第二十九伝: Calm Down
<騎士団詰め所・庭園>
彼らは無罪。その言葉を聞いた雷蔵がまず最初に覚えたのは、胸の中を駆け巡る安堵感であった。詰め所の内部に建てられた色とりどりの花が生い茂る庭園を一人闊歩し、彼は腰に差していた愛刀の柄に腕を掛けながら空を見上げる。
「……椛……」
そして同時に浮かび上がる、雷蔵と刃を交えた女の忍。憎しみに満ちた彼女の血走った双眸は、嫌でも思い出せる。忘れかけていた、過去の罪。リュシアンとの一件を片付けた彼に、再び降りかかる火の粉。志鶴椛。雷蔵へ憎悪の刃を向けた、女忍者はそんな名前だった。
「――拙者が、変えてしまったようなものか」
間違いなく、椛の存在は彼にとって無視してはならない存在。己の罪に向き合う為の、腕の中で死んでいった友への贖罪の為の。自然と柄を握る力が強まる。ヴィクトールやレーヴィンは、既に自分の道を決めているというのに。シルヴィやフィルでさえも、己の未来を切り開こうともがいているのに。どす黒い劣等感が、雷蔵の胸の内を占めた。
「向き合わなければ、な……」
確実に椛は自分を殺しに来る。それがいつになるかはわからない。だが再び彼女が自身の前に現れた瞬間が――。
「……きっと、拙者が死ぬときなのであろう」
背後から、誰かが歩いてくる足音が聞こえる。散りばめられた砂利を踏みしめる心地良い音を耳にしながら、雷蔵は振り返った。
「よう。せっかくの生還だってのに、そんなシケた面すんなよ」
「ヴィクトール、殿……」
「はは、もうヴィクターでいいさ」
煙草を咥えたヴィクトールが、相変わらずの不敵な笑みを浮かべて手を上げている。思えば、こうして二人だけで会話することが随分と久しぶりに感じられた。彼が隣に立った瞬間巻きたばこの先から紫煙と燻ぶった匂いが辺りに立ち込め、香ばしい独特の香りが雷蔵の鼻を刺激する。
「――とりあえず、礼を言っておくぜ。お前たちがいなきゃ、この作戦は成功しなかった。今頃俺も隊長も、おっ死んでた頃だろうよ」
「何を言うか。拙者たちが生き残れたのは何よりもヴィクター殿のおかげだ。拙者は所詮、駒に過ぎんよ」
「すまんすまん。そんなつもりは無かったんだが……あの執政官の罪を暴くのにはああするしか無かったんだ。この通りだ、頼むよ」
両手を胸の前で合わせて照れ臭そうな笑顔を浮かべながら、ヴィクトールは頭を下げた。
「まあ良いさ。"惚れた女を男が守るのに理由はいらない"なんて言葉、そうそう聞けるものではないからな」
「うぐっ!? 」
痛いところを突かれた、と言わんばかりに目の前の彼は頬を紅潮させる。対する雷蔵はにやりと口角を吊り上げ、卑しい視線を彼に向けた。
「それで……レーヴィン殿とはどうなった? 拙者、其処が気になって仕方がなくてのう……」
「て、てめえっ! そこは聞くなって! 確かに戦いの直ぐ後に隊長に詰め寄られたけどさぁ! 」
「詰め寄られて? ほうほう? それで? 」
「い、いやぁその……。なんつーか……一旦問題は置いといたっていうか……逃げたっていうのかな……? 」
思わず、雷蔵の口から素の「は? 」という声が漏れる。すかさず彼はヴィクトールをその場で正座させ、目の前に立ちはだかるように腕を組んだ。
「お主は全く……。いいか! 男というのは常に堂々としているものだ! それが何だ、恥ずかしさで慕っている女子から逃げ出すとは言語道断! 」
「はい……すいません……。おじさん情けないです……反省」
「今頃レーヴィン殿もお主に幻滅している頃であろうな! 」
「うっそぉ……おじさんショックぅ……」
なので、と雷蔵は付け足してから再び口角を吊り上げる。
