タイムマシン
「タイムマシン」
しん、と静まり返った病院の待合室で中崎はマスクをして小さく咳をした。その振動で張り裂けそうな、ピキキッ、とした空気が広がっている。ところどころで小さな話し声と足音が聞こえてきて、病院独特の緊張感を際立たせている。
中崎は、ふたたび、わざと咳を吐き出す。二、三回出すと、むせたのか本当の咳が出てきて、マスクを膨らませた。こもった声が待合室に響いて、あちこちで同じような音が聞こえてきた。
待合室の真ん中にある大きな円柱を囲むように置かれたベンチに中崎は腰掛ける。視線を落とし、目を閉じる。無機質な音と香りが漂っていた。まぶたの裏では休んだ会社の光景がよぎる。自分が休んだくらいではなにも変わらない光景が。
体調が悪いのは事実だが、会社を休むほどではないし、別に病院に来なくたっていい。中崎はそう思いながら、会社に電話をし、病院に来た。普段はまったく休みを取ることはないし、遅刻もしない。それでも、なぜか、中崎は会社に行きたくなかった。昨日までは普通だったのに、朝起きてからからだと頭の奥がずっとけだるい。何度かベッドから起き上がり、顔を洗い、歯磨きをし、スーツに着替える。それでも会社に行く気はまったく起こらなかった。今日中に出さなくてはならない書類はないし、出なくてはならない会議もない。そう思うと中崎はスーツから寝間着に着替え直し、沈んだような声で会社に電話をした。電話の向こうは静かで、電話に出た上司は、わかった、とだけ言って電話を切った。目を閉じた中崎のまぶたの裏には、やっぱりいつもと変わらない光景が浮かび上がった。
すると無機質な香りにまぎれて、甘くてどこか懐かしい香りが混ざって漂ってきた。中崎は目を開け、頭を上げる。そこにはマスクをしたショートカットの女性が座っていた。女性は中崎を、じっ、と見つめる。中崎は視線を感じながら、目が合うとすぐに逸らす。逸らしたあとも視線を感じながら、うつむいて目を閉じた。
「風邪、ですか?」
女性はマスクごしに、少しこもった小さな声で中崎に訊く。
「……はい」
中崎は返事と一緒にわざと咳を出し、女性の顔を見る。顔が半分隠れるような大きなマスクをしていてすっぴんだけど、間違いなく、美人だ。女性は中崎が見ているあいだも視線を逸らすことはない。
「そうですか。……わたし、もうすぐ、死ぬんです…」
女性は目を逸らさず中崎を見つめる。薄い眉毛は少しも動かない。
「えっ?……死ぬんですか?」
中崎は突然の告白に頭がついていかない。死がいつもよりも身近に感じられる病院の中でさえ、なにを思い、なにを言い、なにをすれば良いのか、なにもわからない。
「はい。だから、突然で申し訳ないんですが、これから少し付き合ってくれませんか?」
女性は身を乗り出し、中崎に言う。甘い香りが濃くなっても中崎の頭の中はなにも整理されない。
「だからって……。今からですか?」
「はい。時間ないですか?」
「いや、時間なら大丈夫ですけど……」
「診察は終わりました?」
「いや、まだです」
「じゃあ、終わってから良いですか?」
「……はい」
女性はベンチから立ち上がり、軽く頭を下げてから病院の出口のほうへと歩いて行って、消えた。中崎はずっと背中を追っていたが、女性は一度も振り返ることはなかった。中崎のけだるい頭の奥がさらに濁りはじめ、中崎は頭を抱えて両膝につける。小さな話し声と足音が相変わらず鳴り響き、まぶたの裏にはマスクをした女性が浮かび上がった。あの女性は誰なのか、なぜ一緒に行くことを承諾したのか、中崎は自分でもさっぱりわからなかった。ただ、会社には行きたくないが、家にいる気分でもない。会社の近くを出歩かなければ、ばれることもないだろう。それに美人だし。わからないのではなく、気づかないふりをしているだけかもしれない。中崎はその部分に触れないように、診察を受け終わると、またベンチに戻って座った。
「お待たせしました」
女性は見計らったように、中崎がベンチに座ってすぐに戻ってきた。
「いや、こちらこそ」
