第百二伝: 久遠の記憶
<ヴィダーハ平原・千年国争跡地>
一方その頃。
来るべき最終決戦に備え、一組の男女がその荒れ果てた平原を見据えている。
両者とも長く黒い髪を荒野の風に靡かせながら、男の方――志鶴長政は短くため息を吐いた。
「何とも殺風景なものだね。そうは思わないかい、藤香」
「……はい、長政様」
彼の隣に立つ着物姿の淑女、志鶴藤香はゆっくりと頷く。
切り揃えた前髪が風に揺れる光景を一瞥すると、長政は前方の荒野へと視線を戻した。
「長政様がそんな事を言うだなんて、珍しいですね」
「? どういう意味だい、藤香? 」
「今まで生を共にして来て、景色に物を申すなんて久しぶりの事でしたから。あの時は確か、お国から休暇を頂いて温泉宿に泊まりに行った時でしょうか」
「はは、そんな事もあったね」
生前の事を懐かしむかのように、長政は隣の藤香に笑みを向ける。
状況や景観が悪いものではないのなら、二人は仲睦まじい夫婦に映ったであろう。
しかし、二人の肌は生身の人間から感じられる生気を一切感じない。
正しく死人のもの、と言った所だろうか。
志鶴長政とその妻、藤香。
彼らは生前の生まれ故郷である和之生国にて無実の罪を着せられ、その首を文字通り斬られた死人である。
「……決戦まではどのくらいある? 」
「おおよそ半月でございます。ロイ殿が申された通り、ここに人間たちは来るでしょう」
「雷蔵、それに椛もか……」
再び、曇天を仰ぐ。
不思議なのは、彼がこうして死人として甦らされても生身の人間と変わりない感情を持っている事であった。
二人は人類種の敵として宣戦布告を行なった、ロイ・レーベンバンクによって生き返らされた存在。
不死の実験体としてこの地に生を受けた二人は、彼の実験のプロトタイプとして扱われるようになった。
「……あぁ、何て運命は皮肉なんでしょう。雷蔵、それに椛までも私達に刃を向けるのですね……」
「それでも戦うしかない。俺達が彼らに出来る事は、立ちはだかる事だけなんだ」
その時、藤香の着物を纏った細い手が彼の目尻に伸びる。
薄紫色の袖が長政の目尻を拭い、藤の花の香りが鼻孔を刺激した。
「何か……心に障る事でも? 」
「すまない。自分でも良く分からないんだ。今もどうして涙が出るのか……」
「長政様……」
彼の身体は藤香に優しく抱きしめられる。
身に纏っていた藍色の羽織りに艶やかな黒髪が埋もれ、温かみのない身体が寄り掛かる感触を覚えた。
「申し訳ありません。私、長政様を御慰めするにはこれしか思い浮かばなくて……」
「いいんだ。ありがとう、藤香」
白い肌の頬を一瞥し、長政は笑みを胸の中の藤香に向ける。
彼も同じように彼女の腰に手を回すと、優しく抱きしめ返した。
「……君にはいつも面倒ばかり掛ける。ダメな夫だな、俺は。死しても尚、俺は未だに恩を君に返せてはいない」
「いいんです。今はこうして、また長政様とお会い出来たのですから。ただそれだけで……それだけで十分です」
藤香は長政の処刑の後に殺されている。
即ち、彼女も長政の死に様を目にしているのだ。
その悲しみに比べたら、と言わんばかりに藤香は彼の胸に顔を埋める。
人工魔獣という人ならざるモノと化しても、彼の匂いは変わらなかった。
「……そうか」
胸から彼女の身体を引き離し、長政はそっと藤香の両肩に手を置く。
彼女の美しい赤色の両目を見つめながら、彼は自身の顔を近づけた。
触れ合う唇と唇。
それでも、体温は感じない。
「せ、接吻だなんていつ振りでしたでしょう? 私、顔赤くなってませんか? 」
「はは、もう真っ赤だよ。いつでも君は愛らしいなぁ」
「じょ、冗談はお止しになってください! もう……」
両目を覆いながら照れ臭そうにそっぽを向く彼女に思わず笑いが零れるが、そんな二人の空間に割って入ってくる大男が一人。
背中に大剣を背負った黄緑色の肌を持つオークの男だ。
「……すみませんね、マティアスさん。気を遣わせたみたいで」
「……! 」
「あぁ、いいんだ。俺も夫婦の団欒の中に入っちまうなんて無粋な真似しちまって悪いな」
