第四部 祈りの地図 第一章 風の地図(The Cartographer of Prayers)
第四部 祈りの地図(Atlas of Resonance)
― 前書き ―
> 「世界は、少しうるさくなった。」
風が戻り、笑い声が戻り、祈りが再び“届く”世界になった。
E-Nodeの光が解かれて数十年――人々は「共鳴都市」を築いた。
かつて“痛み”を均したネットワーク〈ペイル〉は改修され、
今は“感情を翻訳する媒介器”として再利用されている。
人々はそれを**〈Echo Glass〉**と呼んだ。
怒りは、音楽に変わり。
悲しみは、灯りに変わり。
祈りは、風の形で街を巡る。
――それが、今の世界。
しかし、音が戻れば、また“歪み”も生まれる。
人は再び迷い、また願い、また傷つく。
その全てを、誰かが地図に記す。
それが、「祈りの地図」を描く者たち――
**記録者**の仕事だった。
そして今日も、風の街で一人の少年が立ち上がる。
彼の名は――リアン。
セレンが遺した“祈りの設計図”を手にした、次の世代の旅人。
――風の音が、筆を導いていた。
リアンは、崖の上で膝をつき、
透明な板〈Echo Glass〉の上に線を描いていた。
その板は、古代のペイル素子を再構成したものだ。
彼が心の中で思い浮かべた感情が、微弱な光となって線になる。
“感じること”そのものが、今の時代の“記録術”だった。
「……よし、北の丘陵は“安堵”が多いな」
リアンは口の端を上げた。
感情の流れを地形のように見立てて描く――それが彼の仕事。
人々の祈りを“地図”に変える職人、それが記録者だ。
背後から、軽い足音。
「おーい! また一人で描いてるの?」
振り返ると、風をまとう少女が立っていた。
白いスカーフが、風に乗って踊る。
「リサか。仕事中だぞ」
「仕事っていうより、趣味でしょ?」
「趣味なら、もう少し寝てたい」
「ほらね、やっぱり趣味」
リサはにっこり笑って、リアンの隣にしゃがみ込む。
彼女の目は、空の色に似ていた。
「“祈りの地図”、今日の形はどんな?」
「穏やかだよ。風も、人の心も。
でも、南の街では“怒り”が強くなってる」
「また政治地区?」
「たぶん。感情が渦を巻いてる。音の波形が荒れてる」
「……放っておけないね」
リサの声が、少しだけ沈む。
彼女の職は、“祈り翻訳官”。
感情を言葉に戻す専門職だ。
「ねぇ、リアン。
“怒り”の地図って、どう描くの?」
「簡単だよ。線を引く手を、ほんの少し速く動かす」
「そんなことで変わるの?」
「変わるさ。手の速度が、心の温度を写す」
リサはしばらくリアンの手元を見つめていた。
風に揺れる光の線が、まるで生き物のように踊っている。
「……ねぇ、リアン」
「ん?」
「あなた、誰に教わったの?」
「誰って――昔の記録だよ。『黎明の継承者』の」
「“セレン”?」
「そう。彼が描いた“初代の地図”が、この世界の基礎になってる」
「会ったこと、あるの?」
「まさか。彼は、もう“風の中”にいる」
「でも、感じる?」
「うん。
風が“痛い”ときは、彼が泣いてる。
風が“柔らかい”ときは、彼が笑ってる」
リサはそっと微笑んだ。
「ねぇ、リアン。あなたも、誰かの“風”になるのかもね」
「風ってのは、誰かがいなくなったあとに吹くものだろ」
「違うよ。
誰かが“今ここにいる”ときにも、ちゃんと吹くの」
二人の笑い声が風に混じる。
空の向こうには、再生した街の輪郭。
灰域はもう、“灰色”ではなかった。
代わりに、無数の光と音が行き交う“共鳴都市”が広がっている。
その上を、祈りの粒子が流れた。
空は少しうるさく、そして、とても優しかった。
(つづく)




