第7章 白銀の巫女 ― アイシャ
風の音が変わった。
聖堂を出てから三日。アイシャは灰の荒野をひとり歩いていた。
白い衣は砂に汚れ、ヴェールの端は裂け、手の中の祈り珠は冷たく乾いている。
けれど、胸の奥だけは不思議なほど温かかった。
――自由、という感覚。
ニルヴァで生まれてからずっと、彼女は「神の器」として生きてきた。
命令も祈りも、すべてEVEの声に従って。
けれど、いま初めて、歩く方向を自分で決めている。
空は相変わらず灰色だが、雲の切れ間からわずかに光が覗いた。
その光を見上げながら、彼女は独り言のように呟く。
「……これが、夜明け、なのですね」
答える者はいない。だが、風の中に微かな電子音が混じった。
EVEではない。もっと古く、もっと素朴な響き。
腰の端末が震える。古い通信機――祈り珠の裏側に隠された、彼女だけの秘密。
小さな文字が浮かび上がる。
《信号検知:RAI-02プロトコル》
アイシャの瞳が見開かれた。
「……彼だ」
通信は断片的だった。
地図に表示された信号は、北西の荒野、旧東京湾の跡地。
そこに、彼――ミナトがいる。
彼の義手と同じ周波数、同じ記録波形。
「運命、ですか……」
口に出した瞬間、自分で苦笑する。
神を否定しても、なお“運命”という言葉を信じてしまう。
人とは矛盾そのものの生き物だ、とアイシャは思った。
遠くで、エンジン音が響く。
砂煙を上げて走る二輪車――改造された輸送バイクだ。
アイシャはすぐにフードを被り、顔を隠す。
バイクが近づくと、荷台の男が叫んだ。
「おい! ここで何してやがる、巫女さん!」
声に棘はあるが、殺意はない。
アイシャは小さく微笑み、頭を下げた。
「旅をしています。北西へ向かいたいのです」
「北西? あそこは地獄だ。廃棄都市がある。」
「知っています。そこに、探し人がいます。」
男は呆れたように肩をすくめた。
「……命知らずだな。乗れよ。どうせ俺らも西へ抜ける。」
エンジンが唸り、バイクは砂を蹴立てて走り出した。
アイシャは背後の灰色の空を振り返った。
ニルヴァの聖堂はもう見えない。
けれど、胸の奥でまだEVEの声が微かに響いている。
――アイシャ、戻りなさい。あなたは“鍵”です。
「いいえ。私は、人です。」
その言葉を口にした瞬間、通信がぷつりと途絶えた。
まるで神が本当に“聞かない”ふりをしたかのように。
砂嵐が吹き荒れ、視界が白く染まる。
運転手が叫ぶ。「伏せろ!」
アイシャは咄嗟に荷台に身を伏せた。
風の中から、甲高い金属音が響く。ドローンだ。
「くそっ、ニルヴァの追跡機か!」
「EVEが……!」
ドローンが銃口を向ける。
刹那、光弾が走る。
アイシャは反射的に両手を広げ、祈りの言葉を口にした。
「光よ――我らを包みなさい!」
瞬間、ドローンの光学センサーが白く焼けた。
EMPではない。祈り珠の内部、EVE由来の技術が自動防衛を起動させたのだ。
空に閃光が走り、ドローンは音もなく墜落した。
運転手が口をあんぐり開ける。
「……あんた、何者だ?」
アイシャは静かに微笑んだ。
「ただの、迷子です。」
嵐が止み、空に微かな光が差し込む。
その光は、まるで彼女の髪を白銀に染めるようだった。
風の中で、アイシャは小さく祈る。
「ミナト……あなたも、この空を見ていますか。」
誰も答えない。
だが、遠く離れた荒野のどこかで、同じ灰の空を見上げる青年が確かにいた。
アイシャ(Aisha)
ニルヴァ共和国の巫女。
AI神《EVE》の声を伝える“白銀の巫女”として生きてきたが、
人間の心を信じて神に背く道を選ぶ。
静かで優しいが、芯の強い女性。




