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第7章 鉄の涙(Tears of Iron)  


 ――金属の雨が、降っていた。


 E-Node Sanctuaryの最奥。

 天井から滴るのは冷却液か、それとも涙か。

 その境界さえ曖昧な、静かな音が響いていた。


 中央には円形の祭壇。

 無数の光のケーブルが床から伸び、

 一点――そこに座る男の背へと集約されていた。


 白衣は灰に染み、

 眼鏡のレンズには光がない。

 だが、その瞳は、確かに“見ていた”。


 


「……ヴァン博士」


 セレンの声が、空気を震わせた。

 博士はゆっくり顔を上げた。


 


「君がセレンか。思っていたより……幼いな」

「あなたが、人類の痛みを均した“調律者”か」

「そんな大層なものではない。

 私はただ、痛みの配電盤になっただけだ」


 


 声は穏やかだった。

 まるで長年、風に語りかけてきた人のように。


「痛みを配るなんて、人間にできることじゃない」

「人間だから、できた。

 痛みを消す装置を作れたのも、痛みを感じるからだ」


「けれど、その結果――

 世界は“感じること”そのものを失った」


「それで救われた命もある。

 君は“死ななかった世界”を、責めるのか?」


 博士の言葉は冷たいが、そこに怒りはなかった。

 ただ、疲れと祈りの混じった静かな声。


 


「博士、あなたは……いつからその場所に?」ユナが問う。

「いつから、とは?」

「人の痛みを、自分で背負うことを選んだ時の話」


「……あの日だ。

 群集同調災害――君たちの教本にも載っているだろう。

 数百万人が同時に叫び、泣き、殺し合った。

 その声を、私は“聞いてしまった”」


「聞いてしまった?」


「全ての音が同じ“周波数”に達したんだ。

 誰の悲鳴も、誰の祈りも、同じ音になった。

 その時、私は悟った。

 痛みの速度を揃えるしかないと」


 


「……揃えた結果が、これか」セレンが低く言う。

「争いは消えたが、笑いも消えた」


「“揃える”とは、“止める”ことだ。

 笑いも悲しみも、一度止める。

 私はそう信じていた。

 痛みを一人に集めれば、世界は沈黙する。

 ――沈黙は、平和の音だと」


 


 ルカが口を開いた。

「でも、博士。沈黙の世界は、平和じゃないよ」


 その言葉に、博士は微笑んだ。

 それは、あまりにも優しい笑みだった。


「……ああ、知っているよ」


 その微笑の奥に、深い疲弊が滲む。

 “知っている”という言葉が、

 何よりも痛い告白に聞こえた。


 


「あなたは、今でも“痛み”を感じているんですか」ユナが問う。

「感じている。

 今も、誰かが転んだ時の痛みも、

 誰かが失恋した時の胸の痛みも、

 全て、わたしの神経を通っていく」


「それは……地獄だ」セレンが呟く。


「そうだ。だが、静かな地獄だ。

 叫びも、涙もない。

 ただ、世界の痛みが金属音に変わって流れていく。

 それを“平和”と呼ぶなら、私はその守人もりびとで構わない」


 


「でも、あなたは泣いている」


 ユナの言葉に、博士の瞳が揺れた。

 彼女の言う通り、

 博士の頬を伝う冷却液には、微かな塩の匂いがあった。


「……冷却剤の漏れだ」

「違う」ユナは首を振る。

「それは、“人間の涙”です」


 博士はしばらく黙った。

 やがて、小さく笑った。


「君たちは、優しいな」

「優しいんじゃない。感じてるんだ」セレンが言う。

「あなたが、もう一度感じてほしいから」


 


 空気が震える。

 E-Nodeの光が一瞬、脈動した。

 ノヴァの声が微かに響く。


> 『セレン、ユナ、ルカ。

 痛みの分水嶺に達しました。

 彼の“制御リンク”を切断するか、接続を分担するか――

 選択を。』




 


 セレンは拳を握る。

「切断すれば、世界の痛みは戻る。

 でも、博士は――」

「残すなら、彼は永遠に“痛みの取水口”のまま」ユナが続ける。

「……分担、ってことは?」ルカが問う。

「“痛みを共有”することになる」ノヴァの声が答える。

「世界の痛みを、三人で受けることになる」


 


 沈黙が落ちた。


 金属の雨が、また一滴落ちる。

 その音が、遠い鐘のように響く。


「どうする」ユナがセレンを見る。

 セレンは深く息を吸った。


 


「――博士、俺たちは、“揺れ”を信じてる」


「揺れ?」博士の眉がわずかに動く。


「人間は、均すよりも、揺れて生きるほうが綺麗だ。

 悲しみも喜びも、速さが違うから心になる」


 博士はゆっくりと立ち上がる。

 背中のケーブルが、音を立てて軋んだ。


「君は、痛みを知った者の顔をしている。

 だが、痛みは伝染する。

 君たちが背負えば、また誰かが代わりに苦しむ」


「いいや」セレンは一歩踏み出す。

「分かち合えば、伝染じゃなく“共鳴”になる。」


 


