第3章 忘れられた涙(The Forgotten Tears)
――朝が、熱かった。
灰域の朝は、
都市の朝よりもざらついていて、
光の粒が肌に刺さるようだった。
セレンは目を開けた瞬間、
額に流れる“ぬるい感覚”を感じた。
「……なんだ、これ」
手を当てる。
指先に触れたのは、
ほんの少しの水。
でも、それは汗じゃなかった。
――涙。
その言葉を、
セレンは知識としては知っていた。
けれど、
実際に“出した”ことはなかった。
都市で生まれた人間は、
涙腺活動を制御するプログラムがある。
悲しみが閾値を超える前に、
感情は〈ペイル〉により“平準化”される。
つまり――
涙は、忘れられた行為だった。
「セレン?」
ユナが覗き込む。
焚き火の跡の灰が風に舞い、
朝の光が彼女の頬にかかっていた。
セレンは慌てて顔をそむけた。
「な、なんでもない」
「なんでもない顔じゃない」
「いや、本当に――」
「ほら、目、赤いよ」
ユナは優しく笑い、
指でセレンの頬に残る水滴を拭った。
その瞬間、〈ペイル〉が反応した。
“感情変動:異常”
“感情調整を開始します”
冷たい波が、首筋を走る。
体温が均されていく。
あの“熱”が、消えていく。
セレンは、反射的に手を伸ばした。
「やめろ……っ」
首筋のノードを押さえる。
電流のような痛み。
でも、止めた。
“均す”より、“残す”ほうを選んだ。
「……痛い?」
ユナの声が静かに問う。
「痛い。でも、消したくない」
「じゃあ、それが“生きてる”ってこと」
ユナは焚き火の残りを掻き、
火種に小枝を足した。
ぱち、と音がして、
新しい炎が小さく立ち上がる。
「火もね、放っておくと消えちゃうの。
でも、ちゃんと“痛み”を与えれば、燃える」
「……人間も、同じ?」
「うん。痛みがあるから、あたたかい」
セレンは黙って火を見た。
ゆらぐ光が、視界の奥で滲んでいた。
「……これが“涙”なのか」
「うん」ユナが頷く。
「泣くって、心が動いてる証」
「悲しくないのに、出るんだな」
「悲しみだけじゃないよ。
生きてるって、たぶん“揺れる”ことだから」
セレンは、
“揺れる”という言葉を、
初めて“肯定”として受け取った。
***
昼過ぎ。
ルカは虫除けのバリアシートを身体に巻きつけ、
全身をサナギのように包んでいた。
「ねぇ……これ、私まだ人間かな……」
「見た目は繭だな」セレンが即答する。
「ちょっと! 友達を繭扱いするな!」
「虫に勝つための装備だろ」
「虫に負けないために、女の子は努力するの!」
「それ、もはや生存競争だな」
「でもね! 灰域の朝ごはん、超うまい!」
「……食べ物は?」
「これ! ユナにもらった干し実!」
「……硬い」
「“食べる前に噛む”が合言葉だよ!」
「それ、当たり前じゃ……」
彼らの掛け合いに、ユナは静かに笑った。
都市の人たちは、みんなこうなのかと思いながら。
「そういえばセレン」ユナがふと口にする。
「あなたの〈ペイル〉、昨夜から信号が不安定みたい」
「分かってる。たぶん、昨日の……涙のせいだ」
「止めなくていいの?」
「止めたくない」
ユナは少し驚いたように目を見開いた。
「……都市の人って、“痛み”を怖がると思ってた」
「怖いよ。でも、怖いって感情も、初めて“本物”に感じた」
「それが嬉しいの?」
「分からない。けど……たぶん、悪くない」
ルカが口を挟む。
「ねぇ、“怖い”と“悪くない”って両立するの?」
「する」セレンが即答。
「変なの」
「ルカ、お前昨日“痛い”って叫んでたけど、結局生きてるだろ」
「うん、ちょっと誇らしい!」
「誇りの基準どうなってるんだ……」
「セレンが真面目だから、私がボケるんだよ!」
「それ、ペアリングの副作用か?」
「副作用が日常だよ!」
「……その名言やめろ」
笑い声が灰域に響く。
その音が風に乗って、
