやく好きな人に好きだと言える時が来たというのに。
「いつもそうなんですよっ! いつも大切な人は目の前から会えなくなって! いつも私の知らない所で死んじゃうんですよっ! 」
「……ッ」
「行かないでっ! 行かないでください! もう私は……好きな人に会えなくなるのは嫌なんですッ! 」
優しい嘘は、時に人を大きく傷つける。
彼女を危険から遠ざけようとした雷蔵はこうして今、シルヴィの想いを拒んでいた。
彼女の言葉を受け入れてしまったら、覚悟が揺らいでしまう気がしたから。
彼女の想いを受け止めたら、いつか自分が彼女を殺してしまう日が来るような気がするから。
それでも雷蔵に出来る事は一つだけ存在した。
それは――――。
「……えっ? 」
――――優しく彼女を抱きしめる事だった。
勿論、雷蔵もシルヴィと離れたくは無かった。
彼女と共に旅をしていく過程で、シルヴィを見る度に胸が締め付けられる感情が彼の胸の奥で沸き上がっていた。
それが、彼女に対する愛だと気づく頃には既に手遅れだった。
故の抱擁。
抱きしめる事しか出来ない己の不甲斐なさと、彼女の気持ちに応えられない罪悪感を胸に抱きながら。
「……すまない、シルヴィ。俺は二度も君を裏切る事になってしまった。だが……もう変えられないんだ。君を危険から遠ざける為には……こうするしかない」
「私はそんなに弱くないですっ! 雷蔵さんもそれは分ってるでしょう!? 一緒に旅をしてきて……一緒に戦って……それでも私がそんなに弱く見えますか? 頼りなく思うんですか!? 」
「違うッ!! 」
彼女を自身の胸から引き離し、両肩に掴む。
「俺に関われば君に危険が及ぶ! ロイが復活させたあの二人は……もう一度俺が殺さなければならないんだっ! 俺の個人的な争いに、君を巻き込みたくないっ! もうこれ以上、目の前で大切な人が死ぬのを見たくないんだッ!! 」
長政を結果的にではあるが、殺さなければならなかった過去。
そして今、もう一度生き返った親友をその手で斬らねばならない現在。
その二つの事象が今の雷蔵を苦しめ、そして人を愛せなくさせていた。
自分が原因で大切な人が死ぬ。
それは彼にとって耐えがたい事で、そしてもう一度成し遂げなければいけない事だった。
「俺は……疫病神なんだ。関わった人間すべてに、不幸をもたらす。人を愛しちゃいけないんだ。その人が……死んでしまうから」
雷蔵の瞳から、涙が流れる。
もう流す事のないと思っていた涙が頬を伝い、地面に落ちた。
それでもシルヴィは彼を強く抱きしめ、そして流れる涙を人差し指で拭う。
「……そんな事ありません。私は知ってます……あなたの本当を優しさを。いつもあなたは私を守ってくれた。私の大切な人も国も……守ってくれた。私があげた名前の通りにあなたは、多くの人を守ったんです」
シルヴィは初めて自分と雷蔵が出会った時の事を思い出す。
国を追われて途方に暮れていた自分に、救いの手を差し伸べてくれた事。
共に旅をしていくと決まった時に、初めて雷蔵に第二の名前を与えた事。
人の近くに立ち、衛る。
それが、"近衛"という名の由縁。
「だから……今度は私にその手伝いをさせて下さい。好きな人なら……何でも背負ってあげられる自信があるんです」
雷蔵は彼女の言葉を嚙み締めながら涙を拭い、彼女の両肩を掴む。
顔を近づけていくとシルヴィもそれを受け入れたのか、瞳を閉じた。
そして、夕日が二人の影を映し出し、やがて一つになった。
「ありがとう、シルヴィ……」
雷蔵は彼女の唇から口を離す。
だが、シルヴィは口を動かす事さえも叶わない。
瞳を開いたまま彼女はその場で身体を傾け、雷蔵に優しく寝かされた。
「――――そして、さようなら」
睡眠薬。
先ほど椛との面会で彼女から受け取った、忍びの道具の一つであった。
本来なら口に塗った者が目標と接吻をし、対象の動きを封じるものである。
薬自体は人体には直接的な害はない。
それを雷蔵はシルヴィに使った。
無理やりにでも、別れる為に。
そうでもしなければ、彼女は自分を追ってくるだろうと考えたから。
雷蔵は寝かせたシルヴィの瞳を閉じさせ、そして庭園の奥へと消えていく。
意識が遠のいていく彼女を一瞥し、彼は王城の裏門へと到着する。
その場所には既に旅の準備を終えた平重郎と椛が壁に寄り掛かっており、雷蔵の姿を見るなり立ち上がった。
「……おい雷蔵。シルヴァーナと何が――――」
「止しなァ。……聞くのは野暮ってもんだぜ」
「すまない、二人とも……。では、行こうか」
夕闇が完全に夜の帳に埋もれる頃、既に三人の姿は其処には無かった。