中崎はマスクの奥から、女性以外に聞こえないような小さな声で言った。
「じゃあ、行きましょうか」
女性がそう言うと、中崎はベンチから立ち上がる。
「どこに行くんですか?」
中崎が尋ねると、女性もマスクの奥から小さな声で町の名前を言った。中崎は思わず、えっ、と声に出す。その町の名は、中崎がむかし住んでいたところと同じだった。
「どうかしました?」
女性は中崎の顔を覗き込む。並んで立つと、思ったよりも女性の身長は低かった。
「……いえ、別に」
嘘をつくつもりはなかったけれど、中崎は昔住んでいた町だということを、隠した。深い意味はまったくなかった。言うきっかけを逃しただけ。別に言っても良かったけれど、中崎はそのまま会話を続けた。
「あの、お名前訊いてもよろしいですか?ぼくは、中崎、といいます」
「わたしは……澤村、と言います」
澤村は、一瞬目を逸らし、すぐに視線を合わせて微笑む。顔半分を隠したマスクを通してでも、やっぱり美人だった。
ふたりは病院を出ると駅へと向かった。高くそびえるビルのあいだから、冷たくて強い風が何度も吹きつける。ふたりは並んで肩をすくめ、駅の中へと入って行く。
「今日は一段と寒いですね」
中崎は赤くなった耳をさする。
「そうですね。体調は大丈夫ですか?」
澤村は中崎を覗き込む。それでなくても美人なのに、この角度だとなおさらだ。中崎はそう思うと、偽物の咳を二回吐き出した。
「ええ、もうすっかり。ちゃんと先生に診てもらいましたから」
「そんなにすぐ治らないですよ。咳もしたし」
澤村は目を細めて薄い眉毛を曲げる。
「病は気から、って言うじゃないですか。もう大丈夫ですよ」
中崎はそう言うと、もう一度偽物の咳をした。
「ありがとうございます」
澤村は頭を軽く下げる。中崎も、いえいえ、と言って頭を下げる。ふたりは同時に頭を上げると、目を合わせて笑いあった。そのまま階段を降りて、地下鉄の乗り場へと向かう。人ごみの中、澤村のあとを中崎は追って行く。このあたりは会社の人もよく使う駅で、休んだのに女性と歩いているところを見られたら上司や同僚になんて言われるかわからない。中崎はマスクを鼻の頭までしっかりと覆うようにずらす。通勤ラッシュはとっくに終わっている時間なのに、総合駅だからかやたらと人が多い。目だけを動かしまわりを見渡す。人が多すぎて、仮に会社の人がいたとしてもわからない。中崎は視線を澤村の背中に戻して、あとを追う。澤村は黄色い財布を取り出し、ふたりぶんの切符を買う。
「いくらですか?」
「わたしが誘ったんでいいですよ」
澤村はそう言うと切符を中崎に渡す。中崎が切符を受け取るとき軽く手が触れた。冷たく、小さく震えているようだった。澤村はすぐに振り返り、改札口へと向かう。中崎は顔を上げて路線図を見る。昔住んでいた町の名前が、今から向かう駅の名前が、路線図の端っこのほうに載っている。
ホームに着くと、それほど人はいなかった。なんの音かわからないが、定期的に聞こえる機械的な音が響き、時折冷たい風がからだを覆い、鼻の奥に当たるような匂いがする。最近地下鉄に乗っていないせいか、中崎はどれもが少し懐かしかった。鼻の奥が少しかゆくなってきたころ電車がやってきた。ドアが開いて中に入るとあったかい。ところどころに人が座っている程度の乗客で、ふたりは七人掛けの椅子の端っこに並んで座った。
「中はあったかいですね」
中崎がそう言うと、沢崎は小さく笑って頷いた。電車はゆっくりと動きはじめる。ホームを置き去りにすると、窓ガラスにふたりが映る。マスクをしたふたりが並んで座っている。傍から見ればどこにでもいるカップルに見えそうだ。中崎はそう思うと、横目で澤村を見て、また窓ガラスを見る。さっき出会ったばかりだとは、自分たち以外は誰も知らない。足元の暖気が頭の先まで覆われるような気がした。
ふたりは特に会話らしい会話をしないまま、いくつもの駅が過ぎて行った。中崎は窓に映るふたりを何度も見る。すぐ隣にいるのに、甘い香りはすぐに届いてくるのに、会話がないせいか、どこにでもいるカップルどころか、他人のように思える。実際は他人なのだが、中崎はそれを受け入れることができずに、たまに澤村に話しかける。
