第十六伝: 小休止
<詰め所・グラウンド>
先ほど長引いた戦いが嘘のように、勝負は一瞬で着いた。雷蔵とレーヴィンとの闘いを若い騎士たちの中に紛れて観戦していたシルヴィとヴィクトールは、口を噤んだままフィールドの中心部へと視線を向ける。
「あ、あれって……」
「――……」
普段から浮かべていた笑みはヴィクトールの表情から既に消え、彼は息を呑みながら勝敗を確認しようと群衆を掻き分けて行った。隊長が負けるなど有り得ない、と彼は胸の内に不安を抱きながら一番前で観戦できる場所まで歩み進める。隣にいたシルヴィには悪いが、正直な話今は其れ所ではなかった。嘗て自分を危機から救ってくれたあの頼もしい銀色の背中は、彼にとって忘れ難い記憶。それをいきなりやって来た流浪人の侍に壊されてしまうなど以ての外だ。
止めろ、止めてくれ――。
かつてないほどの焦燥感を背後から感じ、額に何粒もの脂汗が滲んでいる。
「あっ、ちょっと! ヴィクトールさん! 」
背後から彼の名を呼ぶ少女の声が聞こえるが、ヴィクトールはそれを一瞥してようやく最前列まで辿り着いた。彼の視線の先には闘技場の中心で互いに得物の刃を交えている雷蔵とレーヴィンの姿が在り、彼は眉を顰める。観客席側から見ても両者の勝敗は見分けが付きにくく、より一層ヴィクトールの不安を煽った。彼はすぐさま模擬戦の審判の下へ歩み寄り、騎士の肩を叩く。
「ふ、副隊長殿!? ここにいらっしゃっていたんですね……」
「これだけ騒ぎになってれば嫌でも気になるもんさぁ。んで、決着はどうなったの? 」
「それが……」
若い騎士の視線の先には、既に試合を終えて互いにお辞儀をし合う二人の姿が在った。雷蔵達は肩を組み合いながらフィールドから退場し、最前列にいたヴィクトールたちの姿に気づくとそのまま歩み寄ってくる。
「ヴィクトール殿、ここに居たか」
「よもや君まで見に来ていたとはな、ヴィクトール」
人形のような整った顔立ちが俯いた彼の顔を見ようを覗き込んできた。こんな情けねえ顔なんざ見せられねえや、とヴィクトールは胸の奥で発破を掛けながら対面したレーヴィンと視線を合わせる。
「その……勝敗はどうなったかなぁ、なんて。俺も男だ。あんな戦い見せられちゃ興奮するのが性ってもんですよ」
「――引き分け、で御座った。ヴィクトール殿」
「えっ? 」
胸を撫で下ろすような安堵感が彼の胸を駆け巡り、強張っていた顔の筋肉を緩めた。雷蔵の方も彼の緊迫した雰囲気を感じ取ったのか、彼に笑みを向けながらヴィクトールの肩を叩く。
――こいつ、分かってやがるな。胸の内で雷蔵へ毒づきながら、隣に立っているレーヴィンへと視線を傾けた。
「本当だよ、ヴィクトール。ほぼ同時にお互いの刃が身体に触れていた。あのまま勝負を続けられない事が心残りだが……雷蔵殿の肩がもう限界でな」
「っと、そうだった。あんた、怪我の方は平気なのかい? 」
ヴィクトールの問いに雷蔵は自身の左肩へと視線を落とし、少しだけ腕を動かそうと腕を伸ばす。すると腕を上げようとした時に神経痛が走ったのか、雷蔵は顔を引き攣らせた。
「いっ……⁉ 」
「ああほら、無理するから。今、シルヴィちゃん呼んでくるよ」
「……もうここにいますけど」
「どわぁっ⁉ 」
突然ヴィクトールの背後から顔を出すシルヴィは、ムッとした表情を浮かべながら雷蔵へと近づいていく。
「もう! 10分だけって言ったじゃないですか! なんですぐに無茶しちゃうんですか⁉ 雷蔵さんのアホ! 脳筋! 筋肉バカ! 」
「い、いやあすまんシルヴィ……。何というか、熱中し過ぎてしまって……」
「言い訳は聞きませんっ! レーヴィンさんもですよ! 怪我人相手だっていうのになんで全力を出して戦っちゃうんですか! 」
「も、申し訳ありま……ああ、いや! 申し訳ない! 私もつい夢中になっていたのだ! 」
並んだ二人に詰め寄るシルヴィを見やり、ヴィクトールは苦笑を浮かべる。雷蔵は彼が仕える主、レーヴィンと1対1の公正な勝負で引き分けとなった。イシュテン共和国を占める組合の騎士団長を務める彼女の実力は、共和国一と言っても過言ではないだろう。そのレーヴィンと相打ちまで試合を持ち越した雷蔵は、間違いなくヴィクトールよりも格上の実力を持っている。何をムキになっているんだ、と彼は先ほど湧き上がった感情を払拭した。いつもの不敵な笑みを浮かべながら、詰め寄られている二人へ視線を向ける。
