第六十三伝: 贖罪の時
<魔導研究所マナニクス・一階>
同刻。
迫り来るギルゼンをラーズに一任した後、ゼルギウスとエルを連れて雷蔵たちは廊下を駆け抜けていた。
誰かが鳴らしたのであろう魔法の生体感知による警報も施設内で鳴り響いており、より一層の緊張感を与える。
「走れッ! 今ならまだ間に合う! 」
「お兄様、走れますか!? 」
「問題ない! 私の事は気にするな! 」
長い銀髪が揺らめく光景を一瞥し、雷蔵は腰に差した愛刀の鯉口に手を触れながら背後へと視線を向けた。
エルも疲弊している様子はない上に追走している平重郎も真っ直ぐに自分たちの後ろを追従している。
警報が鳴っているのにも関わらず、警備兵の類は一切彼らの脱走を阻もうとはしない。
正確にはこの研究所には配備されていない、と言った方が良いだろうか。
故の警戒であり、雷蔵は一時も愛刀から手を離す事はなかった。
「先ほど来た道を引き返そう! そうすれば脱出できる! 」
「――――いや」
雷蔵の後ろに立っていたエルが一人異論を唱える。
「さっきから妙な感覚がする。まるで同じところを走っているだけのような……」
「どういう事ですか? 」
「……つまりは既に魔法攻撃を受けている、という事」
彼女の言葉に全員の緊張の糸が張り巡らされた。
各々の得物を手にしながらその場で立ち止まり、周囲に警戒の線を張り巡らす。
幻惑魔法。
農業共和国イシュテンの交易都市トランテスタで出会った、ヴィクトール・パリシオの最も得意としていた魔術。
その名の通り魔法によって相手に幻を見せて行動を封じたり、相手を直接的に攻撃を加えたりすることの出来るものだ。
だがヴィクトールや一般的な魔導士が扱う幻惑魔法は自身のみの対象となっており、ここまでの規模を扱える人物は到底存在しない。
故にエルは確信していた。
この魔術を扱う主が、自身の義姉である事を。
「ご名答。流石はエルちゃんね」
女性の声が響いたかと思うと、突如として雷蔵たちの前方からローブを羽織った紫髪の女エルフがゆっくりと歩いてくる。
彼女の左右には黒装束に身を包んだ男女と数人の兵士が立っており、それぞれ各々の得物を手にしていた。
「椛……! 」
「あん時の小僧もいるとはねェ……」
志鶴椛とフィオドール・ヴァレンシア。
どちらもヴィルフリート国王の手先であり、各々との因縁を持つ人間であった。
「まあ、分かるでしょうけど……私を倒さない限りこの魔法は永遠に解けない。どちらが先に倒れるか……真っ向勝負と洒落込みましょう」
対面するインディスがそう告げた瞬間、彼女の周囲に鏡のように輝く幾つもの魔力球が姿を現す。
同時に両隣にいた椛とフィオドールが一目散に向かってきた。
雷蔵は迫り来る椛の小太刀を受け止め、互いに鍔競り合う。
「もう下がれ! 拙者たちの目的は達成された! 無駄な命を殺めるつもりなどない! 」
「黙れッ! 私はお前を殺す為だけに全てを捨てた! 兄上の仇……今ここで討たせて貰うッ! 」
怨念を孕んだ彼女の斬撃は力強く、一切の容赦がない。
繰り出される攻撃の嵐は全て彼の急所を狙っており、周囲に気を配る余裕など無かった。
「お前は私が殺す! お前だけは……この手でッ!! 」
「ちぃっ! シルヴィ! ゼルギウス皇太子を最優先しろ! 今はそっちに気を掛けてはいられん! 」
椛からの猛攻を何とか凌ぎつつ、僅かに出来上がった隙を突こうと愛刀を握る手首を返す。
脳天を狙った一撃も肉薄され、反撃として鋭い足刀が雷蔵の腹に突き刺さった。
「はァ……ッ!? 」
「雷蔵さん! きゃあっ!? 」
