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ワンダラーズ 無銘放浪伝  作者: 旗戦士
第二章:銀騎士は紅に舞う
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第三十伝: 安寧の刻

<寄宿舎>


 気さくに笑みを浮かべたヴィクトールを、レーヴィンは茫然と見つめている。まさか彼がここに来るとは思ってもいなかった、というのもあるがまず第一に湧き出た感情は恥ずかしさであった。普段の彼女は薄化粧で仕事場に赴いているのだが、今は全くと言っていいほどの素である。若い女性の言葉で言い表すのならば、所謂すっぴんというものであった。


「ど、どうしたんだ? 急に訪ねて来て……」

「いやあ、ちょっとね。レーヴと話したい事もあったからさ」


 少しだけ頬を膨らませつつ、彼女は彼を招き入れる。ヴィクトールが来ると分かっているのならば化粧も身に纏っていた衣服も完璧なものにしたというのに……。そんな事を思いながら、彼女はテーブルの上に置いてあった恋愛小説に視線を向けた。瞬時に脳が回転するのが分かり、頬を紅潮させながらレーヴィンは本の冊子を掴み取ると即座に本棚へ仕舞いこむ。この間僅か数秒。やけに息が上がっているのを悟られたのか、部屋の中のヴィクトールは不思議そうな表情を浮かべている。


「……ま、隠したい事があるならいいさ。それよりも、ほれ」


 彼がそう言って、彼女に手渡したのは今朝の会議で使われた赤い宝玉。リュシアンの罪を証明するために使われたものだが、レーヴィンにとってはヴィクトールとの絆を確固たるものにした大切な一品である。ありがとう、と彼女は笑顔を浮かべながらヴィクトールにそう言うと、彼はいつもの様子で口角を吊り上げた。


「……これは」

「改めて俺の手から渡したいと思ってね。証拠に使わせてもらって悪かったな」


 金色のネックレスが差し出したレーヴィンの両手の上に置かれる。嘗てレーヴィンが傭兵時代に初めての仕事を終えた後、ヴィクトールからお礼として渡されたものだった。過去の記憶を懐かしむように彼女はそのアクセサリーを握り締める。


「……そういう所が、ずるいんだ」

「……悪かったって。俺もさ、あんたを守る為に柄にもなく本気を出したんだぜ? 」

「だからそういう所が! ……全く、もういい。お前がそういう男だという事は、前々から分かっていたからな」


 呆れたような顔を見せるも、彼女の胸の奥は高鳴って仕方が無かった。照れ臭そうに笑みを浮かべる目の前の彼が、初めて好きになった男が。こうして自分の身を賭して、レーヴィンを救い出してくれたのだから。


「へへへっ。ま、酒でも飲もうや。レーヴも丁度飲む瞬間だったんだろ? 」

「そ、それはそうだが……。私はお前ほど強くはないぞ」

「構わねえさ」


 そう言いながらヴィクトールは懐から茶色の液体が入った瓶を取り出し、氷の入ったウィスキーグラスへと注いでいく。彼から手渡されたグラスの縁を向け、器同士が触れ合う甲高い音が響いたかと思うと、彼女の手は自然とグラスを口へ動かしていた。


「……これ、物凄く強い酒じゃないか? 」

「あ、バレた? 無事に事件を解決できた、って意味で高い酒開けたんだけど」

「余計なことをするな……馬鹿者」


 口ではそう言いながらも、レーヴィンは口元を緩ませながらグラスを傾ける。得も言われぬ安堵感が彼女の胸の奥を支配し、アルコールの香りと共に息を吐き出した。


「……改めて言うぜ、レーヴ。騙すような真似をして悪かった。言い訳するつもりは無いが、お前の地位と名誉……そしてお前自身を守るのにはああするしか無かった。すまない……本当に、済まなかった」


 普段とは打って変わり、ヴィクトールは突然椅子から立ち上がって彼女へ頭を下げる。突然の事に呆気に取られていたレーヴィンは同じように腰を上げ、彼の目の前へと立った。


「――顔を上げろ、ヴィクター」


 彼女の眼前に真剣な面持ちのヴィクトールが映る。一歩、また一歩と彼女は歩み寄っていき、段々と彼との距離が近づいて行った。抑えきれない胸の高鳴りと顔が熱くなっていくのを感じ取りながら、レーヴィンは寄り掛かるようにしてヴィクトールの胸の中へ飛び込む。慣れない酒に酔っている、と言われても仕方がないだろう。


「お、おい……レーヴ? 」


 事実、彼女は自分自身を奮い立たせる為に酒を口にしたのだから。男性ものの濃厚な、かつ妖艶な香水の匂いがレーヴィンの鼻腔を刺激する。自分の相棒は、こうして死なずに自分の腕の中にいる。

自分の想い人は、こうして――。


「――馬鹿者と叱りたいところだが、よく……生きて帰って来てくれた。心配、したんだから……」

「さ、酒に酔ってるだけだろ、な? レーヴ? 」


 戸惑っているヴィクトールを無視し、レーヴィンは彼の腰に回した腕の力を強めた。彼の呼ぶ声がする。だが、レーヴィンには関係ない。こうして最高の相棒である彼を、今は離したくはなかった。

自分の腕の中に、留めておきたかった。


「な、なぁレーヴ? お、俺……そろそろ恥ずかしくなってき――」


 そう言いかけた瞬間、レーヴィンは彼の胸に埋めていた顔を上げてヴィクトールの顔を見上げる。普段通りの穏やかな笑みに少々困惑の色を浮かべているが、構わずに彼女は彼の唇へと狙いを定めた。そして、レーヴィンの口内には柔らかい肉の感触とほろ苦い煙草の風味が広がる。頬と耳がより一層熱を帯びていくのを感じた。だが、今は関係ない。自身の心に沸き上がった理性を捨て、彼女は目の前の男をひたすらに愛すだけ。互いの唇を遠ざけ、レーヴィンは恥ずかしそうに視線を俯かせる。呆気に取られているヴィクトールを目の前に、彼女は彼の答えを待った。


