ごめんなさい。姉の婚約者が羨ましくて、奪ったの。
祭壇の前、飾られた白い花々の華やかさとは反対に、浴びせられたのは冷たい声色だった。
「愛している」
初めて聞く、私への愛の告白は、怒ったような鋭く尖った視線とともに与えられた。
黒いふわりとした前髪の隙間から睨みつけるように赤い瞳が覗く。
国境を守るカラド辺境伯領。領主であるアルバロは、見たことのない顔で私を見つめた。
王命で進められたこの婚姻が、彼にとって不本意であることを知ってはいたけれど。結婚式の間くらいは幸せな気持ちになれるかもしれないなどと思っていた自分を嗤ってやりたい。淡い期待は、見事に打ち砕かれた。
彼の声と態度から伝わってくる。
私のことなど愛していないのだ、決して。
けれど、神父の前で誓わなければならない。目の前の人を愛しているのだと。生涯寄り添うのだと、心にもないことを。
「私も、愛しています」
アルバロの誓いを受けて、私もまた神に誓う。
一方的な愛の言葉でも、神は認めてくださるだろうか。
薄いヴェールが上げられて、私とアルバロの間を遮るものはなくなった。
ただ唇をくっつけただけの誓いのキスで、神を騙そうとするなんて、きっと罰が下るだろう。
盛大な拍手は胸の空虚感を埋めてはくれず、一層の惨めさを、白く豪華なウエディングドレスで受け止めるしかなかった。
◆
結婚式以降、アルバロとは顔を合わせていない。
辺境伯領カラドの領主邸に嫁いでから、早一ヶ月が経とうとしていた。
生真面目な彼は、嫌いな相手にも礼儀は欠かせないようで——もしくは、王命だからなのかもしれないが、私は、彼の妻として、何不自由ない生活を送っている。
「グラシア様、テラスにお茶の用意ができました」
「ええ、ありがとう」
「いいえ、当然のことですので、お礼など不要です」
使用人も執事もメイド長も、礼儀正しく、些細な願い事であっても叶えてくれた。ただ、それが仕事であると確固たる意志があるようで、気軽に話す雰囲気にはならない。
笑みを浮かべて接してくれてはいるものの、この屋敷の主人アルバロの意に沿わない結婚相手なのだから、仕方のないことなのかもしれなかった。
寝室の大きな窓をくぐって、テラスに出れば、三段のケーキスタンドの上にお菓子が並べられている。大きい紅茶ポットも準備されているから、しばらくは人を呼ばなくてよさそうだ。仕事人たちは、本当に忠実に、仕事はこなしてくれる。
「そんなに畏まらないで。私は、もう、アルバロの妻なのよ」
「それはもちろん存じております」
誰に聞いてもそれ以上の答えは返ってこない。すっと一礼し、口を噤んで下がってゆく。
一人になったテラスで、ため息をついた。たくさんの木々と王都では聞くことのなかった鳥の声、自然に溢れた景色を眺めても気は晴れない。
耳をすませば聞こえてくる騎士たちの声だけが、ほんの少しの慰めをくれた。
ここからは、訓練場の端が見える。
訓練中の彼らをまとめているのはアルバロで、彼の姿が少しでも見えないかといつも目を凝らしているけれど、残念ながらその機会は訪れたことはない。
ただ、彼らの声の先にアルバロがいる。そう思えるだけで、沈んだ心に光が差す。
——大好きなアルバロの、大好きな人を、奪ったくせに。
ティーカップに一口つけて、取っ手を持つ指に力が込もる。
父である国王から持たされた茶葉は、慣れ親しんだものであり高級なものだけれど、今はなぜか苦味ばかりが舌に残る。
我がタンダリン王国の第二王女だった私は、本当は、隣国フルルートへ嫁ぐはずだった。
互いの親交を深める政略婚。嫌がる私の代わりに嫁いだのは、第一王女エウラリア。私の姉だ。
エウラリアはアルバロと婚約を終えていた。
私が嫌がりさえしなければ、アルバロは好きな人と結ばれる予定だったのだ。
——愛される資格はないかもしれない。けれど愛してもいいでしょう。アルバロを一番愛しているのは私で、一番近くにいるのも私なのだから。
エウラリアは第一王女。しかも国同士の結婚だ。