「シルヴァーナ! おのれェッ!! 」
強制的に吐き出される酸素と込み上げる嘔吐感。
彼の隣ではフィオドールと平重郎が目にも止まらぬ速さで剣戟を繰り広げており、その表情は眉一つ動いていない。
「余所見をしている余裕がまだあるのだなッ! 」
「この……! 」
頭頂を狙ったかかと落としを躱し切り、雷蔵は眼前に現れた椛へタックルを食らわす。
彼女の身体は吹き飛ばされるが、椛を守るようにインディスが立ちはだかった。
「叫べ、風王の砲弾」
短い詠唱と共に向けられた杖の先から暴風と言わんばかりの風の砲弾が雷蔵に迫る。
だが同じようにしてエルも彼の前に立ち、両手を掲げた。
「建てよ、風王の大盾」
彼女の手から発現した巨大な新緑の盾は瞬く間に魔風の砲弾を防ぎ切り、周囲に突風を巻き起こす。
雷蔵の身に着けていた白い襟巻が大きく揺れ、彼は両腕で目を塞いだ。
「因縁同士の戦いに割って入るだなんて無粋。雷蔵……義姉さんの魔法は私に任せて。可能な限り全部防いで見せる」
「心強い申し出だ……! 」
痛みを振り払うようにして頭を左右に振り、雷蔵は再び真正面に立つ椛へ視線を集中する。
だが彼の視界の横で防戦一方の平重郎の姿が映ると一目散にフィオドールの元へ向かって行った。
「平重郎! 」
「ッ! テメェ……あの時の侍かァ! 邪魔するんじゃねぇッ! 」
平重郎の眼前に迫っていたファルシオンを間一髪で雷蔵の刀が受け止め、刃を交えながら両者は睨み合う。
「助かるねぇ、雷蔵。どうにも老いぼれにはあの若造の速さに追いつけないみたいだ。歳を取った自分を恨むよォ」
「そんな軽口が叩けるならまだまだという事だな、平重郎? 」
抜かせ、と彼に吐き捨てながら抜刀の体勢を取った平重郎を一瞥し、側面から迫っていた椛の斬撃を受け止めた。
平重郎と背中合わせになりながら一度だけ視線を交差させると、互いの背後にいた敵へ斬りかかっていく。
「がァッ!? 」
「ぐゥっ!? 」
しかし彼らの攻撃はインディスの魔法によって阻止され、二人は研究所の白い壁に叩き付けられた。
エルと魔力球の撃ち合いを行うと同時に彼女は既に詠唱を終えていたようで、妖しい視線が二人に向けられる。
「させませんッ! 」
「あら……王女様とあろう者がこんな野蛮な動きをするとはねぇ」
二人を守るようにシルヴィがインディスの前方へと向かって行き、短剣を握った左手に魔法を発動させた。
「与えよ、刹那の敏捷! 」
「放て、水帝の城壁」
彼女の細剣の先がインディスの身体に届こうとした瞬間、分厚い水の膜が姿を現した途端シルヴィの身体を包み込む。
勢いを増した彼女の全身は水膜によって瞬く間に覆われ、向かっていた方向とは反対に彼女を押し出した。
床に叩き付けられたシルヴィの隙を突くようにフィオドールが笑みを浮かべながら手にしていた片手剣を振り上げる。
だがその凶刃をゼルギウスが見逃すはずも無く、兵士から奪った長剣でその刃を防いだ。
「お兄様! 」
「顕現せよ、女帝の氷」
彼の空いていた右手から氷の長剣が出現し、フィオドールの首筋にまで刃先が迫る。
すんでのところで回避されてしまったが、ゼルギウスの狙いはそこではなかった。
「!? お、俺の腕が……!? 」
「無闇に動かさない事だ。その氷はお前の皮膚を裂き、やがて血液を凍らせて壊死させる。片手だけで平重郎殿と雷蔵殿に勝てると思っているのなら……そうすれば良い」
「て、テメェッ……!! 」
フィオドールが激昂して今にもゼルギウスへ向かって行こうとしたその時であった。