「……まず昼餉にでも行くか、ヴィクター」
「……もしかしてそれが目的だった? 」
苦虫を食い潰したような表情を浮かべ、彼は座り込んだヴィクトールを立ち上がらせた。どうやらヴィクトール自身も雷蔵の思惑に気づいたようで、いつもの不敵な笑みを浮かべながら彼の肩を叩く。
「んだよぉ、飯が食いに行きてえならそう言えって。いい飯屋知ってるんだ、早く行こうぜ」
「その言葉を待っておったぞ」
現金なやつだ、と耳にした言葉を一瞥すると雷蔵は先に町へと続く道を歩き始める。対するヴィクトールも笑顔を浮かべながら雷蔵の背中を叩き、彼の隣へ足を進めた。"親友"。二人の関係を言い表すのには、その言葉で十分であった。
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<騎士団寄宿舎>
時は進み、夕暮れ時となったトランテスタの町は沈みかけていた夕日の光に照らされている。そんな橙色と紺色のコントラストを横目に、美しい金糸のような長髪を揺らす彼女――レーヴィン・ハートラントは自身の部屋にて革製のソファに寄り掛かっていた。デフロットから急に告げられた、3日間の休暇。おそらく激務ばかりをこなしていたレーヴィンを見かねて彼が提案してくれたのであろう。しかし、予想だにしていなかった突然の余暇により彼女にはやるべき事を見つけることはできなかった。
「ふう……」
第四番隊隊長という肩書を背負い、自分よりも一回り年上の騎士や年下の騎士を指揮する日々。無論彼女にとってそれは遣り甲斐を感じる仕事ではあったものの、若干26歳という女性が背負うには重すぎる役職であった。故にレーヴィンを襲ったのは安堵感でも焦燥感でもなく、激務に対する疲労。
「最近、やけに肩が凝る……」
鋼のように固くなった左肩を右手で揉み、僅かばかりの開放感を得る。年齢以上に疲れを感じている、とレーヴィンは自嘲気味に笑みを浮かべた。彼女にとっては不要な――一般女性からしたら喉から手が出る程渇望している――女性特有の実りが作用しているのもあるのだが。
「趣味の一つでもないと、こうも暇なのだな……」
そんな事をぼやきつつ、彼女は目の前にあった文庫本を手にする。最近、女性の中で話題になっている恋愛小説というものだった。流行に疎かった彼女が初めて周囲の流れに沿って購入したものであり、幾分か思い入れも強い。
「…………」
噎せ返るような甘い描写を読んでいくうちに、レーヴィンの脳裏には次第にある男性の姿が思い浮かんでくる。首元まで伸びた茶髪を後ろで縛り、顎髭を伸ばした人懐っこい笑顔を浮かべる男……。
「い、いやいやいや! 馬鹿か私は! 何故奴の顔が浮かんでくるのだ! 」
左右に首を振り、赤く紅潮した頬を冷ますように彼女は冷蔵庫から瓶に入った水を取り出す。そのまま彼女は中に入った冷水を飲み干し、柄にもなく焦った様子で空になった瓶をゴミ箱へ捨てた。
「……ふぅ。やはり、性に合わんものは嗜むべきではないな……」
そんな事を呟きながら、彼女は再び冷蔵庫の扉に手を伸ばす。酒でも飲んで気分を落ち着かせようと、彼女は冷蔵庫の中に入っていたウィスキーの瓶を掴んだ。やはり一人の時は穏やかな感情と共に酒を嗜むべきと感じたのであろう、彼女は喜々としながらグラスと氷を取り出す。その時、部屋のドアをノックする音が彼女の耳に響いた。おそらく部下の一人が言伝でも伝えに来たのであろう、とレーヴィンは自身にそう言い聞かせながら扉を開ける。しかし……扉の向こうには彼女の予想を遥かに上回る人物が立っていた。
「よ、よお、隊長……」
「ヴ、ヴィクター……? 」