私よりも早く、盛大に、結婚式は行われた。フルルート国へ出立する時、警護を任されたのは、辺境伯であるアルバロだった。彼よりも強い騎士はおらず、地位も高く、誰よりも適任だったからだ。
元婚約者であり、最も愛したエウラリアを、アルバロはその手で他国へ送り届けた。
その時の顔からは何も読み取ることはできなかったけれど、きっと、大きな悔しさと、私への憎しみを募らせたに違いない。
今なお鮮明に思い出せる結婚式での愛の言葉ほど、私の決意を揺るがせたものはなかった。
辺境伯領の周りは森、その先には大きな川がある。その川を国境としていて、タンダリンとフルルートの共有財産である。
だから、独占を禁じるための政略婚が、定期的に行われるのだ。たまたま私たちの時代が、ちょうどその時だった。
高い屋敷のテラスからも、遠くに大きな川が見える。幅の広い川で、その奥を見ることはできないけれど、川を隔てた向こうの国にはエウラリアがいる。
私が感じた恋しさとは違うだろうが、アルバロもエウラリアを思って川を眺めたことがあるのだろうか。
きゅっと胸が痛んだが、もう戻れない。
アルバロの心の痛みが、少しでも早く、和らぐことを祈るばかりだ。
ケーキスタンドの一皿がなくなっても、まだ訓練の声は止まなかった。
◆
「……あ」
廊下で見かけたアルバロに思わず声が出た。本当に久しぶりだ。
アルバロも私に気付いたようで、軽く会釈をされた。
その仕草が妻として認めていないと言われているようで、胸に小さな痛みが走る。
しかし。
「何か不便はあるか」
抑揚のない声でそう聞かれただけで、ほっとしてしまうのだからどうしようもない。
「いいえ、しっかりした使用人を付けていただいたから、何の問題もないわ」
「そうか」
それっきり、ふいと目を逸らして去ってしまった。
寝室は別。屋敷の端と端に準備された互いの部屋は、行き来することもない。
階段も両端にあるから、今のように偶然に会うこともこれまでなかったほどだ。
今ではすっかり無愛想になってしまったが、私が我儘を言う前——私と婚約する前までは、幼馴染だと言えるような良好な関係だった。
アルバロに初めて会ったのは、七歳の時。
三つ上のエウラリア、その更に四つ年上だから、私とは七歳差になる。
年に一度、王城にて、大きな国内会議を行っていて、国境の警備を任されているカラド辺境伯もまた、必ず出席しなくてはならない。十四歳になったばかりのアルバロは、顔見せと称して、当時の辺境伯とともに王城に訪れていた。
今思えば、婚約者候補として、エウラリアとの顔合わせだったのかもしれない。
そこで会ったアルバロとエウラリア、そして私は、親不在の会議の間、ともに遊んだ。あまりに楽しくて、それからは毎年の会議時期を待ち侘びるほどになった。
大会議以外でもアルバロは辺境伯の報告についてくるようになり、会う回数も増え、エウラリアとともに手紙のやりとりもするようになった。
自分の状況がわかっていない愚か者だった。しかし忘れがたい楽しい日々だった。
それから六年後、アルバロが二十歳、エウラリア十六歳の時、婚約が決まる。その時の嬉しそうなアルバロの顔と、自分の胸の痛みを、私は忘れられない。
歳の離れたアルバロは私にとって、頼れる兄のようであり、心許した初めての異性だった。彼は、エウラリアと私を、一切比較しなかった唯一の人間だったからだ。
けれどエウラリアのことも好きだったから、心に刺さった棘を、幼いながらに隠し、祝福の言葉を告げたのだ。
自室の部屋の扉を開けて、鏡台の前に腰掛けた。
鏡の中に現れたのは、幸せとは言い難い、形ばかりの新婦の顔だ。
「……許して欲しいとは言わないわ。でも、あの時、どうかお幸せにと願ったのは、本心だった」
どう見てもアルバロとエウラリアはお似合いの二人で、邪魔する気も、嫉妬する気も起きないかった。
しかし、二人の婚約は、しばらく保留となる。
当時のカラド辺境伯——アルバロの父が急逝されたのだ。
突如忙しくなったアルバロは、領地運営、騎士たちの育成、辺境伯としての体面保持など、慣れないことばかりで大変だったろう。
