第三伝: 魔術の礎
<フィルの家>
フィルからの申し出を断り、鍛錬の気が削がれた雷蔵は彼の宿泊先へと一旦引き返す事にした。あてがわれた部屋に向かおうと階段を登る際、自身がオルディネールに到着してから湯浴みをしていない事に気づく。身体が汚れる事については何ら彼にとって問題はないが、人の家に上がり宿泊させてもらう以上汚れたままでベッドに上がるのは失礼だろう。
「すんすん……。うーむ……これでは女子達に嫌われてしまうのう。拙者もそれは嫌だなぁ……」
彼の鼻を刺激する、汗と土の匂いが入り混じった男性特有の体臭。口元を歪ませながら雷蔵は鼻を摘み、ゆっくりと腕を引き離す。視線を自身の胸元や足元に落とすと、黒い袴の裾には幾つもの土のシミがこびり付いており、灰色の胴着には汗の跡が染みついていた。彼の身体から強烈な匂いが発せられるのも無理はないだろう。
「よし。風呂に入るとしよう。そろそろシルヴィも上がっている頃だろうしな」
腰に差していた刀を再び自室の壁に立て掛け、風呂場へ向かおうとした彼の視界に綺麗に折りたたまれた着替えが目に入った。おそらくフィルが彼の為に用意してくれたものであろう、フィルの身体よりも一回り大きなサイズの服を雷蔵は広げる。
「ほほう、これは……なかなか着心地が良さそうだ。フィルには感謝せねばならん」
麻製の服が夕日を透かし橙色に染まっていく光景を見るなり、雷蔵は着替えを持って一階へと降りた。柄にもなく鼻歌を歌いながら、久方ぶりの風呂だと思う度に何故か彼は心躍っている。無意識のうちに長旅を身体が拒絶していたのであろう、満面の笑みで雷蔵は風呂場へと通ずる引き戸を開けた。
――だが。
「ふんふふ~ん……って、あ」
「…………」
戸を開けて真っ先に彼の視界を覆いつくしたのは湯で濡れた長い銀髪と彫刻のような美しく白い肌。何よりも一糸纏わぬその姿が、雷蔵にとっては女神のように映る。ちょうど風呂場から洗面台へと向かう途中のあの大食らいのシルヴィだと気づくのに彼は数秒かかった。
「おお、シルヴィ。すまぬ、まだ入浴中であったか」
ローブの下に隠れていたその豊満な肢体は、シルヴィをより一層魅力的に感じさせる。一糸纏わぬ彼女は、呆気にとられた表情で雷蔵を見つめていた。口を開けている彼女の顔がみるみる内に紅潮していき、露わになっていた胸部をすぐ其処に掛かっていた白いバスタオルで覆い隠す。次に彼が目撃したのは、涙目になりながら怒りを露わにするシルヴィだった。
「ら……」
「ん? どうしたシルヴィ? 」
「雷蔵さんのばかぁぁぁっ!! 」
少女の力とは思えない張り手が雷蔵の右頬に炸裂し、浴場に入りかけていた身体をシルヴィによって無理やり押し出される。彼の巨躯は入り口付近に置かれていた家具を巻き込んで倒れ、背後で鋭い音と共に引き戸が閉じられた。あまりの痛さに思わず雷蔵はうめき声を上げ、揺れる視界を元に戻す為頭を左右に振る。そして物音を聞いて駆けつけたのか玄関から剣を片手に持ち、焦りを浮かべた表情のフィルが姿を現した。
「雷蔵さん! 何かあったんですか!? 」
「ち、ちぃとばかり……乙女の琴線に触れてしまったようだ……」
「え? 何を……」
疑問を浮かべるフィルへ向けて、雷蔵は反転した視界の中浴場の引き戸を指差す。戸の向こう側からはシルヴィが髪に使用する乾燥機のスイッチを点ける音が聞こえ、微かにフィルは顔を赤らめた。
「えっと……もしかして、雷蔵さん……覗いちゃったんですか? 」
「失敬な! いくら拙者と言えどそのような事はせん! 着替え場で偶然風呂から上がったシルヴィと鉢合わせただけだ! 」
「えぇ……それでも普通に怒りますよ……」
転がった状態から起き上がり、周囲に飛び散った着替えを集め直すと同時に風呂場から着替え終わったシルヴィが姿を現す。木綿生地の黒いショートパンツを穿き、白いシャツを身に纏った彼女は雷蔵に目配せだけをしてふくれっ面を浮かべながら自室へと向かっていった。全身から上がっている湯気が彼女の美しさを更に惹き立てており、フィルは見惚れたようにシルヴィを目で追っている。