「今からいくところにはなにか思い入れがあるんですか?」
「いえ、特には……」
「じゃあ、なんで?」
「……なんとなく、行きたいなって」
澤村の答えはどれも曖昧だ。聞かれたくないのか、もうすぐ死んでしまうからなのか、中崎の答えも曖昧で、なにも見つからない。ただここまで来たのだから澤村に付き合おう。中崎は自分に言い聞かせ、思い出したように咳をした。
電車はどんどん進む。何人も人が降り、乗ってくる。乗った時と比べて少し人が増えた。ふたりは電車の揺れにからだをゆだねる。駅に停まるたび、ドアが開くたび、地下鉄の匂いが電車の中に紛れ込んでくる。何度かそれを繰り返すと、今度はドアがしばらく閉まらずに開いたままになった。この駅を出ると地下から地上へと切り替わるためだ。ふたりともそのことを知っているからか、なにも疑問に思わず、無言で地下鉄の匂いに包まれていった。
電車がふたたび動き出し、しばらくすると窓に映るふたりが消えていった。代わりに青く広がる空とやわらかい陽射しが浮かび上がった。中崎は目を細めて窓の外を見る。懐かしいというより見覚えのある景色が広がっている。背もたれから背中を離して中崎は景色の外を覗き込み、澤村はなにも変えることなく視線を窓のほうへ向けていた。電車が進むにつれ、中崎の記憶がだんだんと濃くなってくる。目的の駅に近づくたび、中崎は瞬きが増え、目を閉じる時間も増え、まぶたの裏の映像が鮮明になってくる。車内アナウンスで目的の駅の名前が読み上げられた。中崎は咳をして、窓の外をじっと見つめた。
中崎は三年前までこの町に住んでいた。営業の仕事はとても厳しく、上司や先輩に毎日のように叱られていた。仕事に行くのが嫌で、何度も仮病を使ってはずる休みしていた。そんな生活の中でもこの町に住んでいた二年のあいだに、ふたりの女性と付き合った。ひとりは年上で一年半。もうひとりはひとつ年下で三か月。営業の仕事をする前から付き合っていた年上の女性とは、時間が経つにつれ仕事でまいっていく中崎と次第に会わなくなり、ほかに好きな人ができた、と電話で告げられて別れた。もうひとりの女性とは仕事でまいった状態で付き合うようになり、日に日に病んでいく中崎を必死で励ましてくれた。中崎はそれをありがたいと思ったが、どうしても仕事がうまくいかない。会社に行けば叱られ、時に休み、また叱られる。そんな生活が続く中、女性とは週に一、二回会っていたが、中崎の限界はすぐに訪れた。会社を辞め、携帯電話を替え、今住んでいる町へと引っ越し、女性に連絡することなく逃げるようにしてこの町から出て行った。中崎にとってこの町に良い思い出などほとんどない。今の町に引っ越してから一度もここを訪れたことはないし、訪れようとも思わなかった。記憶から消したいが、消せるわけもなく、ただ色濃く刻まれる一方だ。
中崎と澤村がホームに降り立つと冷たくて強い風がふたりのからだを貫いた。ふたりはからだを寄せ合うように、それでも触れることなく、距離を縮めた。こんなに近くにいるのに澤村の甘い香りは届いてこず、冷たくて少し湿っぽい香りがする。中崎は空を見上げる。青空に白い雲は数えるほどで、雨の気配はない。改札口を抜け、階段を降り、この町の地に足をつけるとまぶたの裏に映っていた記憶の輪郭が濃く、はっきりとしてくる。それでも中崎のまぶたの裏と目の前に広がる景色は、どこか違った。
澤村はなにも話すことなく、駅から出ても歩き続ける。中崎は澤村の少しうしろをついていき、澤村のうしろ姿と久しぶりに訪れた町並みを交互に見つめる。ずっと頭の片隅にこびりついていた景色とは、微妙に違う。駅前のビルたちはいくぶんか低くなった気がするし、道路を走る車は減った気がする。焼き鳥屋はマッサージ店になり、ただの駐車場だった場所には携帯ショップが建っている。それでも大まかには同じで、中崎がよく通っていた居酒屋やコーヒーショップ、美容院や牛丼屋は変わらずにあった。中崎はそのどれもを見つめ、頭の片隅にあった記憶とすり合わせる。
