第三十七伝: Brand New Days
<機関船ラーリン・カルフ>
あれからずっと、雷蔵の脳内にはエルの言い放った言葉が駆け巡っていた。"一人の少女の為に、国を壊す覚悟はあるのか"。自分には到底、二つ返事で答えられる質問ではなかった。シルヴィの為に、一つの国を壊す。それはある意味、平和に暮らしている一般市民の幸せを奪う事にも繋がる。
「…………」
雷蔵は、腰に差っている愛刀・紀州光片守長政の柄に手を置いた。彼の見上げる満月は、紺色の夜空の中に煌々と白い光を放っている。残酷なほどに美しいその光景は、雷蔵の胸に深く突き刺さった。脳裏に、彼女の笑顔と流れ往く赤黒い血が反芻する。分からない。己が、次にどう歩めば良いのか。己が、彼女にどう別れを告げれば良いのか。
「全く……焼きが回ったものだな……俺も……」
ただゆっくりと進む機関船の船底が大海原を掻き分け、静かな紺色の空に安らぐ波音を響かせている。涼し気な潮風が後ろで結んでいた黒髪を揺らし、雷蔵は深いため息を吐いた。こんな時、親友が生きていたらどんな顔をするだろう。きっど情けない、と自分を笑いながら毒づくのだろうか。自嘲気味に口角を吊り上げながら雷蔵は、大人しくその場から立ち去ろうとした。
その時。
「あれ? 雷蔵さんもここにいたんですか? 」
俯いていた表情をゆっくりと上げると彼の視界には天使のような彫の深い顔立ちに、絹糸のような美しい銀髪が映る。シルヴァーナ=ボラット――否。シルヴァーナ=ボラット=リヒトシュテイン。プロメセティアでは"傾国の姫君"と呼ばれている事を、雷蔵は知っていた。その二つ名に似合わない可愛らしい表情を浮かべながら、彼女は隣に立つ。
「少し、寝れなくてな。お主もか? 」
「あはは……良く分かりましたね」
既に入浴を済ませてきたのだろう、海風に揺れる彼女の髪の毛からは石鹸の心地良い匂いが漂っていた。恥ずかしそうに笑みを浮かべるシルヴィを見た途端、雷蔵の胸が何かに刺されたように痛む。言える筈がない。自分が彼女の過去の事を、彼女のやろうとしている事を知ってしまった事など。
「……どうかしました? 」
「い、いや! なんでもない……何でもないのだ……」
「……そういう時って大概、何か隠してるんですよ……? 」
人形のような美しい顔が、俯いた雷蔵の顔を覗き込む。悪戯に笑みを浮かべる彼女が、何故だか愛おしくて。何故だかとても、魅力的で。雷蔵は彼女を真正面に見つめ、息を深く吐いた。シルヴィの表情が段々と強張っていき、そして彼女も雷蔵の目を見つめる。
「……これから拙者が話す事を、静かに聞いてほしい」
「は、はい……? 」
緊張しているせいか、思うように口が動かない。己が彼女にこんな事を言いたくないのは理解している。だが。本当にシルヴィの事を思うのならば――。
「……セベアハの村で、拙者はお主と別れようと思う。あの村こそが、お主と拙者の分岐点だ」
目の前にいた、シルヴィの顔が凍り付く。そんな彼女の浮かべる表情が、雷蔵の傷を更に抉った。今までずっと、旅を続けてきた者からの別れの申し出は堪えるものであろう。傾国の姫君としても、フレイピオスの元王族としてでもなく、シルヴァーナ=ボラットとして共に旅をしてきた雷蔵に別れを切り出されるのは。それでも彼女の本当の幸せを尊重出来るのなら。彼女の目的を果たせられるのなら。幾らでも自身が悪者の役割をこなそう。それが今まで人を殺す事でしか己の存在価値を見出せなかった雷蔵の、苦し紛れの答えだった。
「な、何言ってるんですか? だって雷蔵さん……王都まで、連れていくって……」
「……事情が変わった。拙者はお主を……連れていくことは――」