父も国王として幾らかの手助けはしたようだが、領地内のことにまで詳細に手は出せない。アルバロが先頭だって行う必要があった。
アルバロがカラド辺境伯として、独り立ちするまで、三年掛かった。
ようやく結婚に向けて進められると、そう考え始めた矢先、降って湧いたのがフルルート国との縁談だった。
王女は二人。白羽の矢が当たったのはもちろん、まだ婚約者のいなかった私だ。
私は泣いて喚いた。他国に行くのは嫌だと、少し残った幼さを武器にして。
そうしてエウラリアがフルルートへ嫁ぐことが決まり、アルバロとの婚約は解消された。
アルバロには本当に申し訳ないことをしたと思っている。アルバロの積年の想いもろとも、蹴散らしたのだから。
「信じられないでしょうね。それでも、アルバロが欲しかったの。我が国の王女は私とお姉様だけだから、どちらかが異国へ嫁がなければ。そしてどちらかが、カラドへ」
元々、政略結婚であるから、どちらでも構わなかったはずだ。
正真正銘、どちらも国王から愛された王女であり、役割も、受けられる持参金もどちらの王女であっても変わらない。
懺悔のように、独りごちた私の顔は、エウラリアとよく似ている。いや、よく似てきたというべきか。
同じ金の髪と、紫色の瞳は、王家の象徴でもある。
「アルバロを助けたいわ」
婚約者が代わったことを、アルバロは怒らなかった。
我儘だと、お前のせいでと、面と向かって言われるのなら、耐えてみせたのに。
アルバロの心が晴れるのならば、罵られてもよかったのに。
その贖罪の機会さえ与えてもらえない。
「せめて、この顔が、アルバロを癒せたら……お姉様ではないけれど、もし面影が彼の心を慰めてくれるなら」
私にできることは少ないけれど、これでも夫婦だ。
アルバロを想う気持ちを届ける術が、どこかに落ちていないだろうか。
そう思ってから、ふと彼の笑った顔を思い出した。
まだ幼さの残るアルバロが、エウラリアの作った絶品のクッキーを、美味しそうに食べている。
気づけば、迷うことなく、厨房に駆け込んでいた。
◆
厨房は夕食の片付けを終え、明日の朝食の下準備をも終えるところだった。
そんな厨房の一画を貸してほしい、と無理を言い、空けてもらう。
記憶を頼りに作り上げたクッキーは、見事に、失敗した。
「おかしいわ。お姉様はこんな感じで作っていたと思うのだけど」
よくエウラリアを手伝っていたこともあり、見た目も味も、問題なくクッキーだ。
けれど、エウラリアのクッキーとは何か違う。もう少しザクザクしていたはず。
何度か作り直したけれど、やはりエウラリアのクッキーにはならなかった。
「グラシア様、お菓子でしたら私がお作りいたしますが……」
料理長がいたたまれない顔をして言った。
見れば厨房に残っているのは料理長ただ一人だ。
「ああ、ごめんなさいね。あなたの場所を借りてしまって」
「いいえ、それは問題ございませんが……グラシア様ご自身でお作りにならなくとも、私たちにご命令いただければ」
「違うの。私が作りたかっただけなのよ。思い出の味を再現したかったのだけど……難しいみたい。よければ、これを食べてみて、アドバイスをくれない? もう少し食感を強く残したいのだけど」
料理長は命令通り、一枚食べ、戸惑いつつも粉の種類が違うのでは、と教えてくれた。
もう一度作り直してみれば、エウラリアのクッキーに近い出来栄えだ。
「まあ、ありがとう。あなたのおかげね。他のクッキーは皆さんで分けてくださる? もちろん料理長の腕には落ちるけれど、悪くない味だと思うのよ」
最後に作ったクッキーは部屋に持ち帰った。
可愛いラッピングを施して、カゴに詰める。明日の朝、これを届ける予定だ。
潜り込んだベッドはいつも以上に柔らかく肌に馴染み、久しぶりに気持ちよく眠りにつけた。
翌朝、カゴを持って訪れたのは、訓練場だった。いつも遠くに聞こえていた声が、頭を揺さぶるように耳を抜ける。
この屋敷に嫁いできて案内された後、足を踏み入れたのは初めてのことだ。
立ち入りを禁止されていたわけではなく、ただ、アルバロの近くに行くことを躊躇っていた。
