おまけ01 side 伊織
本編36話あたりのマゼッパについての真相
Lenとの出会いは衝撃的だった。
音楽の神様はこんな堂々とした奴に、才能を与えるんだな、って。
「超絶技巧練習曲」通称マゼッパを焦るわけでもなく、苦しむわけでもなく、ただ普通に呼吸をするように、平然とした涼しい顔で弾いてみせる姿に魅了された。
16歳の時、社長に連れられて出会った、あいつの奏でる音が俺を震撼させた。
音楽を作る事、
音楽を奏でる事、
それが俺のライフワークとなって行く訳だけど、
あれほど悔しい思いをした事は一度としてない。
俺の意地と誇りをかけてあいつ自身を奏でて見せよう。
そう決意して、社長のスカウトを受けたし、Lenのプロデュースの一切を引き受けた。
分かってるか?
俺の音楽は、お前しか歌えないんだ。
変なこだわりを捨てろ。そして気づけ。
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「前にも言った通り、伊織がテレビに出たくないって言ったら、別に出なくてもいいんだけど。ただ、君の才能を生かして、1つ引き受けて欲しい奴がいてね。あ、Len。お待たせー」
社長と並んで歩いていたのは、事務所の練習スタジオ。
その中でも防音が設備されたちょっと広い部屋だった。
部屋の中には、スタンウェイ製のグランドピアノと思われる黒い塊が一台。
蓋を全開にして、防音扉を開けた瞬間に、『革命』の音があふれだした。
相手はまだ社長の声に気が付いていないらしく、指を早くでもしっかりとすらっと長い指で鍵盤を正確にとらえていた。
その姿は決して初心者が引くような雰囲気ではなく、長年その姿をし続けて来たと言うような、板についた姿が目を離さなかった。
あと5歩でピアノに触れるという距離で、急に音が途切れた。
音を奏でていた人が、顔をあげてこちらを見ていたからだ。
「意外と言うか、相変わらずと言うか」
「それはこっちのセリフだな」
苦笑を交えた社長がLenと呼ばれた人物に向かって言った。
「そのピアノの才能活かして大学行けば良いのに」
「行くだけ無駄」
恐れ多くも社長にため口を聞く人物は、今良く見ればあまり年の変わらない、俺から見てもカッコいいと言える人だった。
さらに言えば、演奏家として常識と言えるように、ファッションで身に着けていただろう指輪が、指から外されて譜面台に置いてある。
その行動にも俺は高感度が上がった。
「こいつが例の?」
彼は社長の顔を見て、俺に視線をくれると、人を魅了するように口角をあげて笑顔で挨拶をしてくれた。
「俺、Lenな。よろしく」
「こちらこそ。あなたにリクエストしたいんですけど良いですか?」
互いに握手をしながら、互いの瞳に映る自分の姿が見えた。
「俺のピアノで良ければ、別に…」
苦笑をされながら言われた事に、内心安堵と期待をしつつ、俺が音楽を作りたいと思わせる人物になってみろとばかりに、社長には無断で無理難題を吹っ掛けてみることにした。
「リストの『練習曲ニ短調 Op.(オーパス)1-4』を聞きたいんですけど、弾いてくれませんか?」
玄人ならば限界どのくらいだろうか?
そう思って、ピアノに触れた事のある人間ならば、弾く事を逃げたくなる曲を挙げてみた。
「リストの『練習曲ニ短調 Op.1-4』…ね」
ただの凡人ならきちんとした曲名を言わなければ、分からないだろう。
でも彼は、練習曲名を言うだけで、まっすぐにピアノに向かって椅子に座った。
先ほど弾いていたベートーベンの『革命』を弾きこなす技術はさることながら、今度のリストの『練習曲ニ短調 作品1-4』通称マゼッパは、どうだろう?
息をひそめて見守ると、次の瞬間に俺の音楽の血を震えさせた。
俺が目指す、魂が響く音楽を初めて、目にした。
-FIN-