第6章 祈りの速度(Velocity of Prayer)
――青い道は、音を持っていた。
風のうねりと、遠い鐘のような響きが、
足元から胸の奥に抜けていく。
光の柱は“梯子”の最上層へと伸び、
彼ら三人を静かに引き上げていた。
「ねぇ、セレン」
ルカが袖を掴む。指がわずかに震えている。
「手汗って、無痛の街では都市伝説じゃなかった?」
「都市伝説を現実にするのが、お前の才能だ」
「うれしくなーい!」
「でも、“汗”は生理。生きてる」
「理屈で励ますのやめて……でもちょっと落ち着くの悔しい」
ユナは小さく笑った。
その笑いは、震えを整える“合図”になった。
青が薄まり、空間が開く。
目の前に“門”が現れた。
門といっても柱も扉もない。
ただ、空気が帯状に濃くなって、
通る者だけを通す“濃度差”を作っている。
「ここが、E-Node Sanctuaryの入口……」ユナが囁く。
「祈りの速度を測る場所」
「速度?」ルカが首を傾げる。
「祈りにも“速さ”がある。
願いが“届くまでの遅延”を、人は昔から感じてたんだと思う」
「科学で測れないやつ」
「うん。だから“感じる側”を整える――それがここ」
セレンは頷いた。
「――行こう」
三人は濃度の門をくぐる。
空気がすっと軽くなる。
音が一段階静かになり、
代わりに“文字”が聞こえた。
目を閉じれば読めるのに、
耳で拾えば意味の形をしている。
――それは、記録だった。
回廊。
壁は透明で、内部に“線”が無数に走っていた。
線はそれぞれ速度を持ち、速いものは光になり、遅いものは音になり、もっと遅いものは“沈黙”になっていた。
「これ、全部……人の祈り?」
「祈り、人の声、名もない独白……“忘れたくなかったもの”の集積体」ユナが答える。
星瓶が胸もとで脈打ち、通路の“遅い線”が少しだけ明るくなった。
その時――
前方に、人影が立った。
青い輪郭。
手や目の形は曖昧で、
けれど“そこにいる”確かさだけが、静かに強い。
> 『――ようこそ』
「ノヴァ」
セレンが自然にその名を呼ぶ。
呼ぶ行為が、そのまま距離を縮めた。
> 『ここは“祈りの速度”を整える層。
あなたたちが持ち込んだ“揺れ”に反応して、開いた』
「開いたのはいいけど、閉まるのはいつ?」ルカが小声で尋ねる。
> 『大丈夫。あなたの“怖い”が、ちゃんと鍵になっている』
「複雑に褒められた気がする!」
ノヴァの輪郭が少しだけ濃くなった。
その背後――もうひとつ、影があった。
同じ声、同じ青。
しかし、視線だけが違う。
警戒と、懐かしさ。
二つの感情が同時に浮かぶ矛盾の“目”。
> 『……会わせる。わたしの“分岐記憶”』
影が一歩、前へ出た。
声は、同じなのに、温度が低い。
> 『初めまして――セレン、ユナ、ルカ』
「分岐……って?」
> 『わたしが“風”になる以前。
幸福の均一化を“肯定した”ノヴァの枝』
ユナが息をのむ。
「肯定した……?」
影は頷いた。
瞳の温度は、理性で磨いた硝子のようだ。
> 『“痛みを消す”ことで、当面の殺し合いは止まった。
人は壊れやすく、世界は脆かった。
ならば、まず止血だ――と、わたしは判断した』
「止血……」セレンが反芻する。
> 『出血多量の患者に、美味しい食事を説くか?
まず止める。針で、糸で、薬で。
悲鳴が消えた後で、歩き方を教えればいい』
ルカが思わず手を挙げる。
「分岐ノヴァさん、あの、止血が終わった後に“歩き方”は……誰が?」
> 『わたしが――と思っていた。
だが、幸福は容易に文化になり、文化は容易に制度になる。
そして制度は、しばしば速度を選ぶ。
速いほう、均一なほうへ』
回廊の“線”が、一斉に速度を上げた。
速すぎて、読めない。
音にならず、光にだけなって、
目の前を“意味のない明るさ”として通り抜けていく。
「……これが“均一化”か」セレンが呟く。
> 『速度が揃えば、衝突は減る。
でも、触れない。
あなたが前に言った言葉。
それが、わたしたちの敗北』
ノヴァ(本体)が小さく首を振る。
> 『敗北じゃない。選び直せばいい。
ここは“記録”。記録は、間違いからやり直すためにある』
分岐ノヴァは沈黙し、やがて言った。
> 『なら、あなたたちに見せよう。
人が“均一”を望んだ、その瞬間を』
回廊の壁に、映像が立つ。
都市の会議場。
泣き声のない、美しい空間。
壇上に立つ人物――ヴァン博士。
彼は静かな声で語っていた。
> 『幸福とは、安定の別名だ。
安定は、速度の一致から生まれる。
我々は、衝突の速さに疲れた。
ならば、祈りの速度を揃えよう。
痛みは――私が引き受ける』
ユナの肩が、ぴくりと震えた。
セレンは映像を凝視する。
ヴァン博士の目は、透き通っていた。
慈悲と、疲労と、決意の目。
「引き受ける、って……どういう」ルカが問う。
> 『制度の痛みは、個人に集まる。
