第四十四伝: 残された傷跡
<ルフペリの森・街道>
降り出した雨を忌々しく見つめ、ロイの創り上げた魔導拘束術式の中でただ座り込むシルヴィは力なく頭を項垂せる。ロイと交戦している雷蔵は一体どうなってしまったのか。あの邪悪な男を打ち倒し、自分を救いに来てくれるだろうか。
それとも――。最悪の可能性が、彼女の脳裏を過ぎる。雨に濡れだした地面に倒れながら、辺りを血で染め上げる彼の姿がシルヴィの頭の中を占めた。
「……そんな事ない……」
弱々しくそう呟きながら、目に浮かべた大粒の涙を拭って檻の内側から魔法の詠唱を開始する。
ロイのいない今ならここから抜け出せるかもしれない。今ならまだ、抵抗できる余地があるかもしれない。そう思い、会得した最大級の威力を持つ土の魔法を放とうとしたその時だった。
「無駄よぉ。その拘束術式はどんな攻撃をも通さない云わば魔法の城壁。もし攻撃魔法でも打ったら跳ね返って貴女がズタズタになっちゃうわぁ」
「く、くっ……! 」
彼女を閉じ込めていた檻の持ち主であるインディスが中のシルヴィへ憐れむような視線を向ける。
「王女。もう無駄な抵抗は止せ。じきにロイも戻る」
「そんな事……ッ! まだ分からないじゃないですか!! 」
「お前に分からなくても、俺には分かる。怒りで錯乱した雷蔵に、あの男が負ける訳もない」
――ただ、あの様子は本当に度肝を抜かれたがな。インディスの隣に立つギルゼンは言いかけていた言葉を胸の奥に仕舞い、雨脚がある程度弱まっている大木の陰に腰を落とした。
「ここで待つのぉ? 」
「あぁ。何かあったらここでロイと待ち合わせをする事になっている。あとここに迎えの馬車が来るはずだ、そうだな? 」
木の幹に寄り掛かっていた黒い鎧の騎士、ハインツは頷く。周囲を警戒するように彼は腰に差した騎士剣の鞘に左手を離さず、いつでも迎撃が行えるように神経を張り巡らせていた。ハインツ程の男がそう気を張るのも無理はない。彼の引き連れていた部下は皆あの男――"首斬"に殺され、生き残りはハインツしかいなかったのだから。
「……妙に不安げじゃねえか。何か問題でも? 」
「いや……何でもない。少しあの男、雷蔵……と言ったか。奴の事が気がかりになっているだけだ」
「へぇ? 要はビビってるって訳だな? まあ無理もねえ、部下全員が死ねばそうなるわな」
仏頂面を浮かべる彼の顔がギルゼンへと向き、鷹のように鋭い双眸がギルゼンを睨み付けた。対するギルゼンはオールバックにしたオレンジ色の髪を片手で弄びながら、不敵な笑みをハインツに向ける。その時だった。
「お止しなさい。折角協力関係を結んだのに、さっそく破ってしまっては意味が無い」
服の裾が風に靡く音が聞こえたかと思うと、赤いメッシュの入った銀髪を揺らしながら青年が二人の間に割って入ってくる。檻の中のシルヴィはその音に俯かせていた顔を上げるも、彼の姿を見た瞬間に目を見開いた。
「やや、すいません。少しだけ手間取りました。久しぶりの運動は堪えますねぇ」
「う……嘘……? そんな……ッ! 雷蔵、さん……! 」
最悪の結果に至ってしまった。自分のせいで、雷蔵は大きな傷を負ってしまった。その事実に耐えきれず、シルヴィは再び宝石のような青い目から大粒の涙を流す。信じたくは無かった。しかしもう、彼女に打つ手など無かった。
「嘘ではありませんよ、シルヴァーナ王女。僕が雷蔵に手を掛け、そして倒した。もう貴女に打つ手だてなど在りません。詰み、なんですよ」
「……ッ!! 」
笑みを絶やさずに淡々と言葉を連ねるロイに怒りを覚え、シルヴィは檻の障壁へ差していた細剣を叩きつける。剣を握った手に返ってくるのはレンガの壁を叩くような固い感触で、全く壊れる様子もない。それでも、彼女は剣を何度も叩きつける。嘲笑するような高らかなロイの笑い声が聞こえても。
「無駄、無駄ですよ。その壁は貴女では壊せない。守られるだけの貴女に、壊せるはずもないんです」