正直に言えば、結婚式の時のような、過去とは違う、冷たい声を浴びせられるかと思うと足が竦んだのだが。
けれど、愛されなくてもいいからと欲したのは私。
遠くで想うだけでなく、愛していると伝える努力はしなければならなかったのだ。
休憩の合間を狙い、アルバロの元へ近寄った。
こめかみから流れ落ちる汗が、私の知らないアルバロのように見える。
「……アルバロ。お疲れ様」
声が震えないように気を張りながら呼びかけると、アルバロはすぐに振り向いた。
驚いたように目を見開いた後、すっと視線を逸らす。辛いけれど、想定済みだ。
「ああ……どうかしたか。こんなところへ来て」
「クッキーを作ってみたの。時間を持て余してしまって。美味しくできたから、あなたにも食べてもらいたくて持ってきたのだけど、受け取ってくれるかしら。騎士の皆様にも渡してもらえると嬉しいわ」
「……もらおう」
精一杯の愛を込めたカゴを受け取ってくれた。それだけで睡眠不足の価値はある。
「もしよければ、一つ、食べてみて。感想が聞きたいの」
結婚が決まってから初めて、アルバロにお願いをした。
彼の目を瞠った顔を見て、我儘だったかしらと頭をよぎる。けれど、アルバロは黙って包みを一つ、広げてくれた。
「……これは、食べたことのある……」
アルバロがクッキーを口に入れると、この特別なクッキーに気づいたようだった。
一度逸らした目を、再び私に向ける。じっと見つめられた後、赤い瞳に冷たさが宿った。
「やはり姉妹か」
何も知らない私は、エウラリアに似た自分の顔に感謝し、彼を慰める手段を見出せたことに、結婚直前のような幸せを感じたのだ。
◆
なぜ、とアルバロはラッピングされた袋を、苦しげに見つめていた。
執務室の暗闇の中、月明かりを頼りに見るそれは、小さな白い造花が一つ、ワンポイントで飾り付けられている。
訓練の合間の休憩時間、やってきた訪問者に驚いた。その相手は、自分の妻であり、愛していた女性の妹であり、結婚式以後、避けていた相手でもあった。
どうしても気になって、結婚後の生活に問題がないかと、一度だけ確認しには行ったが。
「……あれほどあの場にふさわしくない愛の誓いはなかった……」
神に誓う言葉の冷たさに、自分自身が驚いていた。
幼い頃からよく知っている、妹のように思っていたのがグラシアだ。
そんな妹が、自分の隣で、自分の妻となるべく立っている。
エウラリアとの結婚を惜しむ諦めの悪い自分と、同じような顔をして。
アルバロがエウラリアのことを愛していると、グラシアは知っていた。
だからこそ、エウラリアと結婚できなかったアルバロを哀れに思ったのだろう。
そして、それを為したのが自分の我儘だった、という事実が、グラシア自身を苦しめていた。
そんな顔を見ていると急に、怒りが湧いたのだ。そんなことで苦しむのなら、なぜあんなことをしたのかと。
露わにするつもりはなかったが、発した声の冷たさが物語っていた。
「……自己犠牲もほどほどにしてほしいものだ。我儘らしく、自分のことを顧みればよいものを。俺がいい、と言ったのではなかったのか?」
机の上で組んだ指にぎゅっと力が入る。
おそらくグラシアは今も、エウラリアと結婚できなかったことを、怒っていると思っているのだろう。王命の政略結婚。それを王命で覆されたのであれば、こちらに怒る筋合いはないというのに。
「せめて、エウラリア様と、似ていなければよかった」
昔から自分を好いてくれているのは感じていた。
全てを被った、優しくて我儘なグラシアを、ただ、大事にしてあげられたなら、どれだけ良かったか。
しかし、エウラリアと似た顔が、彼女を忘れさせてくれず。
芽生え始めているグラシアへの好意さえ、エウラリアの代わりにしているのではと疑ってしまう。
「そうすれば……避ける必要もなく、もう少し彼女に優しくできたはずだ……」
クッキーを受け取って以降、グラシアは何度も訓練場を訪れていた。毎回、あのクッキーを差し入れにして。聞けば彼女が自分で作っているのだという。
