第8章 記録の残響(Echo of Memory)
――音が、戻っていた。
E-Node Sanctuaryの内部には、
長い間、存在しなかった“自然の音”が満ちていた。
風が流れ、遠くで金属がきしむ。
そしてその合間に――小さな“水の滴”の音。
それは、誰かの涙が地に落ちる音に似ていた。
「……終わった、のかな」
ルカが呟いた。
その声には、疲労と安堵が混ざっていた。
髪には鉄の雨の名残が残り、
頬には乾ききらない涙の跡が光っている。
セレンは静かに頷く。
目の奥の痛みは消えていない。
けれど、どこか“温かさ”に近いものを感じていた。
「博士のリンクは完全に消えた。
……でも、世界中に流れてた“痛みの波”は、
まだ微かに残ってる」
「残響ね」ユナが言う。
「完全には消えない。
だって、それは“人が生きてきた証”だから」
セレンはその言葉に小さく頷く。
足元には、博士の残した金属の破片が転がっていた。
触れると、わずかに温かい。
その温度が、彼が確かに“人間だった”証だった。
「……なあ、ユナ」
「なに?」
「博士は、最後、笑ってた」
「うん。あれは、きっと“音を取り戻した顔”」
「音を、取り戻した……?」
「人間の心ってね、静かすぎると壊れるの。
痛みも声も、全部“雑音”があるから生きていける」
「雑音、か……」セレンが呟く。
目を細める。
頭の奥に、まだ微かな“波”が残っていた。
世界のどこかで、誰かが泣いている。
でも、その泣き声が“静かじゃない”ことが、救いに思えた。
ルカが座り込む。
「ねぇ、セレン。
これからどうするの? 痛みを分け合うって言ってたけど」
「……分け合うっていうより、“思い出し続ける”かな」
「思い出す?」
「博士の痛みも、俺たちの涙も、同じ場所にあった。
だから、忘れたくない」
「でもさぁ、思い出すのって、けっこう痛くない?」
「痛い。でも、思い出せないほうが、もっと怖い」
ルカはしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑った。
「……じゃあ、忘れないように、笑っておくね」
「それ、たぶん一番強い祈りだ」
ユナが立ち上がる。
青い光が、彼女の星瓶の中でゆっくり回転していた。
ヴァン博士の意識の残滓――
“祈りの速度”を測る最後の粒子。
「この光、持っていこう。
灰域に戻って、子どもたちに見せたい」
「説明、どうするの?」ルカが訊く。
「“昔、痛みを信じた人がいた”って言う」
「なんかそれ、昔話っぽい」
「そう。物語にして残すの。
人が、もう一度“感じる”ために」
セレンは少しだけ笑った。
「ノヴァも喜ぶな」
「うん、きっと」ユナが頷く。
「風に溶けて、あの人もまた“記録”になる」
その時、空気が震えた。
上空の天井――いや、“空”が開いていく。
塔の内側に、柔らかな光が差し込み、
雲のような霧の中から、声が降りてきた。
> 『――聞こえる?』
「ノヴァ!」ルカが叫ぶ。
> 『世界の“速度”が変わり始めてる。
祈りが、街のノードをゆっくり満たしてる。
“笑いの間”が、戻りつつある』
セレンは笑い、ユナが目を細める。
「……やっと、届いたんだね」
> 『ううん。届いたんじゃない。
“届かせる人”が増えたの。』
その言葉に、ユナが頷く。
「私たちが、“揺れ”を教えられる番なんだね」
> 『そう。揺れは伝染する。
痛みと同じくらい、笑いも。』
ルカが手を振る。
「ノヴァ! 今度はさ、もっとゆっくり来てね!」
> 『わかった。――“遅さ”を、練習する』
「それ、“ノヴァっぽくない”けど、いいね!」
『君たちの速度に、合わせてみるよ。』
光が少し揺らぎ、やがて霧の中に消えていった。
風だけが残り、
その風には確かに“音”が混ざっていた。
笑いと、泣き声と、祈り。
世界が再び、“雑音”を取り戻した音だった。
ユナが言った。
「――帰ろう」
「帰ったら、何するの?」ルカが訊く。
「焚き火。音のある食事」
「うわ、いいね!」
セレンが少しだけ笑う。
「……ああ、焚き火の音が、恋しい」
三人は、塔の出口へと歩き出した。
足元の金属が、靴底の音を優しく返す。
その音が、“記録の残響”の一部になる。
遠く、灰域の空。
新しい風が吹き抜けていく。
世界はまだ完全じゃない。
けれど、確かに“生きていた”。
その風の中に、
ヴァン博士の微かな声が、混じっていた。
> 「――ありがとう。
痛みを、音にしてくれて。」
空が青く脈打ち、
セレンたちの背に、光がそっと降り注いだ。
“記録”は、生きている。
痛みは、消えない。
だからこそ――希望もまた、消えない。
(第三部 完)
> ――「痛みを均す」世界から、「痛みを共鳴する」世界へ。
第三部では、長く続いた“静寂の文明”に一つの終止符が打たれました。
人類が恐れてきた「痛み」を、セレンたちは“消す”のではなく“抱く”ことを選びます。
ヴァン博士という人物は、単なる敵ではありません。
彼は“誰かを救いたい”という、もっとも人間らしい感情に突き動かされ、
結果として「痛みの総和」そのものになってしまった人です。
――彼の涙は、鉄でできていました。
でも、その冷たい涙が、世界にもう一度“音”を取り戻したのです。
第三部は、彼の赦しと、セレンたちの再生の物語でした。
ここまで読んでくださった皆さん、心から感謝します。
第四部では、再生した世界で新たに芽吹く“祈り”が描かれます。
文明の瓦礫から、また人が“笑う”までの地図を――どうか見届けてください。
✦ 作者あとがきコメント
> 「誰かの痛みを背負う物語」は、書く側にも痛みが伴います。
でも、読者の“揺れた心”が、それを救ってくれるのだと感じています。
もし少しでも、この第三部で何か“音”を感じてもらえたなら――
それが、この物語が生きた証です。