「……お主、目つきがいやらしいぞ」
「そ、そそんな事ありませんよっ!! 」
「嘘をつけ、明らかに見惚れてたではないか。所謂むっつり助平というやつかな? 愛い奴よのぅ」
「ら、雷蔵さん。前、前見てください」
青ざめた表情を浮かべるフィルが指差した先へゆっくりと視線を上げていくと、額に青筋を浮かべたシルヴィが腰に手を当てて彼の前に立っていた。雷蔵は顔を引き攣らせ、愛想笑いを浮かべる。直後左頬にも平手打ちの手形が付いた彼は、痛む両頬に苦しみながら風呂場へと消えていった。
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<雷蔵の部屋>
雷蔵、フィル、シルヴィの三人で夕餉を済ませ、他の二人に別れを告げた後雷蔵は寝間着姿のまま壁に立て掛けてあった愛刀を掴む。風呂敷から手入れ道具の入った小さな木箱を取り出し、蓋を開けた。箱の中には目釘抜と呼ばれる小さな真鍮製の小槌、打ち粉、拭い紙などの刀の刀身を磨き上げて錆びないように対策する器具が入っている。彼はまず目釘抜を手に取り、愛刀"紀州光片守長政"の柄の中心に刺さっている目釘を抜いた。
「……うむ。やはり何時見ても素晴らしい業物よ」
黒塗りの鞘から刀をゆっくりと引き抜くと銀色の刀身に刻まれた一直線に走る鎬が影を作り出し、刃には小波のような美しい曲線を描く刃紋が雷蔵の視界を覆いつくす。柄を左手に持ち替え、左の手首を右手で軽く叩くと柄と茎を固定していた部分が緩み始めた。その後二、三回再び手首を叩くと"志鶴長政"を刻み込まれた茎が露わになる。
「長政……懐かしい名だ」
ヴァルスカの極東に位置する自身の故郷・和之生国に籍を置く親友の名を呟いた。その後彼は刀身の根元に組み込まれている金色の鎺と切羽を取り外し、茎を握りながら薬品で消毒した白い布で刀身の棟から切っ先までにこびり付いた古い油や埃を取り除く。刀身の汚れを落とした事を目視し、次に彼は打ち粉という白い粉を綿の付いた棒で全体的に塗すともう一枚の布で粉をふるい落とした。
「よし。さて、油を塗るとしようか」
油塗紙という錆びを防止する油を刀身に塗った後、斑が残らないように均等に油が敷かれた事を確認し鎺と切羽を鍔の部分に戻す。傍に置いてあった柄を茎に差し込み、柄頭を右の掌で軽く叩いた。納まりが良くできた事を確認した雷蔵は最後に目釘を打ち込み、紀州光片守長政を鞘に納める。刀を納める特有の心地良い音が聞こえ、手入れを完了すると彼は深くため息を吐いた。
「……雷蔵さーん? 」
「む。シルヴィか、入っても良いぞ。ちょうど手入れを終えた所だ」
自室の扉から顔だけを出すシルヴィは、申し訳なさそうな表情を浮かべながら部屋へと入ってくる。何がそんなに気まずいのか彼には分らなかったが、気にせずに彼女を受け入れた。直後彼女は顔を赤らめながら頭を下げ、照れ臭そうに顔を覆っている。
「その……さっきはごめんなさい。ビンタしちゃったりして……私も気が動転してたんです……」
「お主と拙者の仲だ、気にすることは無い。むしろ拙者の方が謝るべきだろう。して、何用かな? 」
「あっ、はい。明日の予定を話そうと思って」
明るい笑顔を浮かべながらシルヴィは背負った鞄から折りたたまれた世界地図とこのイシュテン共和国の大陸が示されたもう一枚の地図を取り出す。世界地図には左の東方から農業共和国イシュテン・魔道連邦フレイピオス・機工帝国ヴァルスカの大陸が描かれており、各国の主要都市のみが記されていた。プロメセティアはこの三国で主に構成されており、最も領土が広いのがヴァルスカ、その次にイシュテン。そして新興国のフレイピオスといった順である。
「オルディネールから更にそのまま西に進むとイシュテンとフレイピオスの国境に着きます。確か……ええと」
「トランテスタ、という交易の街だな。イシュテン領の街だ」
イシュテンの地図を片手に雷蔵は領土の最西端を指差した。イシュテンからフレイピオスへ向かうには二か国の間に流れるココルネ川という大きな川を横切り、そして其処に掛かっている大きな橋を渡る事が必要である。