それが全て、アルバロの失恋を癒そうとしているのだと気づいているから——だからまだ怒りが収まらない。
机の端、小物入れ代わりの灰皿の中には、捨てられなかった白い造花が増え続けている。
「……噂どおりの我儘を振りかざして、俺を欲することくらいすれば、俺も」
思わず口を出た言葉に、アルバロは固まった。
じわじわと熱を持つ額を、誰に隠すわけでもなく、机に肘をついた腕で覆い、長いため息を吐く。
こんなもの、気に入っていると言っているに等しいだろうが。
誰もいない部屋。誰にも聞かれる心配はないが、この言葉はぐっと飲み込んだ。
◆
エウラリアのクッキー作戦は、思いのほか上手くいっているようだった。
毎朝のように訓練場に顔を出しても、アルバロは怒らない。
きつく冷たい眼差しはそのままだが、クッキーは受け取ってくれるし、会話も増えた。
そしてついに今日、お返しのプレゼントまで貰ってしまった。
執事の手によって自室に届けられた白い花束には、アルバロの名前入りのカードが添えられている。
受け取った瞬間、甘い香りが漂ってきて、手放せなくなってしまった。
くるくると室内を回りながら、花束を抱きしめる。アルバロからの初めてのプレゼントだ。
少しずつでも、私への怒りが解け、癒せているのだろうか。
しばらくすると、扉のノックとともに若いメイドが入室してきた。
作ったクッキーのお裾分けを始めてから、感じていた壁はなくなり、気楽に話せるようになっている。
「グラシア様、本日のクッキーも大変美味しくいただきました。私たち、いつも楽しみにしているんですよ」
「そう、良かったわ。実はね、私のお姉様が好きだったクッキーなのよ。アルバロも気に入っていたみたいで」
「え! ……あのエウラリア様が?」
失言だと感じたのだろう、少し頬を強張らせた。
この屋敷の人間は皆、アルバロの元婚約者エウラリアのことを知っている。もちろん私が言った我儘のことも。
睫毛を伏せつつ微笑んで見せた。
「ええ。今もアルバロの好みに合ったようで、嬉しいわ」
本当のことだったけれど、何とも言えない微妙な顔を浮かべたメイドは、これ以上余計な事は言うまいとばかり口を引き結ぶ。
が、視線をずらした先にあった物を見て、彼女は首を傾げた。
「……グラシア様、こちらは、中をご覧になられましたか?」
「中? アルバロの名前が書いてあるカードのこと?」
「はい。こちら分かりにくいかもしれませんが、折り畳み式のカードになっておりまして」
開けた形跡のないカードが気になったのだろう。教えてくれた彼女には感謝を述べて下がってもらった。
ドキドキしながらカードを開くと、綺麗な筆致で、クッキーのお礼が書いてある。
それから。
「——クッキーの味を変えてほしい?」
どういうことなのか意味がわからないまま、いつも通り厨房を借りてクッキーを焼く。
いつも同じ味で飽きてしまったのかもしれない、とこれまで入れていなかった砕いたナッツを生地に混ぜ込んだ。
訓練場にクッキーを差し入れた時、アルバロはすぐに口に入れてくれた。これまでと違う風味に満足したのか、心なしか目元が緩んだ気がした。
まるで視界が開けるような感動を覚え、それからはいろんなクッキーを作った。
時には、マドレーヌやタルトにも挑戦した。作ったことはなかったから、料理長に教えてもらいながら、何度か失敗しつつ焼き上げたお菓子を、渡せた時は格別だった。
アルバロの固い表情が和らぐのだ。
それが見たくて、お菓子いっぱいのカゴを準備しては足繁く訓練場へ赴く。
そんな日々がしばらく続いた後だ。
差し入れ時に浮かべた、アルバロのどこか不満げな眼差しが新鮮だった。
「君はいつになったら、我儘を言う?」
「え?」
「ここへ来て、一度でも何かの我儘を言ったか? 我儘な第二王女様」
我儘に見えるような行動は一切控えていた。
これ以上アルバロに煩わしいと思われたくなかったからだが、噂のことをすっかり失念していた。
「……あら。毎日テラスにティーセットを用意するよう言いつけたし、こちらにも訓練の邪魔になるのをわかっていて来ているし。厨房で料理長の邪魔をしてお菓子作りをしているわ」
