第二十二伝:あまりに大きく、あまりに儚く
<レーヴィンの執務室>
翌朝。いつも通りに事務の仕事をこなそうと自身の執務室に出勤したレーヴィンは、普段通りの事務所を一瞥しながら出勤報告を済ませる。妙な胸の違和感を感じながらも彼女は自室の巨大な扉を開け、肩に提げている革製の鞄を机の上に置くと書類を取り出しながらデスクチェアに腰を落ち着けた。両肩に圧し掛かった凝りをほぐすように左肩に右腕を当て、レーヴィンは机に立て掛けられていた写真立てに手を伸ばす。
「……ん? 」
この騎士団が設立された当初に撮影されたもので、初々しさを感じさせる自身の固まった表情に思わず恥ずかしさを覚えた。しかしよく見ると、写真立ての中の硝子にヒビが入っている。白い指先でその亀裂に触れ、彼女と隣り合わせに立っている笑みを浮かべていた若い頃のヴィクトールとの間にそのヒビは刻み込まれていた。まるで、彼女との関係を引き裂くかのように。
「まさか、な……」
胸騒ぎの原因は彼にあるのだろうか、とレーヴィンは金糸のような長い髪をかき上げて額を掌で覆う。騎士団長らしくもないと自嘲気味に口角を吊り上げ、今日の執務の内容を記した書類に手を伸ばした。思えば、ヴィクトールとの関係も長いものになる。仕える主を失った彼女に残されていた道は、滅ぼされた国を抜けて別の場所で息を永らえることだった。しかし、生憎レーヴィンには剣を振る事しか能がない。彼女が取った選択肢は我武者羅に剣を振り続け、魔物に困り果てている人々を助ける傭兵として活動すること。そこで出会ったのがヴィクトールであった。傭兵界隈のイロハを彼に叩き込まれ、コンビを組んで共に依頼を熟す。男女の関係、というよりもヴィクトールの存在はレーヴィンにとって唯一無二の相棒というものになっていた。
「あの大馬鹿野郎……。一体どこで油を売っているんだ……」
苦し紛れに呟いた一言に、答える者はどこにもいない。あの胡散臭い笑みが見られないのも、彼女にとって心の突っかかりとなっていた。
「……いかんいかん。まずは執務を終わらせてから、だな」
頭の中に浮かんだ雑念を取り払うかのようにレーヴィンは頭を左右に振ると、黒い万年筆を手に取る。報告書の承認を行う際にサインを行ったり、手書きで令状や派遣される任務の内容などを書き記すのが彼女の仕事だ。そして報告書のサイン欄に名前を記入し、書き終えた書類を片付けて新たなレポートに取り掛かろうとしたその時。レーヴィンは自身の取った書類の任務令状の項目が視界に入り、そして手を止めた。
「"ヴィクトール副隊長の捜索及び逮捕の令状"……か」
嘗ての同胞をこの手に掛けることほど、騎士として生きてきた彼女にとって辛い事はない。それが背中を預けながら共に生き抜いてきたヴィクトールという存在ならば、レーヴィンには耐え難い事だろう。
「奴に手を掛けなければならないのなら……私が終わらせるまでだ」
それが、彼女の責任。騎士団長という上に立場にいる人間と彼の理解者という立場に挟まれたレーヴィンの、せめてもの手向けだった。震える手で逮捕令状のサイン項目に自身の名前を書き記そうとしたその時。ノックもせずに若い部下の騎士と左腕に包帯を巻いた辛い表情を浮かべるイングリットが彼女の執務室に入室し、レーヴィンは椅子から立ち上がる。
「ノックもせずにどうした。何かあったのか」
「その……非常に申し上げにくいのですが……」
青年は苦虫を食い潰したような苦い表情を浮かべ、口を開こうとした。だが隣にいたイングリットに制され、彼女が再び言葉を紡ぐ。
「……昨夜、ヴィクトール副隊長がリュシアン執政官の執務室で倒れているのが見つかったっす」
「――何……だって? 」
イングリットの口から放たれたのは、彼女が一番聞きたくなかった言葉。驚きを隠せないレーヴィンを一瞥し、イングリットは話を続ける。
「私もその場に居合わせていたんすが……彼は明らかに私たちに殺意を持って現れました。服装も正式装備のものとは違う、隠密行動に適した黒い軽装でしたっす」