「黙……れッ!! 殺してやる……ッ!! 殺してやるッ!! 」
「おやおや、怖いですね。王家の人間というのはこうも粗暴な言葉遣いをするんですか。いやぁ、これは興味深い。一つ、レポートでも纏めておきましょう」
「あァァァァッ!! 」
憤怒を剥き出しにしながらシルヴィは渾身の力で細剣の切っ先を壁に突きつけ、今にもロイを殺そうと殺意を露わにする。だが彼女の耳に響いたのは魔法術式の壊れる音ではなく、愛用の剣が腹から真っ二つに折れてしまった音であった。
「だから言ったでしょう? 何度やっても無駄だと。もう貴女には何も残されていないんです。仲間も、打つ手も、何もかもね」
蔑むようなロイの視線を一瞥し、シルヴィは再び檻の中で座り込んでしまう。兄から渡された細剣を折ってしまった事によって、彼女の戦意も喪失してしまったようだ。
「さて、と。迎えの馬車はまだですか? 僕もう濡れて寒くなってきちゃいましたよ」
「あらあら、お姉さんが暖めてあげましょうか? 」
「あはは、結構です。インディスさんだと僕を燃やしてしまいそうですからね」
「もう、昨日からいけずねぇ」
そんな他愛のない会話を交わしながら、ロイはギルゼンから一切れのタオルを受け取る。雨に濡れた頭を布で拭っていると、彼はタオルを地面に落としてしまった。
「ああもう、今日はツイていませ――おや? 」
「どうかしたのか? 」
「いえ……なんでもありませんよ」
布を受け取った右手を直視しながら苦笑を交えつつ左手で拾い上げる。ぬかるんだ地面を蹴る馬の蹄の音が聞こえたと同時にロイは馬車の扉を開け、インディスたちを先に乗らせた。
(この手の痺れ……雷蔵さんのせいですね)
清潔な布が馬車を駆る従者によって再び手渡され、長髪に付着した水分を拭い取りながら柔らかいソファの上に腰を落ち着ける。檻の中のシルヴィは抵抗する事を諦めたのか、力なく項垂れていた。そんな彼女を一瞥し、ロイは従者に馬車を進めるよう命令を下す。
(願わくば、僕ももう一度あの男と殺し合いをしてみたいものです。実に興味深い――実験対象ですからね)
曇天の空を馬車の窓から仰ぎつつ、ロイは静かに笑みを浮かべる。間もなくして馬車は街道の奥へと消えていき、任務を終えたロイたちを王都へ続く道へ導いていった。
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<セベアハの村・西門>
「撤退だ! 退け、退けーッ!! 」
そんな兵士たちの中から声が聞こえたかと思うと、銀の鎧を纏った数百名もの騎士達は次々と攻撃していた西門から姿を消していく。延々と降り注ぐ雨の匂いの中に焦げ臭い硝煙を香りが漂い、対峙していた自警団に加わっていたラーズは一人地面に膝を着いた。
「クソッタレ……ッ!! 逃がすかよォ……!! 」
オーク特有の野性的な怒りを伴った彼は、肩で息をしながら立ち去る王国軍の後を追おうと全身に再び力を込める。彼の隣に立っていたオークの若い女性、ゼルマ・シャラーヴィンが肩を掴んだ。
「何すんだよ!! あのまま追えば敵の情報だって手に入るはずだ!! 」
「落ち着きなよ、ラーズ。今はケガしてる人の治療を優先しなきゃ」
「でも!! 」
「でももクソもない! 頼りになるのは今はあんたしかいないんだ!! 周りの状況を確認できないのが一流の戦士なのかい!? 」
ゼルマの腕を振り払い、地面に拳を叩きつけてから深く息を吐く。そして立ち上がり、彼女と視線を交わした。
「……すまねぇ。手の空いてる奴はここのやぐらで見張ってろ! まだ体力の余ってるやつとジルボーのおっちゃんは俺と来てくれ! エルと合流してから負傷者を手当てするんだ! 」