「ここになにがあるんですか?」
中崎は相変わらずなにも話さず歩き続ける澤村に話しかける。
「いえ、特に。ただ歩きたいだけなんです」
澤村はマスクの奥からこもった声を出す。中崎は、はあ、とだけ答え、迷わず歩いて行く澤村のあとを追う。澤村の不思議な行動に戸惑いはあったが、久しぶりの町並みを見ることで中崎は会話がまったくない空間を苦痛と思わなかった。
当時の彼女とよく行ったファミリーレストランをすぎ、仕事帰りによく寄ったレンタルビデオ屋や本屋を横目に歩いて行く。どこまで歩くのか、中崎は少し足が重たくなってきた。それは疲れだけのせいではなく、当時の会社の近くになってきたからだ。中崎はマスクを鼻の頭までしっかり被せて上目使いで見渡す。ゆっくりと会社のあるほうに目をやると、会社の看板はなくなっていて、まったく知らない会社の看板が掲げられていた。中崎は一旦立ち止まり、マスクをあごまで下げて知らない会社の看板を見上げる。何度見ても、じっくり見ても、会社の名前はまったく違っている。
「なくなったんだ……」
中崎のこぼれた声を聞いた澤村も立ち止まる。
「どうしたんですか?」
「……いや、なんでもないです」
「この町、詳しいんですか?」
「いえ」
中崎は知らない体でやりすごそうと決めた。思い出したくない部分が多いこの町での生活を誰にも言いたくなかったからだ。
「……そうですか」
澤村は表情を変えずにそう言うと、また歩きはじめる。中崎はマスクを元に戻してあとを追う。土地勘があるのか、澤村はこの町の隅々まで歩く。何度も角を曲がるが、同じ道はほとんど通らない。
「澤村さん、やっぱりこの町に住んでたことあるんですか?それとも、今住んでるとか?」
「わたしはむかし、少しだけ、住んでたことがあります」
「やっぱりそうなんですね。この町になにか思い出があるんですか?」
中崎は自分のことは棚に上げて澤村に訊く。
「……はい。でもあまり良い思い出じゃないんですけど」
澤村は立ち止まり中崎を見つめる。久しぶりに目が合ったと思うと、中崎は少し恥ずかしかった。
「そうですか……」
中崎はそれだけ言うと澤村から目を逸らし、咳を二回した。
「じゃあ、帰りましょうか?」
澤村は中崎を覗き込む。
「はい?」
「もう大丈夫です。本当にありがとうございました」
「……そうですか」
澤村はまた歩きはじめる。それでも本当はまだ物足りないのか、少し遠回りをして駅に向かった。その道の途中には中崎が住んでいたマンションがある。懐かしい景色が続く。まぶたの裏と目の前の景色に大差はない。次の角を曲がればマンションが見える。鼓動が高鳴るのが中崎は自分でもわかった。角を曲がると目を閉じ、景色を確認し、すぐに目を開けた。コンクリートに包まれた六階建てのマンションが、懐かしく、そこにあった。むかし住んでいた五階の角部屋のベランダには見たことのない服が干されていた。中崎はマスクの奥で小さく笑う。澤村に聞こえないように。マンションをすぎると中崎は振り返ることなく、澤村のうしろ姿だけを追い、歩いて行った。
駅に着き、電車に乗る。かなり町を歩いていたからか、すっかり陽射しは斜めに降り注いでいる。来るときよりずいぶん人が増えていたが、どうにかふたりぶんのスペースを確保して椅子に座る。窓に流れる景色はフィルターがかかることなく、そのまま鮮明に中崎の瞳をすぎていく。からだを揺らしながら中崎は、気づけば眠っていた。
「中崎さん、もう着きますよ」
澤村は中崎の肩を軽く叩いて起こす。
「……えっ?ぼく寝てました?」
「はい、ぐっすり」
「すみません」
「とんでもないです。こちらこそすみません。たくさん歩いて疲れたでしょう?」
「いえ、それは別に」
中崎は強めに瞬きをする。前の窓にはふたりが映っている。電車は地下に潜り、人も増えていた。ふたりはドアが開くと降りて階段を上っていく。生暖かい風と冷たい風が入り混じってふたりをすり抜ける。改札を出て地上に戻ると、すっかり太陽は橙色で町を照らしている。
