第三十一伝:いざ、新たなる土地へ
<リヒトクライス騎士団・寄宿舎>
翌朝。豪快に鼾を掻きながら眠りにつく雷蔵の腕の中に、やけに柔らかい感触がまとわりつく。寝返りを打とうとしても何かに首を固定され、彼のような大男でも身体を動かす事が出来ない。
「……んぅ」
彼が起き上がろうとする度、腕の中の女性……否、少女は寝言を口にする。まるでぬいぐるみを抱いた子供のように雷蔵の身体はベッドに縛り付けられ、寝ぼけ眼を擦りながら自身の胸へと視線を落とした。
「……何と……」
腕の中で眠る、西洋人形のような整った顔立ちの少女。彼女が雷蔵と旅路を共にしてきたシルヴァーナ=ボラットである事を、一瞬にして理解する。焦りの感情を顔に出しつつも、彼は平静を保とうとシルヴィの身体を引きはがそうとした。幾多の修羅場をくぐり抜けて来た経験も活きたのであろう、不思議と彼の鼓動は落ち着いている。
(焦るな……ここで惑うような事があれば拙者は終いだ……。落ち着け……落ち着くのだ……雷蔵……)
そう自身に言い聞かせ、どういった経緯で彼女と床を共にしたのかを辿っていく。昨夜シルヴィが彼の部屋を訪れた後、酒を半ば強制的に飲まれ瞬時に酔ってしまった彼女を介抱したのだと雷蔵は確信した。自分には何ら罪はない。記憶がある事に安堵のため息を吐き、彼はシルヴィの二の腕にそっと触れた。
「ぐっ……ぬぬぬ……」
しかし、もう一つの脅威が雷蔵に降りかかる。彼の腕力を以てしても、シルヴィの拘束が外れる事はない。仮に力づくで彼女を引き剥がしたとなれば、間違いなく悲鳴を上げられて周囲の人間が駆けつけてくるだろう。この様子をレーヴィンにでも見られたりしたら当然彼に非難の嵐が降りかかる。
「んがぁ……んごごご……」
苦悶する雷蔵を差し置いて、シルヴィは愛らしい外見に似つかない恰好で真っ白な腹部を露出しながら寝息を立てていた。先ほどの美しささえ感じた姿への評価を改めよう、と雷蔵は苦笑しつつ再びシルヴィの身体を外しに掛かる。
「んぅ~…………」
「ま、拙い……! 力を入れ過ぎたか……ッ!? 」
徐々に開かれていくガラス玉のような青い瞳が、彼の視線を吸い込んでいく。先程の乱れた寝姿が嘘に思える程、彼女の顔立ちは美しい。そして完全に見開かれた両目は直ぐ近くにあった雷蔵の姿を捉え、状況を理解できないのか数回瞬きしてから自身の身体を見やった。
「…………へ? 」
「……や、やあシルヴィ! よ、良い朝だのう! よく眠れたか? せ、拙者は快眠だったぞぉ! 何せこの"べっど"というものが物凄く――」
シルヴィの表情は俯いたままで、雷蔵からは見えない。
「……い」
「い? 」
「いやぁぁぁぁぁぁぁっ!!? 」
騒々しい悲鳴の後に、頬を叩いた締まりの良い音が部屋中に響いた。
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<寄宿舎・エントランス>
「痛たた……」
「ご、ごめんなさい……つい反射的に……」
「か、構わぬ……拙者もお主を止められなかったからのう……」
雷蔵の右頬に出来上がった真っ赤な掌の跡を、彼は嘆くように優しく撫でる。既に出立の準備を終え、普段の旅の服装へと着替えた二人は今寄宿舎のエントランスでチェックアウトの手続きを行っていた。窓口に立つ管理人は黙々と作業を熟し、彼らの前に一枚の書類を差し出す。傍にあった羽ペンで自身とシルヴィの名前を記入してから手渡し、雷蔵は受付へ向けて会釈をした。その後ヴィクトールの名義で空き部屋を借りていた彼らは窓口に鍵を返却し、フロントの事務員に礼を告げてからガラス張りの扉を開ける。扉を開けた先には、雲一つない青空が広がっていた。
「……旅立つのには、うってつけの日じゃ。そうは思わぬか、シルヴィ」
「……そうですね。でも、いいんですか? レーヴィンさんやヴィクトールさん、それにフィル君にお別れを言わなくて」
「良いさ。些か無粋ではあるが、彼らには彼らの暮らしがある。拙者たちが阻むものでは御座らん」
「ま、まあそうですけど……」
この暑い季節には似つかない、涼し気な風が二人の間を通り抜ける。被っていた笠を目深に直し、雷蔵は整備された砂利道を歩き始めた。
「あっ! 待ってくださいよぉ! 」
隣に駆け寄ってくるシルヴィへ視線を落とし、彼は口角を吊り上げる。一歩ずつ地面を踏みしめていく度に腰に差していた愛刀が揺れ、心地良い音が周囲に響き渡った。決して、自分の行為は褒められたものではない。共に戦った仲間たちへ別れを告げずに立ち去る事は、不義以外の何物でもない。だが。これ以上雷蔵と彼らが関わってしまったならば、レーヴィン達は確実に不幸に見舞われる。自分が疫病神である事を確信した故の行動であった。そうしてシルヴィと雷蔵は、寄宿舎から市街地へと繋がる道に差し掛かる。此れで良い、と雷蔵が思ったその時であった。
「――総員、剣を掲げよ! 」