遠くの瓦礫にまで届いていく。
ユナはそんな二人を見ながら、
どこか懐かしい気持ちになっていた。
彼女の祖母も言っていた。
> 「笑い合えるうちは、大丈夫。
> 涙と笑いは、同じ泉から出てくるからね。」
その言葉を思い出しながら、
ユナは焚き火に薪を足した。
***
夕方。
太陽が沈み、空が赤く焼ける。
灰域の空気が、金属のような匂いを帯びた。
セレンの〈ペイル〉が、再び微かなノイズを発する。
熱。頭の奥で何かが弾けるような感覚。
ユナが気づいた。
「……セレン?」
「……ああ、平気。ちょっと、重いだけ」
「顔、白いよ」
「もともと白い」
「いや、今は“透明”に近い」
「例えが怖い」
軽口を返そうとしたが、
その声が途中で震えた。
――痛い。
胸の奥が焼けるように熱い。
〈ペイル〉の青いライトが、赤に変わる。
抑制信号が暴走している。
身体の感覚がバラバラにずれていく。
ユナが慌てて駆け寄った。
「セレン! ノードが――!」
「触るな……これは俺の……問題だ……!」
息が荒く、視界が滲む。
都市ではありえない、感情の過剰負荷。
記憶が断片的に蘇る。
ノヴァの声、火の匂い、涙、そして“あの青い光”。
> 『――君は、まだ痛みを覚えているの?』
セレンの中で、何かが弾けた。
意識の奥で、〈ペイル〉が“破綻”する音。
冷却信号が途絶え、身体に“重さ”が戻る。
鼓動が速くなり、呼吸が荒くなり、
――そして。
涙が、あふれた。
都市で忘れられた、生理反応。
抑えきれない、揺れの証。
ユナはその手を取り、強く握った。
「大丈夫。怖くない。
それはね、“生きてる”って証だから」
「痛い……でも、止まらない……」
「止めなくていい」
「……止めない……もう、止めない」
セレンは泣いた。
声を上げずに、静かに、ただこぼれるままに。
その涙は、〈ペイル〉の赤を溶かし、
光の粒のように、首筋を伝って落ちた。
ルカがその様子を見つめ、
いつになく真剣な声で言った。
「……ねぇユナ。
これが、セレンの“怖がる練習”の成果?」
ユナは微笑んだ。
「ううん、“感じる練習”の始まりだよ」
風が吹いた。
灰域の空に、遠く星の光が滲む。
夕闇の中で、セレンの頬を伝う涙が、
ほんの少しだけ、光を反射した。
ノヴァの声が、
どこからともなく聞こえた気がした。
> 『――それでいい。
> 痛みを、忘れなければ。
> あなたは、きっと“人”のままでいられる。』
焚き火の炎が小さく揺れる。
その揺らぎは、まるで“心臓の鼓動”のように見えた。
セレンは静かに息をつく。
「……ねぇ、ユナ」
「なに?」
「俺、たぶん今、怖いけど……
それ以上に、“生きてる”気がする」
ユナが微笑む。
「なら、もう大丈夫。
“痛み”を忘れない限り、あなたは壊れない」
その言葉に、
セレンは初めて“笑いながら泣く”という感情を知った。
灰域の夜が静かに降りてくる。
焚き火の火はまだ消えず、
その上に、ひとつだけ星が瞬いた。
それはまるで、
涙の形をした――青い星だった。
(つづく)
■ ユナ(Yuna)
性別:女性 年齢:16歳 出身:灰域〈アッシュフィールド〉
> 「痛みを知るのは、悲しいことじゃない。――それは、生きてる証だから。」
禁忌区域〈灰域〉で暮らす“語り部”の少女。
人間と機械の境界が曖昧になったこの時代において、
古い言葉・祈り・歌を記録する仕事をしている。
感情制御装置を持たない純血の人間であり、
ハルモニア市民からは“未調整者”と呼ばれる。
だがその瞳には、まっすぐな生命力と優しさがある。
セレンとの出会いが物語を動かし、
彼に「痛みを受け入れる」意味を教える存在。
外見:
黒に近い深藍の髪を背中まで伸ばし、古布を巻いて束ねている。
服装は旧世紀の民間衣装をリメイクしたもの。首元には古い銀のペンダント(ノヴァの記憶装置の欠片)。