「まあまあ、シルヴィちゃんも落ち着いて。武術を嗜んでいる以上、腕試しをしたくなるのはしょうがねえさ。な、そういう事だろ? 二人とも」
「う、うむ……そういう事だ」
「や、やはりヴィクターは分かっているようだな……」
「その程度で済まされる訳じゃ……ん? ヴィクター? 」
失言をシルヴィが汲み取ったと同時にレーヴィンの頬が瞬く間に紅潮させていく。再度沸き上がった感情を抑え、ヴィクトールは肩を竦めるだけであった。
「雷蔵を治療しなくていいのかい? 幸いおっさんが応急手当の道具持ってたからいいけどさぁ」
「あっ、そうでしたっ! ほら雷蔵さん、左肩出して! 」
「そ、そうは言っても動かすと痛くてのう……」
「問答無用! 我慢してください! 」
その場で無理やり地面に座らされ、ヴィクトールの手にしていた救急道具の入った小さな木箱がシルヴィによって一瞬でかっ攫われる。文句を垂れながら麻製の氷嚢に魔法で作り上げた氷を詰め、雷蔵の患部に当ててから包帯で袋を固定した。傷に触れるたびに雷蔵が目を何度も白黒に変化させている様子から、まだあの時受けたダメージも回復し切っていないのだろう。
「はい、出来ました。もう無茶しちゃダメですからね? 」
「む、むう……。少しは動かしても……」
「ダ・メ・で・す! 」
「そんなぁ……」
雷蔵に詰め寄るシルヴィの姿はまるで母親を彷彿とさせ、対する彼の方も怒られている子供のように落ち込んだ表情を見せる。ヴィクトールはそんな彼を慰めるかのように雷蔵の右肩を叩き、手を貸して地面から立ち上がらせた。
「おやおや、皆さんお揃いで。先ほどの雷蔵さんと騎士団長の模擬戦、素晴らしいものでしたよ」
「リュシアン執政官殿か。いらしてたのだな」
「私は執政室から見させて頂きました。少々団長の豹変っぷりに驚きましたがね」
「り、リュシアン殿! あれは本来の私ではなくて……その……一時の感情に乗せられてしまっただけであります! お忘れください! 」
再び頬を紅潮させながら弁解するレーヴィンに愛おしさを覚えつつ、ヴィクトールは突如としてやって来たリュシアンへと視線を向ける。
「あーその、執政官殿? その辺で勘弁してやってくれませんかね、隊長も反省してるみたいですし」
「ほっほっほ。そうですね。ですが非常に良い戦いぶりでしたよ、レーヴィン。今後ともその調子で騎士団を引っ張って頂きたい」
「はっ! 勿論であります、リュシアン殿! 」
「……調子良いんだから、ったく」
そんな事をぼやきつつヴィクトールは執政官へ向けて敬礼を行うレーヴィンを一瞥しながら、彼女と同じように右腕を胸の前に翳した。「では、私は残った執務があるのでこれで」と言い残しつつ後を去っていくリュシアンは中年男性にも関わらず人懐っこい笑顔を浮かべる。リヒトクライス騎士団の全隊員が最初に会得する敬礼のスタイルであり、目上の人物や王族、国家機関に属する人間に対してのものであった。その他にも同じ隊に属する同期の人間や部下に向けて簡易的な敬礼で済ますタイプのものも存在し、敬礼の種類だけで3通りに分かれている。ヴィクトールとレーヴィンは執政官がその場を立ち去るまで敬礼をし続け、姿が見えなくなったと同時に彼らは腕を元の位置に戻す。
「そういやフィルの坊主はどうしたんです? 確か、隊長と一緒に士官学校の見学に行ってたはずでしょう」
「彼は今校舎の方で入学の手続きを行っているよ。私も若い騎士たちとの模擬戦があったので別行動をとる事にしたのさ」
「じゃあフィル君を迎えに行ってからお昼ご飯なんてどうですか? 私もうお腹ペコペコで」
「見かけによらず良く飯を食うからな、シルヴィは。その内ぶくぶくと太って――」
雷蔵がそう言いかけた瞬間、シルヴィの鋭いつま先蹴りが彼の左脛に突き刺さる。左肩の痛みに加えて下半身からの鈍痛に苦悶の表情を浮かべた彼は、ヴィクトールに肩を借りながら士官学校へと向かう羽目になった。




