第一話 少年は魔女と出会う
アトラス大陸――エルデンハイム帝国。
その東方の辺境、ダートの村。
少年は、森の中を必死に逃げていた。
村はすでに炎に包まれ、家々は崩れ落ち、人々は魔物に喰われている。
父も母も殺された。
兄は少年をかばい、胴ごと噛み砕かれた。叫ぶ暇すらなかった。
背後からは、なおも断末魔が聞こえてくる。
振り返りたくなかった。――そこには確かに、追ってくるそれがいる。
捕まれば終わりだ。
話し合いなど通じる相手ではない。
ただひとつの本能が、脳裏で鳴り響く。
死にたくない。死にたくない。死にたくない――。
枝葉をかき分け、血だらけの腕で闇の中を走る。
どこへ向かっているのかも分からない。
すでに方向感覚すら失われていた。
息が上がり、視界が揺れる。
そのとき、不意に何かにぶつかった。
「いっ……た!」
人の形をした影。黒いローブをまとい、低くうなるような声を上げた。
それは若い女の声だった。
少年は倒れ込む体を起こし、その人物にすがりつく。
魔物ではないという確証はなかった。
だが、もはやすがるしかなかった。
「た、助けてくれ! 俺を――父ちゃんも、母ちゃんも、兄ちゃ――!」
涙と鼻水を垂らしながら、必死に言葉をつなぐ。
ローブの人物は、黙ったまま少年を見下ろしていた。
「死にたくないんだ……頼む……!」
そのとき、森の奥から耳を裂くような声が響く。
「キッキッキッ! おい、お前! そのガキをよこせ! そいつは俺らの食いもんだ!」
血と腐臭をまとった魔物たちが木々の間から姿を現した。
少年は震えながら、ローブの人物を見上げる。
彼女は無言で少年を抱き上げた。
「おい! 何のつもりだ! そのガキをよこせって言ってんだろ!」
次の瞬間、女はフードを静かに外した。その人物は、少年を抱きかかえるようにし。
「あ、あ、あ……な、何故だ……! なぜ、貴様がここにいる!」
魔物たちは突如、怯えだした。
全身を震わせ、声が上ずっている。
「私がわかるか、魔物ども」
「こ、ここは……お前の住処じゃないだろ! どうしてここに……!」
「ああ。たまたま、この辺の村に用があっただけだ」
女はわずかに顔を向け、遠くで燃え続ける村を見やった。
「私を恐れ、辺境の村を襲っているのか?」
「ち、違――」
「弁明は要らぬ。やはり、貴様らに魔法などという力は過ぎたものだったのだろうな」
その言葉と同時に、光が閃いた。
一瞬の白光。
次の瞬間、周囲を取り囲んでいた魔物の群れは、灰も残さず霧散した。
「く……おぉ……全盲の魔女め……!」
半身だけを残していた魔物が、そう吐き捨てるように言い残し、塵となって消えた。
少年の意識は朦朧としていたが、その言葉だけが耳の奥に残る。
女は大木の根に少年をもたれさせると、音もなく森の闇に消えていった。
――早朝、鳥のさえずりで目が覚める。
昨夜の出来事が嘘のように、森は静まり返っている。
魔物の気配はなく、近くには干し肉や水袋が置かれていた。少年は飢えをしのぐようにそれを貪る。
そして、記憶が一気に蘇る。
村――家族――兄。
少年は立ち上がり、足をもつれさせながら村へと駆け戻った。
だが、そこに人の姿などすでにない、もぬけの殻。
見渡す限り、焼け焦げた家々。
転がる遺体は食い荒らされ、蠢く蛆が白く光っていた。
少年は膝から崩れ落ち、絶叫。
しかし、その声は、誰にも届かない。
それから数日後、村への魔物襲撃の報を受けた帝国軍が現場に到着し、少年は唯一の生存者として保護された。
ダートの村――人口二百を超える小村。
生き残ったのは、たった一人。
本国に戻った彼は、何度も尋問を受けた。
だが、口にするのはただ一つ。
「全盲の魔女に助けられたんだ」
それ以上のことは、何も語らなかった。
あの村で何が起こったのか。それを知るのは、少年――彼自身だけだった。
魔物の気配は確認されていたが、なぜ突然消えたのか。
魔物の食材である、人間の大半をそのまま残して逃げた理由も、まったく分からない。
そして、あの女――全盲の魔女は一体何者なのか。
それも、少年にははっきりとは分からない。
――そして、十二年の歳月が過ぎた。
二十五歳になったウィル・アークラインは、エルデンハイム帝国軍に所属する軍人となっている。
「――い! ……おい! ……おい、ウィル軍曹!」
ヘルメット越しに頭を叩かれ、彼は飛び起きた。
「貴様、移動中に寝るとはいい度胸だな。これから魔獣討伐に向かうというのに……」
上官の呆れたような声に、ウィルは苦笑して息をつく。
悪い夢だった。
けれど――どこか懐かしい夢でもあった。