彼の背後から、凛々しい女性の声が聞こえる。思慮に耽っていた雷蔵は我に返って振り返ると、其処には銀の鎧で身を包んだ騎士団の全員が剣を抜き払い、切っ先を天高く掲げている光景が目に映った。その群衆の中から金糸のような美しい長髪を揺らす女性と首まで伸びた茶髪を縛った男の騎士、そして真新しい鎧を身に纏った少年が彼らに歩み寄ってくる。思わず雷蔵は、目を見開いた。
「別れの挨拶もせずに立ち去ろうとするとは、貴殿たちも随分と水臭いものだな」
「そうそう。おじさんびっくりしたよぉ、部屋の中見たらもぬけの殻なんだからさ」
悪戯に笑みを浮かべながら、ヴィクトールとレーヴィンは二人へ歩み寄っていく。観念したかのように雷蔵は深いため息を吐き、苦笑を浮かべた。
「いやはや、まさか見破られているとは……。忝い、各々方」
「私はちゃんとお別れしようって言ったんですけどね……ごめんなさい」
「気にすんなよ、俺とあんた達の仲だ。それと、あんたたちに渡し忘れてるものがあってな」
手ェ出せ、というヴィクトールの言葉と共に雷蔵は掌を差し出す。直後彼の手に握られたのは重さのある巾着袋であった。
「……これは」
「雷蔵たちへの依頼料さ。俺がお前に頼んだこと、忘れた訳じゃねえだろう。これは俺たちの気持ちだ、何も言わずに受け取ってくれ」
袋の封を切ると、その中には幾つもの5000ブランド硬貨が入っている。驚きの表情を浮かべる雷蔵たちに対して、ヴィクトールとレーヴィンは笑みを浮かべた。その後、フィルが彼らの前に現れる。
強張らせた表情を浮かべながら彼は、右手を差し出した。
「……雷蔵さん、シルヴィさん。僕は、貴方達に色んな事を教えて貰いました。雷蔵さん達があの村に来ていなかったら、あのまま僕は死んでいたでしょう。貴方達は僕にとって命の恩人です。だから、改めてお礼を言わせてください」
雷蔵の目の前に立った若い騎士は、深々と頭を下げる。そんな彼の肩に雷蔵は優しく手を乗せ、笑みを浮かべながら首肯した。
「お主はお主なりの強さを目指せ。またいつの日か、肩を並べて戦える日を楽しみにしておるぞ」
「……はい! その時は、お二人を守れるほど強くなって来ます! 」
「ありがとうございます、フィル君。君のそういう真っ直ぐな所、私は好きですよ」
涙を堪えるフィルに雷蔵は満面の笑みを浮かべ、彼の肩から手を放して再び己の往く道へと歩みを進める。
「じゃあなぁ! また、どっかで会おうぜ! 雷蔵、シルヴィ! 」
ヴィクトールの声に対して右手を天高く掲げて見せ、二人は振り返らずにそのまま道を進んで行く。彼らの前から雷蔵とシルヴィの姿が消えていくのは、そう遅くはなかった。
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<某所>
同刻。既に日が昇っているのにも関わらず、その部屋の中は黒一色で染め上げられている。其処に一筋の光が灯され、周囲を覆う暗闇を少しだけ暖かく照らした。蠟燭に灯された日が次に照らし出したのは、整った顔立ちの少女である。彼女は口元を覆っていた布を捨て、艶のあるピンク色の唇を露わにした。
「っ……」
突如として走った痛みに、彼女は表情を歪ませる。彼女が依然として憎み続けている、近衛雷蔵につけられたものだった。自分が素顔を見せた時のあの男の表情を、少女は忘れるはずもない。あの男を己の手で殺す為だけに、彼女は忍になったのだから。
「――椛。帰っていましたか」
暗闇の中に響く、若い男の穏やかな声。その声を聴いた瞬間に少女――志鶴椛は地面に跪き、首を垂れる。
「また手酷くやられましたね……。大丈夫ですか? 医療スタッフを呼んだ方が……」
「……必要ありません。この程度の傷、唾でも付ければ治りましょう。――それより」
椛は膝を床に着いた状態から立ち上がった。姿さえ見えども、どこにいるのか程度は彼女でも把握できる。
「リュシアン・クラークがリヒトクライス騎士団の者により殺害されました」
「その首謀者は? 」
「第四番隊隊長、レーヴィン・ハートラント、その副隊長であるヴィクトール・パリシオ、そしてその場に居合わせていた騎士見習いのフィランダー・カミエールです」
「ほう……雷蔵やシルヴァーナ殿下はいらっしゃらなかったのですか? 」
男の問いに、椛は首を横に振った。
「雷蔵は私と交戦しその後離脱、シルヴァーナ=ボラットは負傷したヴィクトール・パリシオの治療に当たっていました。ですので当事者の枠には含まずに報告しました」
「なるほど。それで、今彼らは? 」
「憶測ですが、トランテスタを抜けて魔導連邦の領地へ向かったと思われます。元々彼奴らの行き先は其処でしたから」
ほう、という相槌の声が部屋の中に響き渡る。直後椛の肩に男の固い掌が乗せられ、僅かばかり身体を強張らせた。
「……良く無事に帰ってきました、椛。休息を取った後、再び彼らの尾行の任に就いて下さい」
「御意」
その後椛は蝋燭の火を消し、部屋から立ち去っていく。
「――彼らがフレイピオスへ入国した時が、作戦実行の刻ですからね」