研究所の廊下の奥から靴底の音が聞こえ、乾いた拍手の音が周囲に響き渡る。
そしてその場にいた全員が、背筋が凍るような悪寒と威圧感を覚えた。
「ご苦労様です、皆さん」
聞き覚えのある声に雷蔵は愛刀の柄を握り直し、声の主の方へ視線を向ける。
肩まで伸びた白髪の先にはピンク色のメッシュが入っており、その表情は常に笑顔を浮かべていた。
ロイ・レーベンバンク。
今回の騒動の主導者たる人物が、確かにそこにはいた。
「ロイ……! 」
その場にいた全員が彼の登場に戦いの手を止め、視線を集中させている。
それ程彼の威圧感というものは凄まじかった。
加えて、白に染め上げられた軽装に身を包み仮面を着けた男女が彼の隣に立っている。
「いやはや、貴方がたの戦いぶりはモニターを通じて十分に観戦させて頂きました。素晴らしいものですねぇ……人間の、姉妹と兄弟の因縁というものは」
「……お褒めに預かり光栄ですわ、ロイ様。ですけど私、この子と決着をつけなければいけないの。下がってて貰えるかしら? 」
インディスの言葉にロイは満面の笑みを浮かべた。
「いえ……その必要はありませんよ。だって貴女――――」
瞬間、ロイの姿が消える。
「――――用済みですから」
廊下に響き渡る、肉を裂く生々しい音。
それが自分の腹部から彼女が気づく頃には、既にインディスの身体は地に伏していた。
「なっ……! 」
「姉さんッ!? 」
「貴女には感謝していますよ、インディス。貴女の死霊魔術のセオリーが無かったら今頃僕の実験は成功していなかった。でも……もう結構です。時は来ました」
エルは倒れたインディスの下へ駆け寄ると、深々と出来上がった腹の傷に回復魔法を施そうと両手を翳す。
「シルヴィ! 彼女を! 」
「はいっ! 」
そんな彼女の手を、虫の息であるインディス自身が止めた。
「もう、止めて……。私は、貴女に……治療してもらう資格なんか……ない……」
「馬鹿言わないでっ! 姉さん! 」
「ふふ……はははははッ! なんとも感動的ですねぇ! 結局引き裂かれた姉妹の間は、僕という共通の敵を得た理由で元に戻った訳だ! 」
「下郎が……! 」
身体を硬直させていた雷蔵はその言葉と共に一気に怒りの感情が沸き上がる。
怒りに身を任せ、ロイの脳天目掛けて愛刀を振り上げた。
同時に椛もロイの隙を突こうと彼に迫っており、一度だけ視線が交わる。
「椛……お前……」
「……一度だけだ。最早あの男を味方とは思わん」
しかしその攻撃を読まれていたのか、彼らの刃がロイの身体を断ち切る事はない。
そして対するロイは二人を見るなり再び笑みを浮かべた。
「おや、これは偶然。丁度あなた方に、良いものをお見せしようと思っていたんですよ」
「何……? 」
「雷蔵っ! 椛っ! すぐにそいつから離れろっ! イヤな予感がするっ! 」
平重郎の言葉と共に二人は後方へ飛び退き、ロイから距離を取る。
狂気ともとれるその笑みからは人間の生気が感じられず、隣に立っていた一組の男女に手を伸ばした。
「感動の再会ですよ、お二方」
その言葉と共に、ロイの手が男女の仮面を外す。
瞬間、二人に電撃が走った。
最初、雷蔵は自分の目の前の光景が信じられなかった。
あの時……忌々しい記憶の中で確かに映っていた最期の光景は笑顔のまま首を斬られて死んだ姿だったからだ。
隣の椛も絶句し、手にしていた小太刀も床に落としている。
何故。
なぜお前たちが生きている。
確かに自分の手で――――殺したはずなのに。
「不死実験被検体一号と二号……名は志鶴長政と志鶴藤香。いい名前でしょう? 」