西門の防衛線で負傷した兵士の応急処置を始めるゼルマの姿を一瞥すると、ラーズは後方へ振り返って足早に西門を立ち去り始める。ゼルマやラーズと同じようにして防衛線を張っていたジルボーは頷き、五体満足な兵士たちと共に村の中心部へと向かうラーズの後を追った。既に反対側の東門から敵兵たちに侵入されていたようで、建てられた一軒家の殆どが戦火によって燃えていたり魔法の攻撃によって崩れている。幸い道中で負傷した住人を見かける事は無く、倒壊した建物の中にも逃げ遅れた人間はいなかった。ただ、家が燃えてしまった様子を茫然と見つめる住人が多くいた事にラーズはショックを隠せないようで、傍にいたジルボーが彼のサポートをするように取り残された住人たちを避難場所へと誘導している。
「……」
旅立とうとしていた雷蔵に放った言葉が、ラーズの脳内に反芻した。"責任を持って、俺たちが守る"。だが蓋を開けてみれば一介の兵士群に苦戦しているだけのオークの青年に変わりはない。結局何も守れず、村への侵入を許してしまった。泣き叫ぶ子供の声が彼の耳に深く突き刺さる。彼らからしてみれば突然命の危機に晒されたものだ。許せなかった、己の弱さが。許せなかった、己の甘さが。握り締めた掌に爪が食い込んで血が滲み、やがて深紅の雫が地面に落ちる。
「……ーズ! ラーズ! 聞こえているの!? 」
「ッ!? あ……」
思慮に耽っていた彼を我に返させたのは同じ使命を持つエルフの少女、ディニエル=ガラドミアであった。彼女もようやく住民たちの保護を終えたようで、呼びかけても反応が無かった彼を不安げな表情で見つめる。
「……すまねえ。みんなの避難は? 」
「大丈夫。もう済ませた。それよりもシルヴィが心配。私は宿屋へ向かうから、ラーズは東門へ行って」
「分かった。くれぐれも気を付けてくれ」
分かってる、と言葉を残しながらエルは中心部の奥へと消えていった。
「おっちゃん、念のためにエルの事を見て来てくれ。誰か俺と一緒に東門に来てくれるやつはいねえか? 」
人間、エルフ、オークの男性が一人ずつ手を挙げてラーズの前に立つ。よし、と彼は発破を掛けると3人を引き連れて東門へと向かった。ぬかるんだ地面を踏んだせいか、穿いていた麻の長ズボンに泥が付着する。それも気にせずにただラーズは全力を出し切って東門へと到着すると、周囲の凄惨な光景に思わず目を疑った。目に見えるだけでも50人以上の死体が周囲に転がっている。それも全て王国軍の人間で、全員が首と胴体を切り離されて絶命していた。死後僅かなのにも関わらず辺りには死臭が立ち込め、戦場に慣れていないエルフの青年が胃の中のものを吐き出してしまう。
「口と鼻を覆うんだ。俺たちが連れてってやる」
「す、済まない……」
隣にいた人間の中年男性に支えられながら青年はゆっくりと歩き始めた。先に行っててくれ、と言わんばかりに男性はラーズに視線を向けると彼は頷く。周囲を見回しても、雷蔵の姿は見当たらない。もしや村の外に出て追撃に出たのだろうか、と嫌な予感を感じ取ったラーズはすぐさま門の外へと駆けだした。雷蔵を追う道中でも、幾つもの首を刈られた死体が道端に転がっている。生温かい血を茶色の地面に広げながら、そして刈り取られた首は全て絶望の表情を浮かべながら。
「なんだよ、これ……? 全部、雷蔵がやったってのか……? 」
そんな疑問を口にしながら、ラーズはルフペリの森に差し掛かる街道で足を止めた。彼の目に首の刈られていない男を見つけ、その男の下へと駆け寄ると身体を抱き上げる。
「雷蔵……? おい、雷蔵!! 」
変わり果てた彼の姿に驚きを隠せないでいるも、ラーズは彼の首元に指を当てた。微かな振動が人差し指に伝わり、即座に胸に耳を当てる。――心臓の鼓動は弱々しくなっているが、雷蔵はまだ生きている。その事実にラーズの身体は突き動かされ、雨に打たれて体温の下がった雷蔵の身体を背中に背負う。彼だけは死なせてはならない。そう、誰かに言われた気がして。雷蔵をおぶったラーズは強まる雨をもろともせずに村へと駆けだし、あっという間に街道の奥へと消えていった。