オーク族の歴史に語り継がれる大英雄、マティアス・バルツァー。
彼も二人と同じように埋葬されていた死体をロイによって掘り起こされ、人工魔獣に改造されたうちの一人である。
今まで一族の誇りと伝統を守ってきた男が今度は人類に牙を剥く。
彼も皮肉な運命に踊らされた内の一人と言っても過言ではない。
「……それで、何か言伝でもおありなのでしょうか。マティアス様? 」
「いいや、特には。共に戦う事になるんだから挨拶とか情報交換でもしておこうと思っただけさ。もし気を悪くしたんなら席を外すよ」
「左様でしたか。折角のお気遣いを無下にしてしまった様で、申し訳ございません」
「あぁ、本当にいいんだ。そんなに気を遣わなくたっていい」
これから決戦に臨むという事を感じさせない程、マティアスの表情は少年のように朗らかだった。
藤香も彼の陽気さを感じ取ったのか、固まった表情を段々と和らげていく。
「それで、情報交換って? 」
「お前たちが生前どんな事をしていたのか、ちぃとばかし気になってな。立ち話もなんだ、其処に座って酒でも呷ろう」
マティアスに言われるがまま二人はすぐ傍にあった大木に腰を落ち着け、対する彼は地面に胡坐をかいた。
何処からともなく取り出した酒瓶と三つのグラスを3人の間に置き、マティアスは褐色の液体を注いでいく。
「んじゃ、三人の出会いに。乾杯」
グラスの縁を互いに合わせた後、長政は液体を喉に注ぎ込んだ。
藤香は口に含んだ瞬間目を見開き、液体を残す。
「ず、随分と強いお酒なのですね……。味覚が残っているとは思いませんでしたが」
「おっと、奥さんの方はあまり飲まない人だったか。悪い悪い」
「い、いえ。お気遣いなく」
対するマティアスと長政は軽々と酒を飲み干し、グラスを地面に置いた。
「いい酒だ。これは何処で? 」
「へへ、あの研究者の兄ちゃんの部屋からちょっぴりかっぱらってきたんだ」
「はは、案外手癖が悪いんだね」
「まあ。いけませんよマティアス様、人様の物を盗るだなんて」
「この酒の分は、俺の働きで返すって事さ。まあいい、それよりも始めようじゃないか。互いがどのように生き、そして死んでいったのか。聞かせちゃくれねえか、お二方」
彼の質問に憂い気な視線を浮かべながら長政は深い溜息を吐く。
長政の様子を心配するかのように隣の藤香は彼の横顔を見つめていた。
「まあ、お察しの通り俺たちは生前夫婦だった。和之生国で生まれ、そのままずっと平和に暮らしていたよ。俺は刀鍛冶でね、自分で言うのも何だが評判も良かったんだ」
「そうか、お前さんあの長政か! 噂にゃ聞いてるよ、確かプロメセティア名刀工録に載ったってな。名刀工録にゃオークの鍛冶屋が大半だが、あんたが人間で初めて記録を残したって有名だ」
「お褒めに預かり光栄だよ。だがね、そんな日々も続きはしなかった。当時和之生国では外国との関わりを禁じる閉国制度を採っていて、俺達は一人違法の海外取引で私腹を肥やそうとした役人に無実の罪を着せられたんだ」
次第に神妙な顔つきになっていくマティアスとは反面、長政は平然としたまま淡々と言葉を連ねていく。
「当時、俺には親友がいた。ロイの放送にも名前が挙がっていた近衛雷蔵という奴でね、彼はあの国で処刑人を務めていた。結果俺は彼に直接手を下され、藤香も後を追う形になったんだ」
「……それで今に至る、そういう訳か。お前は、その雷蔵と言う奴を恨んではいるか? 」
核心を突かれたかのように、長政の目は見開かれた。
恨んでいる訳ではない。
その怨念は筋違いである事は理解していたし、事実長政は自身の死には納得していた。
せめて盟友の手で死ねたのだから自分は幸せ者だ、と彼は思っていた。
「恨んではいないよ、これっぽちもね。藤香はどう思っているかは分からないけど……」
「私も同じ気持ちです。雷蔵はただ、己の職務に従っただけ。責める理由などありません。私達の命を糧にして、今まで生きていた事に安堵さえ覚えました」
「……そうか」
顎から伸びた白いひげを撫でつつ、マティアスは二人の返答をただ嚙み締めている。