我儘王女らしく、顎をつり上げた。
同時に漏れた彼の笑い声が懐かしく、愛おしさが込み上げる。
「ふ、何とも些細な我儘だ。それに比べれば、よほど俺の方が我儘だろう。わざわざ作ってくれている君のクッキーに文句をつけて」
指差された先のカゴを見て、慌てて首を横に振った。
「いいえ、それは私の配慮が足らず。いつも同じ味では飽きて当然ですもの」
「いや、待て。俺が、なぜ味を変えてほしいと言ったと思ってるんだ」
赤い瞳でじっと見つめられて所在なさげにスカートの端を握った。
何もおかしいことは言っていないはずなのに、怒られているように感じる。言いようのない不安はじわりと背中を重くした。
「飽きたから、と……。そうではないなら、もしかして私の真似? 我儘だった?」
生真面目な彼の、ちょっとした嫌がらせだったのかもしれない。
一つも気づいてあげられなかったと狼狽した。
「ハハ! バカな、そんなわけが。……いや、待て、グラシアの言う通りかもしれない。我儘か」
見慣れない——いや、幼い時にはよく見ていた、優しい顔に息を呑む。
昔に戻ったような気持ちになったが、赤い瞳の奥には、やはり冷たいものが見えていた。
「グラシアが、エウラリア様のクッキーを作ってくれていたのは知っている。美味い、とも思った。懐かしいとも。ただ、俺はもう、エウラリア様のクッキーは食べたくない。わかるか」
わからない。が、彼の真面目な顔を見れば、そう言える雰囲気でないことはわかる。
こくこくと頷くと、アルバロは元の冷静な顔つきに戻っていた。
「ならいい。もし今後も作るつもりなら、グラシアの好きに作ってくれ」
受け取ってくれたカゴを持ち、訓練へ戻るアルバロの背中を見て、ようやく思い至った。
ずっと前から違和感があった。
エウラリアには頑なに敬称を付けて呼ぶ。自分とは違う世界にいると線を引くように。
「……アルバロはお姉様を忘れようとしているのね」
小さな呟きは訓練再開の合図によってかき消された。
◆
成功していると思っていたクッキー作戦は、実は失敗していたのかもしれない。
そんな思いに駆られ、ここしばらく厨房に顔を出せずにいる。
日課のティータイムは継続しているから、騎士たちの声が遠くで聞こえ、その度に思い出すのはアルバロの顔。クッキーの包みを持つ彼の姿に、責められているような気さえする。
「良かれと思って渡していたお姉様のクッキー、実は見たくもないものだった?」
だから味を変えてほしい、と。
忘れたい思いを蒸し返すように何度も渡し続けたのは、わざとではなかったとはいえ、随分と酷なことをしていたのではないだろうか。
受け取ってくれた時の少し緩んだ顔は、エウラリアのクッキーじゃなかったから、なのか。
美味しいお菓子も、メイドとのおしゃべりも、気を遣われて贈られてきた花束でも。
一度植え付けられた罪悪感は消えてくれそうにない。
テラスのテーブルには白い花が飾られていた。カラドの紋章にもなっている、ここ辺境伯領の特産だ。
私がクッキーをラッピングした造花もこれを模している。
急に差し入れに行かなくなった私を心配してくれているのか、生真面目なアルバロは花束を手配してくれたようだった。喜んだのも束の間、長い長いため息をついたのはつい昨日のこと。
「こんなことをされたら、許してもらえたのかと勘違いしてしまうわ」
忘れたい気持ちを邪魔していたことはもちろん、婚約者に成り代わったことも含めて。
アルバロの優しさに触れてしまったら、自分の愚かさをも忘れそうで、身震いする。
「どんなに好きでも……いいえ、好きだからこそ、アルバロの気持ちは尊重しなくては」
エウラリアのクッキーを遠ざけるだけでは不十分だ。
そもそも顔の造作が似ている私は、アルバロの前に姿を現してはいけなかった。
結婚式後、顔を合わせていなかったのも、本当はこのためだったのではないだろうか。
——コンコンコン、と普段より力強いノック音が響いた。
驚いたし、幻かとも思った。
返事も待たずに開けられた扉の先には、訓練着のままのアルバロがいた。
