第五十伝: 運命の奴隷
<地下アジト・トレーニングルーム>
同刻。
雷蔵とは別の一人部屋に荷物を置いたラーズは、運動着に着替えた後日課であるウェイトトレーニングに勤しんでいた。
丸太のように太い片腕を駆使して腕立て伏せを40回程終えた彼は頬に伝う大粒の汗を拭い去り、もう片方の腕で身体を上下させる。
「ふっ……! ふっ……! 」
腕の表面に血管が浮かび上がり、身体を動かす度に肩と腕の付け根の筋肉が強張っていくのを感じた。
熱い血の流れが全身を駆け、段々と体温が上昇していく。
「いよっし……! 腕立て終わり……っと」
一見苛烈そうに見えるこの内容も、ラーズを含めたオークにとってはウォーミングアップにしかならない。
それほど彼らは人間やエルフよりも体の筋組織が発達しており、戦士に向いた種族であった。
ラーズはトレーニングルームの一角に吊り下げられていた革製のサンドバッグへ歩みを進める。
両手に包帯を巻きながら口で噛み千切ると革のグローブを嵌めた。
「ふぅっ……」
サンドバッグの前に立ち、深く息を吐く。
左手を頬の近くで固定し右手だけで先ずは軽いジャブを打ち込むと、鈍い音が周囲に響いた。
グローブを通して伝わる振動には見向きもせず、ただひたすらに拳を叩き込む。
彼の脳裏にはかつて自分が行った修行の数々が思い浮かんだ。
今は亡き父によって身体中に叩き込まれた格闘術の基礎が、彼の頭の中を占める。
『脇を締めるんだ。攻撃されても顔の防御は忘れちゃいけない』
『相手から目を離すな。たとえ相手がお前より遥かに強くても、必ずその敵には動きの癖がある』
『脚は常に左脚を前に出す。お前は右脚をよく出す癖があるから、直しておけ』
厳しかった父との特訓は、今思えば基礎中の基礎を幼少期から覚えさせてくれていたのかもしれない。
その事を感謝しながらラーズは革製の袋に右ストレートを放つ。
僅かばかり、彼の拳が痛んだ。
『いっつも負けてばっかだなぁ、お前は』
『俺に勝ったらアイス奢ってやるよ』
共に父の稽古を受けながらボロボロになりながら、修行をこなしていった日々。
彼の隣にはいつも、兄がいた。
一見強面に見えながらも暖かい心の持ち主……の筈であった。
直接は見てはいない。
ミゲルの口からしか聞いていないが、シルヴィを連れ去った密告者の中にラーズの兄であるギルゼンがいたという。
彼がどんな想いで、どんな信念でロイの方に付いたのかは分からない。
理由がある事を信じたかった。
何か訳があって至上主義側にいる事を信じたかった。
サンドバッグを殴る拳に力が込められていく。
『ラーズ。大きくなったらお前が村長になって、俺がお前を一番に守る戦士になってやる。お前はまだ弱いからな』
腕を振り上げる度に身体中から汗が噴き出した。
それが焦りによるものなのか、怒りによるものなのかは分からない。
ただ今は迷いを、戸惑いを取り払いたかった。
共存主義に反旗を翻した反逆者を殺す揺るぎない決意の為に。
「ッアァッ!! 」
一度だけの気迫の咆哮と共に左脚を振り抜き、鎖で繋がれたサンドバッグを大きく揺らした。
鉄の擦れる心地の悪い音が響き渡り、全身に押し寄せてきた熱と倦怠感を振り払うかのように首を横に振る。
今のままではダメだ。
自分には覚悟がない。
唯一の肉親を殺す覚悟が。
そう確信したラーズは立ち尽くしたまま掌を握り締め、繋がれたまま揺れるサンドバッグを恨めしそうに見つめる。
「クソッタレ……」
過去を思い出す度、ギルゼンの顔が脳裏にこびり付いて離れない。
兄とは長い間共に居すぎた。
父が戦で亡くなってからずっとギルゼンが彼の父親代わりであったのに、それも奪還を遂行させる為の演技だったのだろうか。
「……ここにいたのね」
「ッ!? 」
突然声を掛けられ、驚いた表情を浮かべながら背後を振り向くとそこには黒のショートパンツに灰色のチュニック姿のエルが立っていた。
普段のローブとは違い、カジュアルな装いの彼女に僅かばかり心を奪われつつもラーズは首に掛けていた布で顔中に浮かんでいた汗を拭い始める。
「昔からいつもそう。何か悩んでたり上手くいかない事があるとそうやって何かを殴る。ラーズの悪い癖ね」
「……ほっとけ。昔よりかはマシになっただろ」
どうだか、と溢しながらエルは椅子に座りながら呼吸を整えるラーズの隣に歩み寄った。
彼女の手には鉄製の水筒が握られており、礼を言いながら受け取る。
「お前の方こそどうしたんだよ。明日早くからギルベルトさんに収集掛けられてるだろ」
「……別に。私も寝れなかっただけ」
ディニエル=ガラドミア。
今はこうして互いに背中を預ける仲にまで発展したが、出会って最初の頃彼女は人との関わりを避けていた。
エルフは魔導に長けた種族であり、他の種よりも遥かに魔法への適正が高い。
その中でも特にエルは突出した才能を持ち合わせていたが、人間社会にとって当時エルフの存在はまだあまり受け入れられてはいなかった。
人種差別と迫害を受け、信頼した者にも裏切られる。
そんな日々に年端のいかない少女が耐えきれる筈も無く、彼女は単身セベアハの村へ逃げ込んだ。
「へっ、お前も同じじゃねえか。寝れないんだったら俺が一緒に寝てやるぜ? 」
「ラーズ、それってセクハラ? 」
「……お前って時々ズレてるよな……」
端正な顔立ちのまま首を傾げる彼女は何とも可愛らしい。
少女のような可憐さと彫刻のような美しさを併せ持った彼女の風貌に若干見惚れながらもラーズは水筒の飲み口に口を付ける。
「なあ」
「何? 」
「今更覚悟がなくなっちまったなんて言ったら、怒るか」
「怒る。それで私がラーズを説得する。力づくでも」
だよな、と自嘲気味に笑いながらラーズは俯いた。
エルも同じ心境に立たされている事は彼も理解している。
血の繋がりはないが、エルも自分を実の妹のように接してくれたインディスと対峙しなければならない。
今ここでラーズが背中を向けて逃げ出す事は、彼女の覚悟やセベアハの村で死んでいった同胞の命を無下にする事と同じ意味だ。
「エル。俺は正直、兄貴をぶん殴れる自信はねぇ。その時はお前が俺を殴ってくれ」
「……分かった。私の方もお願い、ラーズ」
種族は違えど立たされた境遇は似ている。
背後にいるこの異種族の少女の背中が今はとても暖かく感じられて、安心できた。