「なんだか悪い事を聞いてしまって済まなかった、許してくれ。詫びと言っちゃあなんだが、この老いぼれからの助言だ。お前さんたちが彼を、雷蔵を恨んでいないのなら全力で相手をしてやれ。おそらくそいつは、今もなおお前たちを手に掛けた事を悔いている筈だ」
「どうして分かるんだ? 」
「俺も同じ経験をした。魔物との闘いで傷ついた仲間を、何人も手に掛けてきたからな」
「……痛み入るよ、ありがとう」
目を伏せながら長政は頷き、そして笑みを再びマティアスに向けた。
流石はオーク族の大英雄、と言った所だろうか。
そんな事を思っていると、隣の藤香が口を開く。
「マティアス様はどういった人生を歩まれてきたのですか? オーク族の大英雄と聞いております、さぞ素晴らしいものでしょう」
「いいや、英雄と呼ばれたのは俺が死ぬ直前の事さ。それもあっけない死だったよ。遊びに出ていた息子とその幼馴染を守って死んだ。英雄と呼ばれるわりにゃ、随分と呆気ない死に様だろう? 」
「そんな事はありません。お子さん達を守りながら、というのは立派な親の証拠です」
彼女の口からとめどなく発せられる賛辞の言葉に、マティアスは照れ臭そうに頭を掻いた。
「だが、運命っつうのはつくづく残酷なもんだな。今度は命張って守った息子たちと戦おうってんだからよ」
「……ラーセナル・バルツァー、かい? 貴方の息子さんは」
マティアスはその名前を懐かしむかのように頷く。
「あぁ。オーク族は代々父親が息子や娘に武術を教える風習があるんだが、あいつはからっきしでな。いつも鼻水垂らして、泣きながら鍛錬していた。それがどうだ? あの研究者にまで名前を呼ばれる程の腕になってやがる。へへっ、会うのが楽しみでしょうがねえや」
「戦うのが嫌だとは思わないのか? 」
「思わない。俺と言う壁を乗り越えて、初めてあいつは真の強さを手に入れられる。俺を目の前にして屈するんなら、その程度の男だったって訳だ」
「……ふふっ、何とも父親らしいですね」
ニカッとした笑みを藤香に向けながら、マティアスは持ってきた酒瓶とグラスを懐に仕舞った。
彼は立ち上がると、二人の奥の方へ視線を向ける。
「どうかされたのですか? 」
「……いいや、何でもねえ。それじゃあ俺はお暇するぜ。話せてよかった、また酒でも飲もう」
そう言いながらマティアスはゆっくりと歩みを進め、二人の下を後にした。
平原の高台から降りた彼は荒野の土を踏み締めながら、虚空に問いかける。
「盗み聞きとは感心しないねぇ、騎士さんよ」
「……気づいていたか。流石、大英雄と言った所だな」
瞬間、鈍色の甲冑に身を包んだ金髪の男が姿を現す。
ハインツ・デビュラール。
大樹の大戦で命を落とした、護国の騎士と称される男だ。
マティアスと同時期に人工魔獣にされて以来、彼とも何度か酒を飲み交わしていた。
「なんでぇ、お前さんも話の輪に混ざりたかったのか? 見かけによらず肝っ玉が小せえんだな」
「冗談は止せ、柄じゃない。……それに私には、過去の話を語る資格などないさ」
ハインツの表情は何処か重く、憂い気な視線で曇天を仰ぐ。
「そうか。だがこれだけは言っておくぞ、ハインツ。騎士としてお前が戦えるのは、あの決戦でしかない。その後に待ち受けるのは死だ。勝っても負けても、俺達は死ぬ」
「なら何故貴様は剣を振るう? 守っていた大切なものに手を掛ける事になるんだぞ? 」
「拳を交わさなきゃ分からねえこともある。お前さんがそれは一番理解してることだと思うんだがな」
「…………」
彼の脳裏に浮かぶのは、一人の憧れの騎士の姿だった。
レーヴィン・ハートラント。
かつて憧れた騎士に剣を向け、反旗を翻し、そして敗れた。
「何の因果か知らねえが、今もこうして俺たちは生きている。……伝えたい事があるんなら、言っときな」
そう言い残し、マティアスはハインツに別れを告げる。
単身荒野の丘に残されたハインツは、自嘲気味に首を振った。
「……今更言って、何になる……」
そんな言葉が、聞こえた気がした。