「今日は本当にありがとうございました」
駅の階段を上りきり、澤村はそう言うと軽く頭を下げる。
「いえ、別に。……ひとつだけいいですか?」
「はい」
「本当にもうすぐ……死んじゃうんですか?そんな気が全然しなくて…」
「そうですね。いつか死ぬでしょうね」
澤村はまた笑った。
「えっ?」
「人は、いつか、死ぬでしょ?」
「えっ?……病気とかじゃなく?」
「今はただの風邪です」
「えっ?」
「わたし、来月結婚するんです」
「えっ?」
「そういう意味では、苗字が変わるし、戸籍も変わるし、今のわたしは死んじゃうかもしれないですね」
「えっ?」
「澤村は新しい苗字なんです。今はまだ、長谷川。長谷川あゆみって言うんです」
そう言うと長谷川はマスクを外した。
「えっ?」
中崎は今までで一番大きな声で、えっ、と言った。長谷川あゆみは、今目の前でマスクを外した女性は、中崎が三か月だけ付き合っていた人だった。
「えっ?」
中崎はもう一度声を出す。まわりの人が何人かふたりのほうを見る。
「わたし、ずっと考えてたの。なんでふられたんだろうって。たった三か月でふられる女って、なんか重大な欠陥があるんだろうって。結婚決まってからもずっと不安で。こんな女が結婚してもうまくいかないんじゃないかって」
「それは……おれに責任が全部あるから。君は少しも悪くない。おれが、そのころ、なんていうか……とにかくすべてが不安定で、あの町から逃げることしか考えてなかったから」
「……そうなんだ」
「本当にごめん。なにも言わずにいなくなって。自分のことしか考える余裕がなかったから……。連絡取ろうにも、携帯変えたし、データも残ってなかったから……。本当にごめん。言い訳しても、君に非がまったくないことは、自分でもわかってる……」
「もういいの。大丈夫。中崎くんを責めるためにあそこに行ったわけじゃないし」
「えっ?」
「もうとっくに傷は癒えてるし、結婚するって決めてからは考えないようにしてたから。でもたまたま病院で中崎くんを見かけて。それで一緒にあの町に行って、良い思い出がないところに行って、それで全部受け入れようって思ったの」
「……ごめん」
「だからもう大丈夫だって。わたしのほうこそごめん。もっとうまく接すれば良かったんだけど」
「そんなことないよ。悪いのは、全部、おれ」
「もうお互い謝るのやめよう。もうただの過去だから」
「……そうだね」
「久しぶりにあそこに行って、わたし懐かしかったんだから。よく行ったファミレスとか居酒屋とか」
「おれも」
「じゃあ、わたし帰るね。本当に今日はありがとう」
長谷川は笑って右手を差し出す。中崎はうつむいて長谷川の手に気づかない。
「泣いてるの?」
長谷川は中崎の顔を覗き込む。急に現れた長谷川の顔を見て、中崎はびっくりし、そして照れる。
「泣くわけないだろ」
中崎は差し出された手をゆっくりと握る。冷たくて薄い手のひらがしっかりと握り返してきた。ふたりは視線を合わせ、笑う。
「じゃあね」
「じゃあ。お幸せに」
「ありがとう。中崎くんもがんばってね。あと、あまり仕事は休まないように」
長谷川は笑って、手を離し、小さく手を振って、人ごみのほうへ歩いて行った。中崎は、うん、と言って手を振る。今日、何度も見た長谷川のうしろ姿をじっと見つめる。うそをついていたつもりが相手にはばれていたんだと思うと、急に恥ずかしくなった。一瞬目を閉じると、あの町並みが浮かび上がる。目を開けると、長谷川の背中はずいぶんと小さくなっている。長谷川は一度も振り返ることなく歩いて行く。中崎は長谷川とは反対のほうへ歩きはじめた。橙色の町が、いつも見ている町並みが、いつもとは違うように見える。中崎は背筋を伸ばし、マスクを外した。
「早く帰って寝よう」
独り言をつぶやくと、中崎は一度だけ振り返ってみた。長谷川の姿はもう見えなくて、たくさんの人が足早に歩いていた。