「お主は魔道連邦の首都へ向かいたいのであろう? なら拙者もそれについて行くまで。出会った時からそれは変わらんさ」
だが、と雷蔵は付け加えた。
「いつか理由を話してほしい。なぜお主がここへ向かう理由があるのか、そしてお主の素性をな」
「はい……それは約束しましたから。雷蔵さんがいてくれて、本当に心強いです」
改めて礼を言われると照れ臭いものだ、雷蔵は頬を掻く。明日の予定を話し終えた所でシルヴィはマップをバッグに仕舞い込み、座っていた床から立ち上がった。
「それじゃあ私、これで失礼しますね。ちょっと下準備しなくちゃいけないんです」
「うむ。お休み、シルヴィ。良い夜を」
「雷蔵さんもおやすみなさい」
陽気に手を振りながら部屋を去るシルヴィを見送り、雷蔵は弛んでいた背中を伸ばす。背骨が音を立てて伸びていくのを感じ、心地良い感触を覚えながら彼はベッドへと飛び込んだ。
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<フィルの家・庭>
「……さて、と」
雷蔵に別れを告げた後、シルヴィは単身分厚い魔導書と愛用の細剣を手に外へと身を置いている。昼の蒸し暑い気候とは打って変わり、現在は涼し気な夜風が彼女の全身を包み込んだ。村へと続く街道に建てられた街灯の光が彼女の半身を照らしているのを一瞥し、シルヴィは手にした魔導書を開く。
「――暗唱」
彼女がそう告げた瞬間、周囲に緑色の魔法陣が形成され幾つもの光の粒が彼女を包み込んだ。シルヴィは右手に握っていた細剣の切っ先を虚空へと向け、目を閉じる。
「祖なる大地よ、我が礎を満たせ。母なる風よ、我が莢に其の魂を宿せ」
周囲に舞っていた光球たちが彼女の剣に集まり始め、やがてそれは周りをも明るくしていった。魔法を使用する者は彼女のように植物や空気、魔術の基となるものを周囲からかき集め、実際に魔術を完成させていく。
「――我は今……契りを交わす。魔力同調! 」
細剣を伝って彼女の全身へと光が集まり、そしてシルヴィはそれらを吸収した。左手に握っていた魔導書のページに新たに3つの呪文が刻まれ、彼女は溜息をつく。魔法が普及しているプロメセティアではシルヴィのように魔導書の呪文を基にした詠唱を覚える魔術師が大半を占めていた。しかし、本来の人間も魔法使いはこの行為でさえも多くの体力を消費する。故に見習い魔術師は最大でも2つの呪文しか書物には記録できず、覚えられる魔法の数も少ない。何故シルヴィのような少女が熟練の魔術師と同じように暗唱が可能なのか。その理由は彼女の生い立ちにある。この世界では人類よりも魔法に長けているエルフという種族が存在し、彼らは人間よりも遥かに膨大な魔力量を有していた。そしてシルヴィは人間でもありエルフでもある――所謂ハーフエルフという分類に属している。
エルフの魔力量と人類の持つある程度の体力、それを兼ね備えた存在がシルヴィだった。
「ふぅ。この作業も疲れるんですよねー……」
そんな愚痴をこぼしながらシルヴィは手にしていた細剣を鞘に納め、魔導書へと視線を傾ける。分厚い本のページの上には彼女が見たこともない呪文が掲載されており、シルヴィはそれに目線を落とした。
「土属性に水属性……それに時を司る魔法ですか。いやぁ、ちょうどストックを切らしてたから安心ですね」
呪文の項目を流し読みした後、シルヴィは魔術書を閉じて深く息を吐く。空いていた右手を胸の前に突き出し、閉じていた目を見開いた。
「砕け、大地の怒り」
彼女の向けていた掌の先の大地が割れ、鋭利な岩が幾つも顔を出す。対象へ大岩を射出する魔法のようで、戦闘に用いるのには最適だろう。
「試しに撃ってみましたけど……中々威力が高いですね。魔力の消費も他のものより多いですし多発は控えましょうか」
独り言をつぶやきながら彼女は魔法の展開を解除し、姿を見せていた岩々は忽然と消失する。試し撃ちを終えた彼女は予想以上に感じていた疲労感に見舞われ、ふらつきながらもフィルの家へと戻っていった。