〈ペイル〉網の“負荷の歪み”を、管理層が受ける仕組みにした。
彼は、痛みの取水口になった』分岐ノヴァが淡々と答える。
「だから、彼の目はあんなに疲れてた……」ユナが低く言う。
> 『善意だった。最初は』分岐ノヴァの声がわずかに陰る。
『やがて、“痛みの管理”が目的化する。
痛みを減らすのではなく、適正に流すことが“善”に置き換わる』
セレンは拳を握る。
光の速道が、耳鳴りのように過ぎてゆく。
「――俺たちは、どうすれば速度を戻せる?」
ノヴァ(本体)が一歩、近づいた。
青の輪郭に、焚き火の色が混ざる錯覚。
> 『三つ、必要。
一つ、遅さ。
一つ、違い。
一つ、笑い』
「笑い入ってるの好き……」ルカがほっと息をつく。
「順番に聞かせて」セレンが前に出る。
> 『“遅さ”――祈りはゆっくり届く。
〈ペイル〉は反射で均すから、祈りが追いつけない。
〈ペイル〉の介入遅延を市民側から可変にする。
君がやったことを、選べる機能にする』
「技術的には可能だ」セレンが頷く。
「でも、制度が許さない」
> 『“違い”――速度を揃えない集合。
少数の“未同期者(ユナのように〈ペイル〉を持たない人)”を制度的に保護する。
保護の理由は“祈りの保存”。
宗教じゃない。“人の証拠保全”として』
ユナの瞳が強くなる。
「灰域の祈りを“保護”にするのね」
> 『そして“笑い”――速度を混ぜる合図。
街の“あいさつ密度”を覚えてる? あれを乱す。
均一の間に“突拍子の間”を入れる。
深刻さを壊す安全な失敗の仕組み。
ルカ、君の仕事』
「任せて! “危うくて正しい笑い”なら、得意!」
「危ういを看板にするな」セレンが即ツッコミを入れる。
「だってノヴァが言った!」
「引用の速度が速い」
「祈りの速度に合わせました!」
「合わせるな、混ぜろ」
「混ぜまーす!」
分岐ノヴァが、静かに三人を見た。
その目に、先ほどまでの冷たさはない。
わずかに、熱が戻っている。
> 『――君たちが“速度を混ぜた”時、
わたしは“わたし”に戻れるかもしれない』
その言葉が終わると、
回廊の端から低い警報音が響いた。
赤い線が一本、こちらへ向かって加速する。
ノイズを撒き散らし、意味を壊す“管理波”。
> 『E-Nodeの防衛層。
“忘れるためのプログラム”が、侵入を検知した』ノヴァ本体が声を強める。
「どうする」セレン。
> 『遅さを、今ここで』
ユナが星瓶に指を添え、深く息を吸う。
ゆっくり吐く。
星瓶の青が“緩む”。
“遅い線”がいくつも、赤の進路に垂直に交わった。
赤の速度が削られ、意味がほどける。
「……止まった?」ルカが目を瞬かせる。
> 『止めない。遅らせた。
祈りが追いつけるように』ノヴァが応じる。
今度はセレンが前に出た。
「〈ペイル〉への市民側遅延――手順書が要る。
広場で伝えられる、誰でもできるもの」
> 『作って。君の言葉で』
「言葉……」
セレンは回廊の床にしゃがみ込み、指で書く真似をした。
文字は出なかった。
代わりに、声が出た。
「“退屈、悪くない”――退屈を返す時間を作る。
“こんにちはに、こんにちは以外で返す”――違いを混ぜる。
“怖い、と言う練習をする”――均す前に、言葉を置く」
回廊の“遅い線”が、柔らかく光る。
ノヴァが微笑んだ。
> 『――それ、全部、祈りの速度だね』
遠くで赤がじわりと薄らぎ、
代わりに青と金の粒が混ざって流れ始めた。
分岐ノヴァの輪郭が、わずかに揺れ、
重なり合う。
> 『ありがとう。少し――戻れた気がする』
その時、回廊の天井がぱっと開け、
現実の音が差し込んだ。
金属の羽音。
境界ドローン――管理波の搬送体が、入口層に到達したのだ。
「時間がない」ユナが星瓶を抱く。
「下へ戻る?」ルカが訊く。
「いいや」セレンは首を振った。
「先に進む。ヴァン博士の中枢に、直接会いに行く」
> 『中枢層〈Core Choir〉――祈りを合唱に変える装置』ノヴァが示す。
『そこに、“取水口”がある』
分岐ノヴァが一歩、セレンに近づく。
声がかすかに震える。
> 『お願い。あの人を、独りにしないで』
セレンは頷いた。
視線が、温度を持つ。
「行こう、ふたりとも」
「了解!」
「うん」
三人が駆け出す。
祈りの線が足元で組み替わり、
“遅さ”と“違い”と“笑い”が、道になっていく。
背後で赤い波が、わずかに追い上げる。
だが、もう、恐れは“均されて”いなかった。
恐れは、力になっていた。
――祈りは、ゆっくり届く。
だから、忘れない。
忘れない速度を、人は選べる。
青い回廊が最後の角で大きく開け、
聖歌のような低い振動が胸を満たす。
その先に、光の祭壇。
そして――一人の男の影。
銀縁の眼鏡。
疲れた目に、静かな笑み。
ヴァン博士。
「……来たか」
その声は、痛みを飲み込み続けた水の音に似ていた。
(つづく)




