第十一伝: されど火は消えず
真っ暗で先が見えず、足元だけが照らされている空間に雷蔵はぼうっと立ち尽くしている。得も言われぬ孤独感と行き先の見えない恐怖感に苛まれながら、彼は恐る恐る一歩を踏み出した。一歩、また一歩と踏み出していく旅に白く照らされた足元からどす黒い瘴気が舞い上がり、そして雷蔵の両耳には金属を引っ掻いたような耳鳴り音が鳴り響く。そしてその音は次第に、人間の悲鳴や呻き声へと変貌していった。
――あの男を殺せ。殺せ。殺せ。
私を殺した男を地獄へ引きずり込め。あの浪人風情を生かしておくな。全てを奪った侍を斬り捨てろ。呻き声は徐々にはっきりとした恨み言へと変わり、苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべながら雷蔵はただひたすらに歩き続ける。やがて彼は背中に這い寄る寒気と純粋な殺気を感じ取り、逃げるようにして両脚に力を込めた。
恐怖、憤怒、悲哀、憎悪。
一つの巨大な岩のように負の感情の重圧が雷蔵の背中に圧し掛かり、走り続けていた彼も遂にその場で倒れてしまう。今にも押し潰されそうな息苦しさと朦朧とした意識の中で、雷蔵はわずかに残った力を振り絞って手を伸ばす。彼が手を伸ばした先には……藍色の着物を纏い儚げな表情を浮かべる女と、筋骨隆々の白い袴姿の男がいた。
「長政ァッ!! 藤香ッ!! 待ってくれ……ッ!! 頼む……ッ!! 」
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<寄宿舎>
「待ってくれェッ!! 」
「きゃぁっ!? 」
手を伸ばしたところで雷蔵は飛び起き、額に滲んだ汗の感覚を肌で感じながら目を見開く。全身に感じた柔らかい感触へ視線を落とすと白い絹製のシーツとベッドの上に彼は今居るようで、そこから白く筋肉質な両脚が伸びていた。再び視線を上げると雷蔵の左手は水色のブラウスを羽織った金髪の女性の右肩を掴んでおり、そして彼の右手は拳が作り上げられている。ハッと我に返り、急いで目の前の女性から手を放すと雷蔵はその場で正座し、ベッドに頭を下げて額を擦り付けた。
「……済まぬ! 拙者悪夢を見ていたとはいえ、女性を手に掛けるなど言語道断。今すぐ兵を呼び、この首を刎ねてもらっても構わぬ」
「いや、こちらこそ済まなかった……。何かに魘されているようだったからな、心配で見に来たのだ」
女性はブーツを履いていた両脚でベッドから立ち上がり、持ってきたのであろう白いマグカップを彼に手渡す。陶器の冷たい感触と中に入った水の冷気を感じ取った雷蔵はベッドの上でその液体を飲み干した。
「確か……レーヴィン殿、と申されたか。僭越ながら、拙者たちはどこに運ばれたか教えて頂きたい」
「レーヴでいい。ここはリヒトクライス騎士団の寄宿舎……貴公たちの怪我の治療と同時にここへ運んだ次第だ」
レーヴの言葉と同時に雷蔵は針の刺されたような痛みを左肩に感じ、彼は其方へ視線を傾ける。先のオーガとの闘いで左肩が脱臼していたのだろう、彼の肩部には氷の入った麻袋が包帯で固定されておりその下には接着剤を伴った布で圧迫されていた。長く気絶していたらしく、この部屋の窓から見える空は既に橙色に染まりかけている。
「……! シルヴィとフィルは!? 」
「安心したまえ、無事に治療して客室に寝かせている。部屋に空きがなかったので、貴公だけを私の部屋に運ばせたのさ」
雷蔵が今居座っているベッドには赤いレースの付いた金色の天窓が備え付けられており、一目で普段彼が使うものよりも遥かに価値が高い事が理解できた。立ち上がろうとするも「怪我人が無茶をするな」とレーヴに止められ、渋々雷蔵は柔らかいベッドの上に倒れ込む。
「……しかし、一人でオーガを相手取るなど中々出来る事ではない。しかも魔法の補助も無く純粋な剣術だけで傷を付けた……貴公、一体何者だ? ただならぬ気配なのは若輩者の私とて理解できる。だが……素性が一切見えんのが少しばかり気になるのだよ」
「悪運が強い、ただの浪人に過ぎんよ。訳在ってあの少女と少年を連れていたが、まさか魔物の群れに出くわすとは思わなかった。それで、拙者の刀はどこにある? 」
雷蔵の問いにレーヴは気まずそうに頬を掻き、その後彼女は部屋の奥へと消えていく。すぐに彼女は申し訳なさそうな表情を浮かべて雷蔵の愛刀である"紀州光片守長政"の黒い鞘を握って姿を再び現した。
