第2章 灰域の少女(The Girl of the Ash Field)
――空が、ざらついていた。
ハルモニア都市から南に数十キロ。
管理区域を抜けた先に、通信も監視も届かない“灰域”がある。
地図では「非推奨領域」。
でも、そこに興味を持つ若者は、意外と多い。
セレンはその一人だった。
「――というわけで、今日はフィールド調査です!」
笑顔で宣言するのはルカ。
頭には大きなバイザー、肩には小型ドローンを乗せている。
彼女の“冒険モード”が発動すると、止めるのは不可能だ。
「……“というわけで”の前がまるごと抜けてるんだが」
「細かいこと言わない! 人生には勢いが大事!」
「灰域は立入制限だぞ。法的には“非保証エリア”――つまり何かあっても自己責任」
「うん、だから行こう!」
「自己責任を理解した上で突っ走るな」
セレンはため息をつく。
けれど彼女の笑顔に、少しだけ空気が軽くなる。
「……なあルカ」
「なに?」
「この前言ってた“怖がる練習”、まさかこれじゃないよな?」
「練習ってのは、実戦でやるものなの!」
「それは練習じゃなくて本番だ」
「細かいこと言わない!」
ルカは軽やかに丘を登り、灰色の空を見上げた。
空の雲は重たく、粒子が光を散らしている。
都市の澄んだ白ではない。
“濁った空気”が、ここでは生きていた。
「……変な感じ」
「何が?」
「息が“あったかい”」
「温度制御のない空気だからな」
「じゃ、本物の空気?」
「定義次第だ」
「出た、理屈星人!」
「俺を惑星扱いするな」
「セレン星、今日も回転中〜♪」
「……(たぶん灰域より危険なのはこいつだ)」
都市の境界を越えると、
〈ペイル〉の感情制御信号が弱まり始めた。
セレンは首筋に違和感を覚えた。
いつもの“均された静けさ”が、少しだけざわつく。
――音が多い。
風の音、鳥の声、草のざらつき。
都市の人工環境にはない“余白の音”だった。
「セレン、ほら見て」
ルカが指さした先に、
崩れたビル群が見えた。
コンクリートは風化し、鉄骨には蔦が絡みつく。
灰色の大地に、緑が戻りつつある――そんな風景。
「ここが……灰域」
「思ったより、死んでないね」
「誰が死んでること前提で来たんだ」
「だって“灰域”って名前だし」
「ネーミングセンスの問題か……」
歩き進むうちに、セレンの視界に何かが動いた。
人影――。
「おい、ルカ。あれ……」
「え、何? って、うわ、ほんとに人!」
廃ビルの陰から、ひとりの少女がこちらを見ていた。
年齢は自分たちと同じくらい。
長い黒髪を布で束ね、古い布服を身にまとっている。
手には小さな端末――だが、それは電源の入らない旧式の通信機だった。
「……あなたたち、ハルモニアの人?」
声は落ち着いている。
だが、その瞳には、鋭い警戒が宿っていた。
「う、うん! はじめまして! 私はルカ! こっちはセレン!」
「ルカ、待て。まず名乗る前に安全確認を――」
「しないの?」
「……するけどタイミングってものが」
「タイミングは勢い!」
「勢いは事故を生む」
「細かいこと言わない!」
「お前、今日“細かいこと言わない”三回目だぞ」
少女はくすっと笑った。
その笑い方は、乾いているのにどこか優しかった。
「……あなたたち、ほんとに都市の人っぽい」
「それは褒め言葉?」
「半分ね」
少女は近づく。
足取りは慎重だが、迷いはない。
風に乗って、草の匂いがした。
セレンは、どこか懐かしい匂いだと感じた。
「私はユナ。灰域の“語り部”をしてる」
「語り部?」
「昔の言葉を残す仕事。ここでは、まだ“祈り”を信じてる人もいるの」
「祈り……」セレンが呟く。
その言葉に〈ペイル〉がわずかに反応し、信号が揺れた。
「君たち、何しにここへ?」
ユナの視線はまっすぐだった。
「観光……です!」とルカ。
「違う」セレンが即答。
「都市の境界でノイズ信号を検知した。調査任務だ」
「へえ、都市の人が“ノイズ”を気にするんだ?」
「当然だろ。異常は正すものだから」
「じゃあ質問。“痛み”は異常?」
――痛み。
その単語を聞いた瞬間、セレンの〈ペイル〉がわずかに熱を帯びた。
首筋のノードが、抑制信号を出しているのがわかる。
「……都市では、痛みは危険信号だ」
「でも消すんでしょ?」
「消す……必要があるから」
「ほんとに?」
ユナは一歩近づき、セレンの胸に手を当てた。
突然の接触に、彼は思わず後ずさる。
「なっ……!」
「心臓、ちゃんと動いてる。
でも、その鼓動、ぜんぶ機械に測られてる」
「……それの何が悪い」
「悪くないよ。ただ、“それでいいの?”って聞いてるの」
風が吹いた。
乾いた草が音を立て、古いビルの影が揺れる。