「ど、どうされて……」
「どうしてもない。どうした、なぜ急に来なくなった。具合でも悪いのか」
矢継ぎ早に話すアルバロが自分の部屋にいる。初めて見る光景だ。
まじまじと見たい欲を抑えて、エウラリア似の顔を覆う。
「いいえ……いえ、少し気分が優れないだけで……」
「何! 世話係は何をしている! 医師は呼んだのか。すぐに連絡を」
ぎょっとして、部屋を飛び出して行きそうな彼を、腕を掴んで引き留めた。
「ま、待って!」
アルバロもまた私と同じような顔で腕を見るから、慌てて手を離す。
「違うのよ。その……私は似ているから、顔を見せない方がいいのではないかと、悩んで」
呆れたような顔をするアルバロだが、その瞳に冷たさはない。
誰にとは言わなかったけれど、アルバロには通じたようだった。
「我儘王女はどうした。それに、確かに似てはいるが…………グラシアとエウラリア様は……別の人間だ。行動も好みも違う。これまで毎日差し入れにきてくれたグラシアが、急に顔を見せなくなっては、気にもするだろう」
本当だろうか。
そう思った心が透けてしまったのか、すぐそばまで近づいてきたアルバロが、内緒話をするように耳元で呟く。
「グラシアは……俺が、エウラリア様に未練があると思っているようだが、あの方にはもうすっぱりと振られている」
「……え?」
切なさからか、アルバロの声が揺れていて、本当のことなのだと知る。
驚いた私を落ち着かせるように、アルバロは大きな手で私の頭をゆっくりと撫でた。
幼い頃に戻ったように懐かしくて、何の我慢もせず纏わりついていたあの頃の気持ちを押し留めるので精一杯だ。
「フルルート国へ護衛した時のことだ。あの方は、こんな俺に謝ってくださった。決して嫌いではなかった、結婚することも受け入れていた——けれどどうしても国外に憧れがあるのだ、と」
吐息の近さと、紡がれた言葉に心臓が止まるかと思った。
急に息を吸った肺は痛く、強く脈打つ心臓が唇が震わせた。
それは、私が口を噤み、死ぬまで話すことはないと思っていたこと。
「——は……ッ、お姉様がお話しされたの?」
「ああ、こうも仰っていたよ。自分の我儘を通すために、グラシアは我儘を言ってくれたのだと」
アルバロは大きく、おもむろに頷いた。
つまり彼は最初から、広まった事実だけでなく、真実を知っていたということになる。
全部、エウラリアと二人で決めたことだった。
フルルートに嫁ぎたいと第一王女が我儘を言うよりも、第二王女が異国フルルートよりも辺境伯に嫁ぎたいと言う方が、体裁が良かった。婚約済みのエウラリアがそれを破棄してまで他国へ輿入れしたいと言えば、アルバロとの婚約を軽んじているのと同義だったから。
エウラリアは最後まで気を揉んでいた。
彼女が外国を望んだことで、私に我儘だというレッテルが貼られることを気にしていたから、アルバロに言い残して行ったのだろう。
力の入らなくなった身体が膝から崩れ落ちた。
「けれど、私自身も望んだことです」
だから、国にとっても、エウラリアにとっても、私にとっても、利のあることだった。
愛する人を逃すことになったアルバロを除いて。
「アルバロには申し訳ないことをしました。お姉様と画策したこととはいえ、私の我儘がなければ……」
私が好きなアルバロの望みは叶えられた。
ずっと、それが心につかえて、残っている。
ぐっと噛み締めた唇をアルバロの親指が撫でていった。こんなに近くで顔を見たのは、結婚式以来で、不覚にもどきりとした。
神に誓った冷たい愛と、クッキーを受け取った時の顔、それから心配した様子の今。ぐるぐると目まぐるしく思い浮かぶのは全部アルバロの顔で。
それぞれ違う様子の彼の、どの顔を信じればいいのだろう。
「グラシア。君は我儘王女なのだろう。なぜ他人のことばかり気にをする? 大層なことをしでかしておきながら、自分で全てを背負おうとする。……我儘だというなら、我儘らしく振る舞えばいい。俺のように」
「まさか! アルバロは王命に従い、お姉様との婚約も破棄されて、別の、私との婚約話も文句一つ言わず受け入れていて。何一つ、我儘など」