「……これが私の本当の想いだ、ヴィクター。お前が死んだと聞いた時、私はどうにかなってしまいそうだった。だからもう……あんな無茶はしないでくれ。好きな男に、先立たれるのは辛い」

「……わかったよ、もう一人で突っ走る真似はしない。それに……俺も分かったんだ。背中を預けられるのは、レーヴしかいないってな」

「……気づくのが遅いぞ、馬鹿者……」


 そんな事を呟きながら、彼女は再びヴィクトールの腰を背中を抱く力を強める。窓から差し込む白い月明かりが、二人を祝福するように静かに照らす。そうして二人の影は、静寂の中で再び重なり合った。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<雷蔵の部屋>


 同刻。夜の帳が彼の部屋を包み込み、そこに一つ、ロウソクの灯が淡く輝いている。灯りの下で雷蔵は静かに佇みながら、手にしたワイングラスを傾けた。深紅の液体が彼の口を経て体内へ流れ込むと同時に、芳醇かつ滑らかな味わいが広がる。再び得ることの出来た静寂と安寧に、雷蔵は深く息を吐いた。


「……さて。今頃、あの二人は逢瀬でもし()うているのだろうな。全く……ようやく落ち着けるというものよ」


 自嘲気味に再びグラスを煽り、雷蔵はワインを口に含む。その時、彼の部屋の扉から微かなノックの音が聞こえてきた。警戒などせず、そのまま立ち上がり来客を出迎えようと扉を開ける。その先には、自身の旅の相棒であるシルヴィが立っていた。一瞬、雷蔵はドアの前に立っている彼女に見惚れてしまっていた。銀が埋め込まれた高級な錦糸のように美しい長髪が月明かりを反射してより一層の輝きを放ち、シルヴィの整った容姿を引き立たせている。普段こめかみの部分を三つ編みに結っている彼女は現在、何も縛らずに自然体のままで現れた。


「……シルヴィか。どうした? 」

「いやあ、そろそろ明日の計画でも練る頃だと思いまして。でもどうしたんですか? 少し反応が遅かったですけど」

「恥ずかしながら、お主に見惚れておったのだ。男ならば、お主のような美しい女子(おなご)に惹かれるというのが(さが)であろう」


 雷蔵の言葉を耳にした瞬間、シルヴィは少しだけ顔を赤くしながら顔を両手で覆う。年相応の反応を愛おしく思いながらも雷蔵は彼女を招き入れ、自分の座っていた椅子とは向かい側の席に座らせた。


「お主も飲むか? 丁度、酒の相手がおらず寂しさを感じていた次第でな」

「の、飲んだことはありませんけど……雷蔵さんがそう言うなら」


 そうか、と雷蔵は笑みを浮かべて差し出されたグラスにワインの入った深緑色の瓶を傾ける。独特の音を立てながら注がれていく酒を見据え、シルヴィは緊張した面持ちを見せた。


「まあ、気楽に飲むと良い。この酒は口当たりが柔らかいからな」

「べ、別に緊張なんてしてませんよぉ! いきますよ! 」


 そう言いながらシルヴィはグラスに注がれたワインを一気に飲み干し、手にした器をゆっくりとテーブルの上に置く。


「ぷはーっ! このおしゃけおいしいれすねぇ! 」

「し、シルヴィ? さすがにその飲み方は……」

「うるひゃいんれすよぉ~。あたしだってねぇ、こうひておしゃけにおぼれたいちょきだってあるんれすからぁ~」


 しばしの沈黙。雷蔵の目からは光が消え、頭を抱えたい衝動に駆られた。目の前のシルヴィは「なぁんとかいったらどうなんれすかぁ」と苦悩する彼を無視している様子である。


「らいたいねぇ~……らいぞうしゃんはむちゃしすぎなんれすぅ。あたしだって……あたしだって……」


 そう言葉を残しながらシルヴィは机の上に突っ伏したまま、微動だにしなくなった。不審に思った雷蔵は彼女の元へ駆け寄り、シルヴィの口元へ耳を向ける。瞬間、雷蔵の首が何者かの腕によって抱きしめられた。おそるおそるその方向へ視線を傾けると、そこには酔って満面の笑みを浮かべながら眠りにつくシルヴィの姿がある。


「えへへぇ~! つーかまえたぁ……」

「お、おいシルヴィ! 離せ……って力強っ! ええい、かくなる上は……! 」


 地面に跪いた状態から首を抱えられた雷蔵は全身に力を込めて立ち上がり、彼女の身体を抱え上げた。所謂お姫様だっこ、というものを本当にするとは彼も思うまい。左腕で彼女の背中を支え、右腕で両足を持ちながら雷蔵はそのまま自分が寝ていたベッドへと連れていく。シルヴィの身体を柔らかいベッドの上に鎮座させ、その場を離れようとしたその時だった。


「んぅぅぅ……」

「し、シルヴィ? 離してはくれまいか……? 」

「んやぁぁ~……いかないでぇ……」


 まるで駄々をこねる幼子のように可愛らしい声をあげるシルヴィは雷蔵の首を離さずに寝転がっている。深くため息を吐きながら彼は苦笑を浮かべ、彼女の隣に身体を横たわらせた。


「んふふふ……やわらかぁーい……むにゃむにゃ……」


 そんな彼女の声を耳にしながら、雷蔵も目を閉じる。彼の意識が睡魔に奪われたのも、そのすぐ後の事だった。

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