第百六伝: 剛拳一強、その意思は鋼の如く
<ロイの研究所・中庭>
「始めようぜェッ、最初で最後の大喧嘩だァッ!! 」
対峙したラーズとエルを迎えるかのように、マティアスは赤い眼を光らせながら両腕を広げる。
愛用の籠手を嵌めた右手の一つ一つの指に力を込め、拳を握り込んだ。
「ラーズ! 」
「分かってらぁっ! 」
一言だけ言葉を交わし、地面が抉れるほどに両足に力を込めるとその勢いのまま一直線へ向かって行く。
横殴りに振るわれた大剣を防ぐ為に左腕を顔の前に構えたまま、ラーズは右腕をマティアスの鼻柱目掛けて突き出した。
左腕に走る特大の衝撃と殺気を感じ取るも、彼の意思が折れる事はない。
「だらァッ!! 」
ラーズの籠手は確かにマティアスの顔面を捉える。
直撃すれば意識を削ぐ一撃に成り兼ねない威力。
しかし、マティアスは彼の拳を受けても尚笑みを浮かべていた。
一瞬、ラーズの目が見開かれる。
右手に感じた肉の感触は確かなものだ。
その驚きが、大きな隙を晒す原因となる。
「効かねぇなァ!! ほうら、次はこっちから行くぞ? 」
「……敵は、俺一人だけじゃねぇっ! 」
反撃の機会を与えても尚、ラーズは反抗の炎を灯したまま口を開いた。
瞬間、マティアスの背後に走る殺気。
ラーズの陰に隠れ、既に距離を詰めていたエルが魔法によって硬質化した杖を振り上げている。
「……捉えた! 」
「甘いッ」
マティアスの右手にあった大剣がラーズの左腕から離れ、彼女の身体を両断する勢いで振るわれた。
即座に防御魔法を展開し、致命傷は避けるもエルは衝撃を殺し切れずに右方へ吹っ飛ばされる。
呆気に取られていたラーズを叩き起こすかのようにマティアスは空いた左手で彼の頭を掴み、後方へ投げ飛ばした。
「うあぁっ!? 」
「くっ……! なんて力……!? 」
幸いあまりダメージを受けていないが、二人同時の攻撃も易々と往なされてしまう。
その強大さを肌身で感じながらもラーズとエルは再び立ち上がった。
「エル! 」
「もうやってる! 」
マティアスの後方にいるエルへ視線を一度だけ向け直した後、ラーズは深く息を吐く。
エルの詠唱が始まったと同時に白い光が彼の両腕に集まり、巨大な拳を形作った。
「増幅せよ・戦士の籠手ッ!! 」
「こいつは――! 」
左脚を前方に突き出し、身を屈めながら魔法の力が結集した拳をマティアス目掛けて振りかざす。
「――どう、だァッ!! 」
その光景を目の当たりにしながらも彼は防御の姿勢すら取らず、全身で受け止めた。
右腕に走る鋼鉄のような固い感触。
得体のしれない感触を感じながらもラーズは振り抜き、マティアスの全身を大きく吹っ飛ばした。
研究所の外壁に叩き付けられた轟音と振動が周囲に響き渡り、辺りを砂埃が覆う。
だが。
前方の砂埃は突風によって掻き消され、その中からマティアスが驚異的なスピードを伴ってラーズへと突っ込んでくる。
相も変わらず、彼の身体には傷一つついていない。
「いいパンチするようになったじゃねえか、馬鹿息子っ!! 」
「何っ!? 」
一度だけ手にしていた大剣を背中に戻した後、マティアスは勢いを殺さずに右腕を突き出す。
本能的に危険を感じたラーズは両腕で顔面を覆うも、その防御の壁を打ち壊しながら彼の左頬に一撃を加えた。
一瞬で気が遠退くほどの威力。
消えかかっていた意識を戻すかのように頭を左右に振り、次の攻撃に備える。
「させないっ! 」
すかさず距離を詰め直していたエルが、ラーズの前に飛び出た。
「甘ぇなぁ、エルちゃんよォッ!! 」
「!? 」
魔法の障壁など取るに足らない。
そんな事を言わんばかりの重圧と衝撃がエルの全身に走り、やがて彼女の展開した防御魔法を突き破る。
先ほどのものより遥かに硬度の高い魔法を、マティアスはいとも容易く打ち砕いてみせた。
そして、彼女の腹部に直撃する一撃。
鉄塊を丸ごと受けたエルの腹部を、易々と捉える。
「がァッ……」
彼女の脳裏は途端に真っ白になり、痛みと嘔吐感が彼女を襲う。
エルフの身体でオーク族の一撃を受け切れる事自体奇跡のようなもので、彼女は地面に叩き付けられた。
「エルッ!! 」
「大、丈夫……! 足を引っ張る訳には、いかない……! 」
分け目も振らずにラーズは倒れ込んだエルの下へと駆け寄る。
