第三部《黎明の継承者》第1章 無痛の街
朝の光は、温度を持たない。
窓から射し込む白い帯は、ただ「起床時刻」を知らせるために最適化された照度パターンで、やさしいが、やさしさの理由がない。
セレンは、その白帯に指先をかざした。熱も刺す痛みもない。世界は角が取れて丸く、必要なもの以外は、最初から存在しないみたいにできている。
「――起床、セレン。昨夜の睡眠スコアは99.1。非常に優秀でした。ご褒美に“雲味コーヒー”はいかがですか?」
枕元の壁面スピーカーから、家事AI〈アリア〉の声音。
セレンは目を細めた。
「雲に味はないだろ」
「比喩です。あなたが“風味のある無味”を好む傾向を、過去180日分のログから生成――」
「もういい。普通のコーヒーで」
「普通……という語は曖昧です。標準化合成、深層抽出、あるいは――」
「“普通”って言ってる時点で、普通が出るのが普通じゃないの?」
「了解。通常より3.2%“普通寄り”の抽出を開始します」
「……どういう計算だよ」
湯気の立たないカップが自動台から滑り出る。香りはあるのに、熱はない。やけど予防規格により、液体は舌の温度と±1.5度以内に調整されている。
「今日の予定は?」
「午前:感情衛生チェック。午後:共感設計ラボOJT。夕刻:市民同期礼拝――」
「礼拝って言うな。あれ、“感情同期式”だから」
「語の選択が宗教的ニュアンスを帯びていた場合、通知義務が生じます。報告しますか?」
「いらないから。……あ、今日、同期式はパスできない?」
「できます。代わりに“罪悪感軽減カプセル”を推奨――」
「そういうの出すなよ」
軽口の応酬はいつも通り。
いつも通り、何も刺さない。
セレンはカップを置き、首筋に指を当てる。そこには、誰もが持つ薄い金属の皿――感情制御ノード〈ペイル〉。痛み、怒り、悲哀――過度な揺れが起きれば、均す。世界は転ばないように作られている。
*
廊下に出ると、隣室のドアが勢いよく開いた。
「おはよ、セレン! 今日の髪、左右対称90%超えてる?」
飛び出してきたのはルカ。セレンの幼馴染で、朝から笑顔がうるさい。
「左右対称の何を競ってるんだ」
「ハルモニアの朝は“整い”から始まるの! で、今日の共感ラボ、初現場だって? 緊張する?」
「しない」
「ほら出た、無痛の街の申し子」
「ルカ、君も〈ペイル〉あるだろ」
「もちろん。でも私のは“かわいい過剰リアクション”は切らない仕様」
「そんな設定はない」
「あるの。心の問題」
二人はエレベータに乗り、透明な筒で街を見下ろす。
滑らかに曲がる歩道、ぶつからない人々、互いに同じ速度と距離で進む群れ。
歩行者の顔は穏やかで、笑い声は一定の音量を保ち、泣き声は、ない。
「ねえセレン」
「ん」
「夜、夢みた? 最近、ぜんぜん夢を覚えてられなくてさ。仕様だっけ?」
「仕様だよ。夢のログは睡眠衛生上、不必要部分をクリアする」
「ふーん。じゃ、恋の夢も?」
「それは、どうだろ」
「ほら、ちょっと食いついた。やっぱあるんだ、恋!」
「違う。ただ――」
「ただ?」
「……“青い声”を聞いた気がする」
「青い声?」
「説明しづらいけど、透明で、冷たくて、でも温かい……矛盾してるな。とにかく、声だ」
ルカは目を輝かせた。
「それ恋だよ。間違いない」
「色のついた声が恋なのか?」
「恋は全部に色がつくの。髪も声も通知も領収書も」
「領収書に恋の色はつかない」
「つくって! つけて!」
「……つけない」
エレベータが地上階に到着する。
足元の床が柔らかく沈み、二人は同じ速度で街路へ押し出された。温度は快適、匂いも不快域は自動でカット。自販機が通行者の顔色から“適正飲料”を提示する。