「その……。非常に申し上げにくいのだが、貴公たちの持ち物を調べさせてもらった。トランテスタに入るには関所で荷物を見せなくてはいけなくてな、仕方なかった。済まない、許してほしい」
「何を言うか、拙者たちを助けてくれた事に加えてこのような豪勢な部屋まで貸して頂けるのに今更文句は言わんよ。それに拙者たちも丁度トランテスタを目指していたのだ、こちらとしても好都合さ」
レーヴィンから愛刀を受け取り雷蔵は彼女の表情へ目をやると、中世的で整った顔立ちが彼の持つ刀に集中している。おそらく剣を使うものとしての性なのだろう、今の彼女は熱い眼差しを雷蔵へと向けていた。
「……握ってみても構わんぞ? 」
「そっ、それは本当か!? 剣は騎士の誇りだが、本当にいいんだな!? 」
先ほどのクールな女騎士とは打って変わり、新しい玩具を手にした幼児のようにレーヴィンは蒼い双眸を輝かせる。彼女に気圧され一気に近づいて来た端正な顔立ちから距離を取りつつ雷蔵は頷くと、甲高く黄色い悲鳴を上げながら彼女は雷蔵の刀を手に取った。黒塗りの鞘から刀を抜き、銀色の光を反射する美しい刀身を目の当たりにすると彼女は感嘆の声を上げる。
「こ、これが雷蔵殿の刀……! なんとも逞しく、そして反り上がった美しい曲線を描いている刀身……! 素晴らしいッ! 」
「そ……そんなにか……? 」
「ここまでの代物は見たことが無いぞ、雷蔵殿! 良い逸物を持っているようだ……! あぁっ、堪らん! 今すぐ頬擦りしたくらいだ! 」
「止さぬか! 刀に余計な脂が付くであろう!? 」
銀の刀身に頬を擦りつけようとしたレーヴィンを止めようと、雷蔵が彼女の刀を握る手を止めようとした時だった。彼女の部屋の扉が大きな音を立てて開き、面していた廊下から顔を真っ赤に染め上げたシルヴィが怒りの表情を浮かべて入ってくる。
「ら、ら、雷蔵さん! あな、あなたという人は……っ!! …………あれ? 」
「……へ? 」
沈黙。雷蔵たちの会話をおそらく別の何かと勘違いしたのであろう、シルヴィは刀を取り合う二人を見て呆然とした表情を浮かべていた。三人の間に流れる重苦しい空気に耐え切れず、雷蔵は無理やり愛刀をレーヴィンの手から引き剥がしそのままベッドから立ち上がる。背後から「あぁっ……」という無念の声が聞こえるが、彼はそのままシルヴィの下へと向かい彼女の肩を叩いた。
「……まあ、そういう勘違いもある。気にするな」
「――――ッ!! 」
恥ずかしさで頬を紅潮させて声にならない悲鳴を上げるシルヴィを一瞥し、雷蔵はレーヴィンの部屋の扉を閉める。逃げるようにしてその場を立ち去った彼の耳には雷蔵の名を呼ぶシルヴィの声が聞こえた気がしたが、彼は敢えて聞かない素振りを見せた。
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<騎士団寄宿舎・中庭>
この寄宿舎の内部には寄宿舎で寝食を共にする騎士たちの為の広場があるらしく、雷蔵は単身その庭へと足を進めている。七色のステンドグラスの窓が彼の歩く廊下をより一層荘厳にし、灰色の石膏に刻まれた装飾の一つ一つが差し込んだ明かりを反射した。そして目の前にあった銅製のドアノブに手を掛け、外へと出ると彼の目には色鮮やかな花の数々を目にする。
「おぉ……これは……」
先ほど顔を出していた夕日は沈み、青と橙色の混じり合った空と程よい花の色合いが重なって幻想的な景色を作り出していた。昼間の暑さが嘘のように思えるほど夜風は涼しく、着ていた武道袴の裾が風に揺れるのを感じる。首から吊り下げられた三角巾に左腕を通し、怪我を負った肩に負担を掛けないよう雷蔵は中庭の真ん中に鎮座している鉄製のベンチへゆっくりと歩き出した。右腰に差した愛刀の柄に手を掛け、徐々に群青色へと変貌を遂げていく空を仰ぎながら微かに香る薔薇の匂いを堪能する。
「よっ……こらせっ」