その瞬間、レーヴィンはデスクチェアに力なく腰を下ろした。本当に彼がエルフ至上主義の一件を担っていた犯人だと彼女はまだ信じ切れていなかったのだが、今回の件でそれが確信に変わる。無論、レーヴィンはヴィクトールが首謀者だとは信じたくはなかった。彼のことは本当に信頼していたし、出来れば殺さずに事を進めたかった。
「それで……彼は? ヴィクトールは……ヴィクターはどうなった? 」
「……執政官によって、直接手を下されました。死体は安置所に置いてあるっす、なので――」
その瞬間レーヴィンは椅子から立ち上がり、壁に飾ってあった自身の愛剣の鞘を手に取る。
「待ってほしいっす! あの状況はどうしようも無かったっすんよ! 副隊長も本気で殺す気でいたし、事実私や執政官も傷を負わされました! お気持ちは分かります、でも今は剣を抜く時じゃないっすよ! 」
イングリットの弁明は尤もであった。騎士団長とほぼ同等の権力を持つ執政官をその手に掛けることは、騎士団にとってもう一人の指導者を無くす事を意味する。故にヴィクトールはレーヴィンではなくリュシアン執政官を狙い、騎士団内部を混乱に陥れようとしたのだろう。だが、彼にとってもイングリットがその場にいることは計算の内には入っていなかった。そしてリヒトクライス騎士団では高位の人物が何者かに襲撃された時、正当防衛として敵の無力化の為に武力の行使が認められている。結果ヴィクトールはその権利の行使により殺され、今に至るということだろう。力なく膝から崩れ落ち、レーヴィンはその場にへたり込んだ。
「……フォレル君、ここは外して欲しいっす。一緒についてきてもらって申し訳ないっすけど……」
「いえ。……僕は一旦失礼します」
重苦しい雰囲気から若い騎士を逃がすように部屋から退出させると、レーヴィンはイングリットに視線を傾けた。イングリットの目には騎士団長という肩書を忘れ、一人の女性として瞳から大粒の涙を静かに零すレーヴィンの姿をが映る。
「何故だ……ヴィクター……。大馬鹿野郎が……! 何度も私を助けておいて貴様は……私に手向けもさせてくれないのか……ッ! 」
真っ白な大理石で覆われた壁に、彼女は何度も拳を叩きつけた。打ち付けた拳の部分から血が流れ、白い石壁に赤黒いシミが出来上がる。再び拳で壁を殴ろうとしたその瞬間、彼女の腕はイングリットによって止められた。
「……隊長。一旦落ち着きましょう。私は貴女の悲しむ顔を見に来たわけじゃないっす。これからどうするか、をお話に来たっすよ」
涙を拭い、レーヴィンは彼女の顔を見上げる。事実ここで泣きじゃくっている暇は無かった。ヴィクトールがどのような目的で執政官を手に掛けようとしたのか、そして彼は本当に裏切り者であったのかを確かめる義務が彼女にはある。
「そう……だな……」
立ち上がり、乱れた服装を一度だけ手で戻すとレーヴィンは再び自身のデスクチェアに腰掛けた。呼吸を整えようと鼻から息を深く吸い、口から吐き出したところで目の前に立つイングリットと視線を交わす。
「……それで、この次は彼の葬儀か? 現場検証を行いたいところだが」
「そうですね。先に執政官の執務室を調べたあと、ヴィクトール副隊長の部屋も調べてみましょう。何か手紙などの重要書類があるかもしれないっす」
「あと、雷蔵殿たちにはもう伝わっているのか? いくら騎士団の人間ではないと言えど、彼らも事件の解決に助力してくれた一人だ。報告する義務はある」
「もう既に執政官殿が雷蔵さんたちを呼び出して、今話をしているところだと思うっす。現場検証には流石に参加できませんが、葬儀には参加させるつもりっすよ」
そうか、と相槌を打ちながら彼女は椅子の背凭れに寄り掛かった。やけに準備が良い事に違和感を覚えつつもレーヴィンは机の上にあった書きかけの書類を手に取り、向かい合っていたイングリットに差し出す。
「……分かった。葬儀の書類は私が用意しておく。イングリットは、現場検証の後報告書を提出してくれ」
「了解っす。……あまり、自分を追い込まないで下さいね。話なら幾らでも私聞くっすから」
「ありがとう。では、またな」