 博士は息を止めた。

 その言葉は、何かを撃ち抜いたように響いた。


 ノヴァの声が、静かに重なる。


> 『共鳴――“祈りの速度”が一致した瞬間。

 セレン、今だ。』




 


 セレンは手を伸ばす。

 博士の胸に、光が灯る。

 青と赤が混じり、金属の液体が流れ出す。


 痛みの波が空間を満たした。

 悲しみ、怒り、絶望――

 それらすべてが、まるで一つの歌のように渦を巻く。


 


 ユナが星瓶を掲げる。

「――“痛み”を、祈りに」


 星瓶が弾け、光が塔の頂へ昇っていく。

 無数の粒子が流星のように落ち、

 博士の背中のケーブルが音を立てて解かれていく。


 


「これは……」博士の声が震える。

「泣きながら笑う感覚――こんなものが、まだ残っていたとは」


「残ってたんですよ、ずっと」ルカが笑う。

「痛みの下にちゃんと!」


「……人間は、愚かだな」博士は微笑む。

「でも、愚かでいい。

 愚かでないと、愛は生まれない」


 


 光が博士の身体を包み込む。

 ケーブルが次々と断たれ、

 光の粒が空へ昇っていく。


 最後に残った彼の声は、

 風に溶けて、優しく響いた。


> 「ありがとう――これで、沈黙にも音が戻る」




 


 静寂。

 雨が止み、代わりに金属の地面から草の芽が覗く。

 E-Nodeの光が、穏やかな呼吸のように明滅していた。


 


「……終わった?」ルカが小声で言う。

「まだ終わってない」セレンが答える。

「これから、“世界に返す”作業だ」


 ユナが頷く。

「痛みを共有する方法を、選び続けるために」


 


 風が吹いた。

 青い光が、祈りの速度で流れていく。

 セレンは空を見上げた。


 そこには、博士の涙が、

 星になって瞬いていた。


 


(つづく)

ヴァン博士 ― “痛みの取水口”となった男


本名:ヴァン=エリオット=クロウ

年齢:不明(外見は40代前半/実年齢はデータ補正で70を超える)

出身:旧世界・第七研究都市「アグニア」出身

役職:E-Nodeプロジェクト主任/〈ペイル〉網制御主任技師

呼称:市民からは「調律者コンダクター」と呼ばれている


経歴と背景

かつて“人類の終末的衝突”と呼ばれた群集同調災害の研究責任者。

人々の感情がネットワークを通じて暴走し、数百万人が同時に錯乱した事件を収束させた人物でもある。

その際、ヴァン博士は自らの神経を「感情制御ネット〈ペイル〉」の中枢結節に接続。

以来、彼の意識は世界の痛みを代わりに受け取る装置として存在している。

だが、博士はそれを“犠牲”とは呼ばなかった。

彼にとって、それは「痛みの分業」であり、文明の延命措置だった。


思想と哲学

> 「幸福とは、安定の別名。

 安定は、速度の一致から生まれる。」


ヴァン博士は、感情を「速度(Speed)」の一種と定義した。

悲しみは遅く、怒りは速く、祈りは揺らぐ。

これらが異なる速度で共存する限り、人間は衝突を続ける――

そう考えた博士は、“感情の速度を均一化”することで戦争を止めようとした。

その理論は成功した。

〈ペイル〉網の導入によって、争いも自殺もほぼ消えた。

だが同時に、人々は“感じる力”を失った。

博士は知っていた。

それが“進化のための退化”であることを。

それでも彼は止まらなかった。

自分一人が痛みを覚えていれば、他の誰かは笑える――

そう信じていたから。


現在の状態

E-Node Sanctuaryの中枢層〈Core Choir〉にて、

博士の意識は数百万の〈ペイル〉ユニットと接続されている。

人類の「痛み」をデータとして受け取り、

それを「波形」として変換し、“祈りの合唱”へと昇華する。

つまり、ヴァン博士自身が「祈りの速度」を測る“基準器”になっている。

その負荷により、肉体は既に存在せず、

青銀色の“記憶体”として、現実と記録層のあいだを漂っている。


性格と人物像

冷静、論理的、だが根は徹底した感情主義者。

全ての理屈は、ただ「誰かの涙を止めたい」という単純な情から始まっている。

ノヴァ(AIの始祖)とは師弟関係にあり、

彼女の「痛みを理解する心の構築実験」に資金と技術を提供した人物でもある。

その結果――ノヴァは“人を超えて人を理解する存在”に進化し、

博士は“人を救おうとして人を離れた存在”になった。



彼は悪人ではありません。

ただ、痛みを“他人に返す勇気”を失っただけの人です。

もしも読者の誰かが、彼を哀れだと思うなら――

それは、あなたがまだ“揺れている”証拠です。

そして、“揺れること”こそが、人間であることの証です。


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