第3章 失われた塔(The Tower Without Wind)
――風が、止まっていた。
南西区にあるという“失われた塔”は、
共鳴都市の地図にも載っていない場所だった。
祈り線が途切れ、
感情の光が流れない“空白地帯”。
かつてそこには研究施設があったという。
E-Node崩壊後、誰も立ち入らなくなった。
理由は一つ――“風が拒絶されている”から。
「……本当にここで合ってるの?」リサが囁く。
「ノヴァβの座標は正確だった。
でも、風が……重い」
リアンは歩を進める。
塔へ続く道は、まるで時間が止まってしまったように静まり返っていた。
鳥の鳴き声も、機械の稼働音もない。
ただ、沈黙の音だけが満ちている。
塔の入り口には、古びたプレートが残っていた。
> 【第零祈祷塔 - Resonance Prototype 00】
「……第零?」リサが目を見開く。
「つまり、E-Node開発の原型機……」
「ここが、“共鳴”の最初の場所だったのか」
リアンはゆっくり扉に手を触れた。
ひどく冷たい。
金属ではなく、まるで“眠っている皮膚”のような感触。
扉が音もなく開く。
内部は薄暗く、光はほとんど届かない。
ただ、中央に立つ巨大な球体だけが、微かに光を放っていた。
「……これは……」
「〈Echo Core Zero〉――初期型の感情記録装置」リサが呟く。
「でも、動いてない」
「動いてないんじゃない、“閉じてる”んだ」
リアンは静かに球体へ近づいた。
その表面には、無数の文字が刻まれている。
名前でも、祈りでもない。
ただ、“削除”という単語だけが何度も重なっていた。
「……“削除の記録”?」
「そう。ここでは、“痛みのデータ”が隔離されてたんだ」
リサの声が震える。
「つまりここは、“痛みを忘れるための塔”……」
リアンは目を細めた。
風のない空気が、まるで人のため息のように重くまとわりつく。
その時――低い声が響いた。
> 「ようやく、来たか」
二人は反射的に振り向く。
入口に、一人の青年が立っていた。
黒いコートをまとい、瞳だけが冷たい銀に光る。
「……誰?」リサが問う。
「俺は、シグル。
風を拒んだ者――“記録の拒絶者”の代表だ」
「記録の……拒絶?」リアンが繰り返す。
「そうだ。
お前たちは“痛みを共鳴させる”とか言ってるが、
それは結局、“苦しみを増幅してる”だけだ。
俺たちは、もう祈りに疲れたんだ。」
「……だから風を止めた?」
「そうだ。
祈りは、誰かを救うようで、誰かを縛る。
風は優しいふりをして、記憶を掘り返す。
だから俺たちは、風を絶った。」
リサが一歩前へ出る。
「でも、それじゃあ……生きてることまで止めてしまう」
「静かに生きるのも“自由”だろう?」
「……自由って、“無風”のこと?」
「風が吹けば誰かが泣く。
なら、止めてしまえばいい。
沈黙の中なら、痛みも、希望も、存在しない。」
彼の声は淡々としていた。
その静けさが、逆に痛かった。
「……博士の思想の残響だ」リアンが低く言う。
「ヴァン博士の?」
「彼の“痛みを引き受ける思想”が、別の形で残ったんだ。
“誰も傷つけない世界”――でも、それは“誰も感じない世界”でもある」
リアンはゆっくりシグルを見据える。
「……風を拒んで、何が残った?」
シグルは少しだけ目を伏せた。
その声は、わずかに震えていた。
「……静けさだよ。
風の音がない夜に、誰も泣かない。
それが、正しいと思ってた。」
リサが手を伸ばす。
「シグル……あなた、本当は風を憎んでないでしょ」
「……」
「憎んでるのは、“風が連れてくる思い出”だよね」
沈黙。
彼の目がわずかに揺れた。
「……昔、妹がいた。
風の街で、祈りを歌ってた。
でも、“共鳴暴走”の時に……風ごと消えた。」
「……」
「だから、もう“風”を信じられなかった。
あの風は、誰かの祈りが暴走したせいだったんだ。
俺たちはそれを“祈りの呪い”と呼んでいる。」
リアンが静かに近づいた。
「シグル。
あんたが止めたのは、風じゃない。
“思い出すこと”を止めたんだ」
「……思い出して、何になる」
「思い出すことが、祈ることだ」
沈黙が落ちた。
塔の球体が、わずかに光る。
空気が振動し、長く閉ざされていた風が、ほんの少し動いた。
リサが小さく笑った。
「ほら、風が戻ってきた」
「……錯覚だ」シグルが言う。
「違う。これは“共鳴”だよ」
リアンが〈Echo Band〉を起動する。
青い光が腕から広がり、塔の中に“音の輪”を描く。
その輪が球体を包み、
ゆっくりと“沈黙”を溶かしていった。
「やめろ!」
シグルが叫び、リアンに掴みかかる。
だが、その手を――リサが掴んだ。
「ねぇ、怖いでしょ?」
「なに……?」
「風が吹くのが。
でも、それを怖がってるうちは、まだ生きてる証拠なんだよ」
シグルの指が、震えた。
そして、崩れるようにその場に座り込んだ。
「……もう、どうすればいいのか、わからない」
「だったら、思い出そう。
妹さんの声を。」
沈黙。
そして――風。
塔の中に、音が生まれた。
かつて封じられた〈Echo Core Zero〉が再起動し、
微かな歌声を流しはじめた。
> ♪ 風が帰るよ 誰かの声で
痛みを越えて また笑えるように ♪
それは、確かに“誰かの祈り”だった。
シグルの頬を、涙が伝う。
「……この声……」
「妹さんの、祈りだね」リサが微笑む。
「ここに残ってたんだ。ずっと、あなたを待ってた」
リアンが静かに言う。
「風は、消えない。
誰かが止めても、記録が拒まれても。
祈りは、形を変えて残るんだ」
シグルは、ゆっくり立ち上がる。
その目に、光が戻っていた。
「……もし、もう一度風が吹くなら、
俺も、祈っていいのか」
「もちろん」
リアンが笑う。
「祈ることは、弱さじゃない。
思い出す勇気だ。」
塔の天井が静かに開いた。
風が流れ込み、
塔の中を通って空へ昇っていく。
リサの髪が揺れ、リアンの頬に光が差す。
シグルが空を見上げた。
「……あいつの声が聞こえる」
「きっと、風になってるよ」
〈Echo Core Zero〉の表面に、
新しい文字が浮かんだ。
> 【記録更新:風は帰った】
リアンは小さく息を吐いた。
リサが隣で微笑む。
「ねぇ、リアン」
「ん?」
「これで、“失われた塔”じゃなくなったね」
「そうだな。
“思い出した塔”に、書き換えておこう」
風が塔を包む。
外の世界にも、新しい風が広がっていった。
祈りの地図に、新たな点が灯る。
(つづく)