セレンは、言葉を返せなかった。
「君たち、泊まる場所ある?」
「ないけど! 寝袋ある!」
「寝袋は虫に負ける」
「虫!? 出るの!?」
「出るよ。痛いよ?」
「……ルカ、帰ろう」
「まってまって!? 今の“痛い”って、リアル痛いやつ!?」
「噛まれたら腫れる」
「ぎゃー! リアル感情体験いらないー!!」
「それが“怖がる練習”だろ」
「ちがーう! 虫じゃないのー!」
ユナは吹き出した。
その笑いは素朴で、ルカの叫びよりずっとあたたかい音をしていた。
「ふたりとも、変わってるね」
「どっちが?」
「どっちも」
ユナはくすくすと笑い、
「ついておいで。古い避難施設がある」と言って歩き出した。
その背中を見ながら、セレンは妙な感覚に包まれた。
“都市”の人間とは違う歩き方。
一歩ごとに地面を確かめるようにして、
でも迷いのない足取り。
“痛み”を知る者の歩き方――そんな気がした。
*
避難施設は地下にあり、古びた金属扉をくぐると、
そこには焚き火の光があった。
ほんものの火。
セレンは思わず目を見開いた。
「……火って、まだ使えるのか」
「もちろん。便利だよ」ユナが笑う。
「危険だろ。酸素濃度が――」
「数字で生きてるね、あなた」
「習慣だ」
「その習慣、捨てても死なないよ?」
「……試したことがない」
「じゃあ、試してみれば?」
挑発ではなく、ただの優しい声。
セレンは黙って火のそばに座った。
熱が肌を刺す。
――熱い。
“痛み”に似た感覚。
けれど、悪くない。
ルカは寝袋を広げながら言った。
「ねぇ、ユナ。このあたりに、昔の記録とか残ってる?」
「うん。ほら」
ユナは古びた端末を取り出した。
画面には砂嵐のような映像。
その中に、一瞬――見覚えのある青い光。
「……それ、何だ?」セレンが立ち上がる。
「“星の記録”。この場所で拾った。誰のものかはわからない。
でも……声が入ってる」
「声?」
「うん。女の人の声。優しくて、少し寂しい声」
再生ボタンが押される。
ノイズの奥から、淡く響く音。
> 『――もし、まだ“痛み”を覚えているなら……それを、捨てないで。』
セレンの胸が、強く跳ねた。
〈ペイル〉のランプが一瞬、赤く光る。
“感情変動過多”の警告。
だが彼は、止めなかった。
ただ、その声を聞いていた。
――青い声。
夢で聞いた、あの声だ。
ユナが微笑む。
「ねぇセレン。あなた、その声、知ってるの?」
「……わからない。けど、覚えてる気がする」
「なら、たぶん、あなたも痛みを知ってる」
火が揺れる。
灰域の夜は、都市よりずっと暗い。
でも――星があった。
ほんものの、遠い光。
セレンは静かに呟いた。
「……これが、“本当の空”か」
「うん。“痛み”を知る空」ユナが答える。
「怖い?」
「少しだけ」
「なら、ちゃんと生きてる」
焚き火の音がぱちんと鳴る。
ルカは寝袋に潜り込みながら、目を細めた。
「ねぇ、セレン。次の練習、これで合格かな」
「何の?」
「“怖がる練習”。ちゃんと怖いもん」
「……合格だ」
「やった……」
彼女の声が小さくなり、眠りに落ちた。
火の向こうで、ユナが小さく呟く。
「……君たちの世界、きれいだね」
「何が?」
「“痛みを知らない”って、どんな感じ?」
「空白みたいだ」
「じゃあ、そこに“色”をつけてあげようか」
ユナは古い端末を光らせる。
その中の青い声が、また微かに流れた。
> 『――私は、風の中にいる。
あなたが“感じる”その痛みが、
世界を動かす証になる。』
ノヴァの声だった。
セレンは、そっと目を閉じた。
火の熱、風の音、痛み、匂い、声――
それらがごちゃ混ぜになって、
ようやく、**ひとつの“現実”**として感じられた。
冷たい都市の光にはなかった“温度”。
それが、確かにここにあった。
灰域の夜は静かだ。
けれど、どこかで星が笑っている。
その笑いが、風に混じって――
ノヴァの声と、ひとつになった。
(つづく)
ルカ(Luka)
性別:女性 年齢:17歳 出身:ハルモニア都市〈ネオ・コーラス〉
> 「ねぇ、“怖い”って、ほんとはどんな感じなんだろう?」
セレンの幼馴染。
常に明るく、会話のテンポが速く、言葉の中に“生”がある。
制御社会の中では珍しく“感情抑制閾値”を低く設定しており、
笑い・驚き・茶化しを武器に、周囲をほんの少しだけ乱す存在。
セレンの違和感を最初に見抜き、
「怖がる練習をしよう」と彼を外の世界へ誘う。
内心では、自分もまた“恐れ”という感情を知らないことに怯えている。
外見:
短めの赤茶の髪をゆるくまとめ、左右非対称の髪飾りを好む。
瞳は琥珀色。制服を自分流にアレンジし、規格外のイヤーデバイスをつけている。