吐いてはいないものの、呼吸は激しかった。
ゆっくりと背後からマティアスが寄ってくるのを感じ、ラーズは彼女を守るように立ち上がる。
「よく耐えるじゃねえか。普通なら食らって気絶するんだがな」
「親父……! 」
「お前らは俺を倒す為にここに残ったんだ。本気で来ねえと死ぬぞ」
冷淡にそう言い放つマティアスを横目に、エルが立ち上がった。
「甘い考えは捨てて、ラーズ……! 私も負けない、から……! 」
彼女の言葉を嚙み締め、ラーズは今一度拳を握り直す。
かつて自分の師だった父親。
かつて、等身大の愛情を注いでくれた親と対峙している。
それでも乗り越えなければならない。
彼の背中には守るべき者たちがいる。
父親の向こう側には、苦楽を共にした仲間たちが居る。
今一度、ラーズは一歩前へ踏み込んだ。
もう迷いはない。
目の前の敵を打ち倒す事に。
彼の拳は再度マティアスの左頬を捉える。
銀色の籠手は彼の黄緑色の肌を打ち抜き、マティアスの身体を後方へ押し出した。
「そうこなくっちゃなァッ!! 」
水を得た魚のように、口から血を吐きながらもラーズへと向かってくるマティアス。
振り下ろされた彼の拳を肉薄しつつ、体の勢いに任せたアッパーカットを食らわせる。
「まだまだァッ!! 」
腕を振り上げた体勢から左肩を突き出し、タックルの要領でマティアスに追撃した。
それでも彼の身体は地面に倒れる事は無く、より一層凶悪な笑みを浮かべている。
「跳べ、凍てつく氷槍ッ! 」
「ぬぉっ!? 」
先ほどの強烈な一撃から復活したエルが、ラーズの後方で氷魔法を詠唱した。
展開した魔法陣からミサイルのように幾つもの氷柱が勢いよく撃ち出され、マティアスの下へ殺到する。
「こんなもん――」
「うおぉぉぉぉぉぉッ!!! 」
氷柱を防ぎ切って隙を晒したマティアスへ一目散に駆け、ラーズは右脚を軸にして風を伴った回し蹴りを浴びせた。
その一撃を防がれたものの、防御の体勢をとった彼へ向けて軸足を向ける。
「ッ!? 」
「食らいやがれェッ!! 」
ドロップキックの要領で跳び蹴りを放ち、彼の足裏に確かな肉の感触が走った。
マティアスの身体が地面に転がる。
それでも油断せずにラーズは立ち上がり、拳を構え直した。
「へへへっ……! 」
「来い、親父ッ!! 俺はもう迷わねえッ! 本気で来いッ!! 」
瞬間、口から血を流すマティアスの口角が凶悪に吊り上がる。
人工魔獣の本来の力だろうか、彼の全身から邪気が溢れ出た。
大剣を肩に担ぎ、笑みを浮かべるその姿は嘗ての英雄の面影すらない。
「良く言ったァッ、馬鹿息子ォッ!! 死んでも文句言うんじゃねえぞォッ!! 」
その邪気を纏ったまま、マティアスは正面に突っ込んでくる。
縦一文字に振り翳した大剣を受け止め、ラーズの全身に震えるほどの衝撃と重圧が走った。
これが、英雄と謳われた男の剣か。
そんな事を思いながらラーズは刃を弾き返し、拳を叩き込む。
その時だった。
物理的なものではなく奇怪な力でラーズの身体は後方へ吹っ飛ばされる。
宙に舞いつつも彼はマティアスから視線を離さず、歯を食いしばった。
「なっ……!? 」
「ラーズ! 」
ダメージを受けた彼を治療しようと、すかさずエルが駆け寄る。
彼女の両手から顕現する優し気な緑色の光が彼の傷を塞ぐが、正面のマティアスからは視線を離さない。
「違和感を感じたか? 」
「なっ――」
瞬時にマティアスは二人の下へ姿を現す。
今までの戦いを、まるで手加減していたかのように。
殺気を伴った大剣の斬撃が、二人を覆う。
あの時確かにラーズが感じたのは、何かに弾かれる抵抗力。
このままでは間に合わない。
エルを守るかのようにラーズは彼女の身体を押しのけ、前へ飛び出した。
思わず目を瞑る。
真っ暗になった彼の脳裏に、婚約者であるゼルマの姿が浮かんだ。
(すまねえ、ゼルマ。俺――――)
全身に走るであろう痛みに、耐えようとしたその時だった。
ラーズの眼前から鋼のぶつかり合う音が聞こえ、強制的に彼の身体はエルの下へ押し戻される。
ゆっくりと目を開けるラーズの視界には。
確かに、かつて拳を交えた兄の姿とエルフの姿があった。
「…………ったく。いつになっても手の掛かる弟だ」
「前にも言ったでしょ? それくらいが可愛いってねぇ」