小さく息を吐くように、彼が笑う。
「別のクッキーを作れと言ったぞ」
「……え?」
「エウラリア様の味ではなく、グラシアのクッキーが食べたくて、だ」
ぽかんと口を開けた。
少し照れたような、こんなアルバロを見たことがない。
思わず毒気が抜かれそうになりながら言った。
「で、では、私も、フルルート国ではなく、アルバロへ嫁ぎたいと、大きな我儘を言ったわ」
誤魔化されてはいけない。
私の我儘は、そんな可愛らしいものとは違い、何人もの人生を左右する。一番の被害者は、目の前のアルバロだ。
だから私は必ず彼を幸せにしなくては。
決意虚しく、当のアルバロは、ふるふると首を振った。
「その我儘だってエウラリア様のためのものだろう。そのせいで、君には不名誉な噂がついて回るようになった。……なぜそこまでできる。いっそ全て父君に任せて、異国に嫁がせるのは第一王女がよいからと命令してしまえば良かっただろうに」
「——それでは、アルバロは全てを飲み込まなくてはならないでしょう?」
「は、」
赤い目が、理解できなかったように、細められた。
しまったと思ったけれど、私にも譲れないものがあるから、止められない。
「お前のせいだと罵る相手がいた方が、気が晴れるでしょう! 王には背きにくい。けれど昔から仲の良かった、お姉様のことを好きだったことも知っている、年下の妻であれば、感情のはけ口になれるかもしれない」
「まさか……俺から、疎まれるかもしれないとわかっていて、わざと?」
吐き捨てるような口調。それでいて力強い目が、私を捉えて離さない。
「それでも! あなたのそばが良かった! 遠く知らない土地へ行くよりも。これが最後のチャンスだとも思って!」
言った瞬間、アルバロの腕の中に収まっていた。
自分のものではない鼓動が鼓膜を揺らし、目の奥はなぜか熱い。
「お姉様がフルルート国に行きたいと言った時の気持ちがわかる? だったら、私がって。アルバロの初恋を邪魔することも知っていて、それでもアルバロと結婚できるなら嬉しいって。アルバロの悔しい気持ちも受け止めてみせるからと思って……!」
「グラシア、」
「だから、私にはあれが一番の我儘だった……! 今のこの場所を手に入れるために!」
好き。一緒にいたい。アルバロを不幸になんかさせないから。他に、我儘は言わないから。
「グラシア……!」
背中に回された手に力が込もる。温かくて大きな手のひらだ。
ほろりと一粒、涙が流れた。
「……くそ、君がエウラリア様と似ていなければ良かったと、何度思ったことか。泣くな。グラシア、俺の我儘王女。俺に望むことはないのか、何でもいい。叶えてみせる、どんな願いでも」
胸が苦しくて、くらくらとするような言葉を、夢うつつのような気持ちで聞いた。
願いはずっとある。結婚してから、いやその前からずっと望んでいたこと。
「……っ、私を、愛して」
私の我儘はアルバロを困らせなかった。
耳元で囁かれた答えは、優しくて温かい。
「ああ。もう愛さずにいられない。ずいぶんと前から」
——ほっとして大きく吸った息に、混じるのは白い花束の香り。
◆
グラシアの献身は伝えられることはなかった。
しかし、我儘で始まったはずのカラド辺境伯との結婚は上手く行っているようで、領内の所々で、仲睦まじい夫婦の姿が目撃されていた。
領内から発信された二人の様子は、いつしか理想の夫婦像として国中へ広まった。グラシアの我儘は不名誉ではなくなり——きっと真実の愛に目覚めたのだと、そう言われたそうだ。
お読みいただきありがとうございました!
エウラリアと隣国王子も出そうかと思ってましたが長くなりすぎたので割愛。
隣国王子はエウラリアとの仲は良好だけど、「僕との婚約を蹴る王女ってなに?」「蹴って嫁いだ辺境伯は、僕よりいい男ってこと?」と興味津々。理由をつけて遊びに来て、アルバロがそわそわ嫉妬したらいいなーと思ってました。グラシアもグラシアで、エウラリアとアルバロの関係に勝手にやきもきしたりすると可愛いなーと。
などなど、蛇足でした。