「事情って何です!? 雷蔵さん言ってたじゃないですか! "共に見届けよう"って! 」
いつだか彼女に言った言葉が、雷蔵の胸に再び突き刺さる。
「あの言葉は嘘だったって言うんですか……!? ねえ、雷蔵さん!! なんとか言ってくださいよ!! 」
「…………」
思わず、奥歯を嚙み締めた。悲痛な声を上げるシルヴィが、段々と目に涙を浮かべている。
「……お主の本当の目的は……王都を奪還する事だろう。シルヴィ。いや……シルヴァーナ王女」
彼女の目が見開かれた。隠していた事を見抜かれたと勘違いしているのか、シルヴィは驚きの表情を浮かべながら雷蔵との距離を取り始める。
「ならば、拙者が居ては邪魔だ。どこの馬の骨とも分からぬ流浪人に、王権を担うのには重すぎる」
「……どうして……?」
雷蔵は敢えて彼女の問いに何も答えず、シルヴィの顔を見つめた。我に返ったように、彼女は薄ら笑いを浮かべる。
「……そう、ですよね。私が甘かったんです……。一緒に国を打ち倒す為に来てくれだなんて。何も言わずに、私の後だけをついてきてだなんて……虫が良すぎたんですよね」
雷蔵の握っていた拳に力が込められ、爪が掌に食い込んでいく。寂し気にそう返すシルヴィは目に浮かんだ涙を指で拭い、彼から視線を離した。
「……セベアハの村までは必ず共に向かう。それは忘れないでいてくれ」
彼女からの返事はない。奥歯を嚙み締めながら雷蔵は、シルヴィへ振り返らずにその場を去って行った。
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<魔道連邦フレイピオス海域内・機関船カーリン・ラルフ>
全く寝付けずに一人部屋のベッドから飛び起きた雷蔵は、寝間着のまま先程の事を思い浮かべていた。あんなに悲し気な表情を浮かべるシルヴィは見た事が無い。だがそれもその筈、第二の人生を共に歩んできたパートナーに最低の裏切りをされたのだから。雷蔵は己を律するように壁を殴り付け、苦悶の声を漏らした。
「くそっ……! くそォッ……!! 」
ただ、自分の元を離れていく少女に彼は何もできない。何も変わっていない。生まれた国を抜け出し、己は変わるという決意を固めてから、一度も。また、大切な人間を手放す事になってしまった。そう思うと雷蔵は、自身の胸に大きな穴が空いたような空虚感を感じる。
「何が"共に向かう"だ……ッ! 何が"共に見届ける"だッ!! ただ俺を信じてくれた少女を、失望させただけじゃないか……!! 」
何度も何度も壁に拳を叩きつけた。次第にコンクリートの破片が彼の手の甲に刺さり、拳は赤い鮮血の跡を壁に残していく。無論の事共に旅をしてきたシルヴィに、あんな心無い事など言いたくはなかった。自分に第二の生を与えてくれた恩人なのに。自分にもう一度、人間らしさをくれた少女だったのに。
「結局俺はまた……恩人に仇を返すのか……」
涙さえ出ない自分の目。悲しいという感情さえ沸き立たない自分の胸。雷蔵は今一度、過去の"雷蔵"と現在の"近衛雷蔵"という人格の間に挟まれた。
「どうしたら……どうしたらあの子は報われたんだ……? 」
当然、誰も答える事はない。ゆっくりと雷蔵は壁に立て掛けてあった自身の愛刀に手を伸ばし、鞘から引き抜いた。豆電球のオレンジ色の光に銀色の刀身が少しだけ反射し、暖かな光を放つ。
「長政……お前も……。こんな気持ちだったのか……? 」
故郷の親友の名を、一度だけ呟いた。自身が"殺した"、唯一無二の親友の名を。ようやく溢れ出てきた大粒の涙に、雷蔵は少しだけ安堵感を覚える。まだ……まだ自分は人間の感情を持っていたのだ、と。