別れを告げるとイングリットは敬礼しながら執務室を去って行った。再び椅子に凭れ掛かったレーヴィンは、憂いだ視線を窓の外へ向ける。
「……何が"命張ってでも助ける"、だ……。大馬鹿野郎……」
自嘲気味に笑みを浮かべながら、彼女は呟く。脳裏に刻まれた彼の人懐っこい笑顔が、涙によって消えることはなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<詰め所・屋上>
そうして迎えた夜の事。執政官からの呼び出しを経てヴィクトールの死の報せを受け取った雷蔵は、一人気を紛らわす為に酒瓶とグラスを手にトランテスタの市街が一望できる屋上へと足を運んでいる。彼自身もあの伊達男が死んだと聞かされた時、心の中ではヴィクトールが犯人であった事に確信を持ってしまっていた。自然と初対面の人間を飲みに誘い、その足でエルフ至上主義の事件に当たらせる。自身のアリバイを作りあげるのにはもってこいのもので、現に彼が死ぬまでヴィクトール自身が疑われることは全く無かった。レンガと石膏で固められた城壁の段差に瓶とコップを置き、雷蔵は武道袴の懐から黒い巾着袋を取り出す。紐解くと袋の中からは深紅の宝玉が姿を現し、それを包み込むように銀の装飾が散りばめられていた。
「……"隊長に渡してくれ"、か。お主も随分と罪な男よなぁ……ヴィクトール殿……」
この宝石は雷蔵が執政官との話を終えた後、置き書きと共に彼の部屋の机の置いてあったものだ。"炎はまだ消えていない。あとこれを隊長に渡してくれ"、という置き書きと共に。正直、雷蔵はまだヴィクトールが生きているものだと確信している。確かな証拠は無いがあの伊達男はひょっこりと姿を現しそうだと、何故か雷蔵はそう思った。グラスに酒を注ぎ、赤紫色の液体を一瞥すると雷蔵は縁を傾けて一気に飲み干す。
「済まぬ、ヴィクトール殿。拙者にはお主の飲み方は似合わんよ」
酒を飲み交わして共に笑い合った時が、まるで昔のことのように感じられた。それほどヴィクトールという存在は雷蔵自身にとって影響を与える人間だった。不敵な笑みを浮かべ、自分の胸の内を明かさない。ただ信用できると思った人物にだけ、正体を現す。あいつはそんな男だったと、雷蔵は懐かしむように酒を注いだ。
「……む。雷蔵殿か? 」
「その声は……レーヴ殿、か」
普段の絢爛な鎧や服装に身を包んだ彼女とは違い、今のレーヴィンは簡素な服ながらも何故か儚げに見える。風に揺れる金色の紙を抑えながら、雷蔵の隣に彼女は腰を下ろした。
「……ここに来る時は……いつも辛い事があった時に来るんだ」
「レーヴ殿……お主は、ヴィクトール殿を――」
言葉を言いかけようとしたところで、レーヴィンは彼の口元に細く長い指を立てることで雷蔵の言葉を遮る。
「――言わないでくれ。認めたら、その事実を認めてしまったら……私は……私は耐えられない」
「……済まぬ。過ぎた真似をした様だ」
「いいんだ。彼が裏切る理由は……少なからず私にあったのだろう。今はそれだけで……それだけで十分だ」
しばしの沈黙が二人の間に流れた。ふと手に握っていた赤い宝玉に気が付き、雷蔵は巾着袋と共に彼女の前に差し出す。
「……これは……」
「ヴィクトール殿が……拙者に託したものだ。お主に渡してほしい、そう書かれた紙と共に拙者の部屋に置いてあった」
途端にレーヴィンの瞳から大粒の涙が零れ始め、肩を震わせながら恐る恐るその宝石を手に取った。ネックレス状になっていた宝玉を握り締めるとレーヴィンは、苦し紛れに言葉を呟く。
「これを……まだ……持って……! 馬鹿……馬鹿野郎……! 」
二人にとって思い入れのある品だったのだろう、雷蔵は優し気に彼女の肩を叩くとその場から立ち上がる。
「……少し風に当たり過ぎた。酒瓶とグラスは残しておくぞ、レーヴ殿」
「あぁ……あぁ……! 」
泣く声を押し殺した様子が、彼女に背を向けた今でも手に取るように分かる。煌々と夜空に輝く星々を仰ぎながら雷蔵は、その場を後にした。
「つくづく……罪作りな男だよ、お主は」
そんな言葉が、虚空に舞った。