愛刀を腰から鞘ごと引き抜き、雷蔵は硬い椅子に腰かけた。座った瞬間に肩に僅かばかりの痛みが走ったが、気に留めずに右手に握った刀を空いていたベンチに立て掛ける。先ほどの空気から解放された自由を感じたのか彼は深いため息を吐き、新鮮で冷えた空気を身体の中へ取り込んだ。前にも一度だけ、こうして怪我を負った時に一人でに夜空を見ていた気がする。そんなデジャヴを感じながら自嘲気味に笑みを浮かべ、そして雷蔵は見ていた夢を思い出し始めた。彼が夢の最後に見たあの女性は、確かに悲し気な表情を浮かべて地に伏す雷蔵を見つめていた。雷蔵自身にもその理由は分からないが、一つだけ確信している事が彼にはある。死んだ彼の親友であり雷蔵の愛刀を打った刀匠、志鶴長政は未だ雷蔵を恨み続けているという事。
「……俺を恨むのは道理よな、長政」
言葉を漏らし、雷蔵は背もたれに掛かりながら空を再び見上げた。ある意味自分が今、旅をしている理由は"現実から目を背けている"と言っても過言ではないだろう。そんな中、一人感傷に浸る雷蔵の隣に一人の男性が腰掛ける。全く気配を感じ取れなかった、と雷蔵は内心この男の存在を警戒しながら隣へ視線を向けた。
「ん、あぁ、悪いね。先客がいたなんておっさん知らなくてさ」
「……いや、此方こそ其方の安息場に踏み込んで申し訳ない。必要ならば出ていく」
「いいっていいって。一人より二人の方が話できるし気が休まるよ。女の子の方が良いけど、この際それ言っちゃあんたに失礼でしょ」
「既に言っているぞ、お主」
バレちゃった、と男性は笑い声を上げながら履いていたズボンの右ポケットを漁ると中から長方形の箱を取り出す。彼は箱を雷蔵の方へ向け、指先で底を叩くと箱の中から白い棒状の物体が目を出した。
「煙草、吸うかい? オルディネールの特産品さ」
「いや、結構。拙者に構わず吸ってくれ」
「そうか。んじゃあ、お言葉に甘えて」
白い紙で巻かれた煙草を咥え、男は自身の右手の人差し指を煙草の先端に近づける。直後指先から円錐状の火が姿を現し、煙草を燃やした独特の匂いが周囲に蔓延した。プロメセティアでも現代社会と同じように巻き煙草やパイプで吸う形のものが普及しており、イシュテン共和国の産業の一つとして煙草製造は数えられる。巻き煙草をヴァルスカで加工し、輸出される工程は共和国と帝国の強固なパイプラインとなっており両国間の貴重な架け橋となっていた。また、極上の嗜好品を求めてこの国まで旅をする人間もいるほどイシュテンの農業製品は性能が良く、主な貿易産業として成り立っている。
「ヴィクトール・パリシオだ。あんた、ついさっき隊長の部屋に運び込まれた旅人だろ? 隊長から話は聞いてる」
「ほう……。これは失敬、拙者は近衛雷蔵。お主たちの隊長殿には助けられた」
「そりゃあ鼻が高い。ああ見えて隊長は繊細だからねぇ、そう言ってもらえると有難いよ」
後頚部まで伸ばし切った茶髪を後ろで縛り、伸ばした茶色い顎髭をヴィクトールは左手で撫でる。咥えた煙草を右手の人差し指と中指の間に挟むと彼は白い煙を吐き出し、口を大きくあけながら欠伸を掻いた。
「お主は魔法使いなのか? 先ほど火を点けたときに指先から火を出したようだが……」
「あ、バレちゃった? まあ魔法使いは魔法使いでも、こんな風に生活にしか使えないものばかり会得してるだけのしがない副隊長だよ。中間管理職って中々しんどいもんでね、気苦労が絶えない」
「心中察する。まあ拙者も過去に雇われていた身故、気持ちは分からんでもない」
へへへ、と煙草を咥えたままヴィクトールは口角を吊り上げ人懐っこい笑みを雷蔵へ向ける。その時雷蔵の腹が音を立ててかれに空腹を告げ、苦笑いを浮かべながら彼は後頭部を掻いた。
「そうか、あんたここに来てから何も食ってないんだったな。ついて来なよ、トランテスタの案内がてら旨い飯屋に連れてってやる」
「かたじけない。できれば片手でも食べれるものが良いな……」
「はっはっは、気にしさなんな。何なら俺が食べさせてやろうか? 」
悪戯な笑みを浮かべたヴィクトールに対して雷蔵は笑みを浮かべつつベンチから立ち上がり、立て掛けていた刀を腰に差す。雷蔵に釣られるように彼も吸い切った煙草の先端を地面に押し当てて火を消し、中庭のごみ箱へと投げ捨てた。
「……はて。しかし、先ほど感じた殺気は一体……」
「ん? なんか言ったか、雷蔵さんよ」
「……いんや。何でもない、ともかく向かおう」
雷蔵は確かに生まれた胸の違和感を忘れ、先に歩き始めていたヴィクトールの下へと歩み寄る。彼は知る由もないだろう、騎士団を包み込む大きな波乱に巻き込まれる事など。