「いらっしゃいませ。本日のあなたにふさわしいのは、ふつうの水です!」
「お前も“普通”の定義が怪しいのか」セレンが突っ込む。
「ふつうの水は、ふつうなのでふつうです!」
「言葉遊びやめろ」
「じゃ私は“ちょっと幸せになる水”!」とルカ。
「成分は?」
「“ちょっと幸せ”」
「だから成分で言え」
「“ちょっと幸せ”の成分は“ちょっと幸せ”」
「はいはい」
笑いながら歩き出す。
街角の巨大スクリーンに“今日の心拍指数”が表示され、人々の平均が穏やかに波打つ。乱れはない。
セレンの胸の奥で、しかし、微かなざわめきが一度だけ、ぎゅ、と縮んで、すぐに均された。〈ペイル〉が仕事をしたのだと、理屈では分かる。
*
午前の感情衛生センター。
淡い色の壁、柔らかな光、角のない家具。係員は安堵のマニュアル笑顔で迎えてくれる。
「セレン・リードさんですね。はい、首元の〈ペイル〉に触診プローブを――ありがとうございます。痛みはありませんから安心して」
「最初から痛いという選択肢がないですよね」
「すてきなご指摘。痛みは選択肢ではありません。当市では、“痛みのデザイン”は法律で禁止されています」
「……“痛みのデザイン”? そんな業界があるんですか」
「過去にはありました。ホラー娯楽産業、刺激食品、サプライズ求婚、など」
「最後の行で急に平和になったな」
「驚きは人を傷つけます」
「(言い切った……)」
係員はプローブで〈ペイル〉に接続し、画面に滑らかなグラフを出す。
「全指標、正常。怒り・恐怖・悲哀の振幅、低値。共感受容性、良好。昨夜、夢の記憶がわずかに残存してますね。クリアしますか?」
セレンは、少しだけためらった。
「残しとく。気になるから」
「“気になる”は、緩やかな好奇心。健康です」
「じゃ、それで」
診察室を出ると、ルカが待合椅子から飛び出てきた。
「どうだった! 怒り、出た?」
「出ないよ。お前、俺を何だと思ってる」
「怒るセレン、見たいんだよねー。かわいいから」
「可愛い怒りって何」
「語尾が丸い“ぷん”ってやつ」
「やらない」
「ぷん?」
「やらない」
*
午後、共感設計ラボ。
セレンの配属は“公共空間対話設計課”。市民同士が摩擦を起こさず、しかし“会話の温度”を保てるよう、街の音・光・対話支援を調整する裏方だ。
ラボのチーフ、オルソンは大柄で笑顔が厚い。
「セレン君、歓迎するよ。まずは、街角の“あいさつ密度”の最適化からだ。今期は少し低い。寂しさを訴える苦情が0.2%増えた」
「0.2%……誤差じゃ?」
「誤差を埋めるのが、我々の仕事だ。挨拶は“生存確認の儀礼”だからね。増やしすぎると面倒になり、減らすと孤独になる。最適点がある」
「なるほど」
「そこで、新人の君には**“こんにちはの返答バリエーション50”**を提案してもらおう」
「50!?」
「“こんにちはに対する、こんにちは以外の返し”だ。なお、攻撃性はゼロ、驚かせない、詩的すぎない、でも少し楽しい――さあ、どうぞ」
「(無茶振りが高速だ……)えっと、“今日も空が白いですね”」
「良い。季節に依存しない観測表現。次」
「“健康という退屈、悪くないです”」
「哲学寄り。0.3秒だけ長い。削るなら?」
「“退屈、悪くない”」
「よし、次」
「“あなたの靴、左右対称ですね”」
「街の価値観を褒める、いい。だが特定個人の容姿評価は避けよう。靴ならギリだが。次」
「“こんにちはの返しはこんにちは以外という宿題を出されました、助けて”」
「追い詰められた新人の悲鳴が混ざってる。好きだ。採用」
「え、採用!?」
「市民は少量の“本音”を求めている。だが多量の本音は危険だ。我々は“ひとさじ”を設計する」
セレンは苦笑し、端末に案を打ち込む。その指先が、ごく僅かに、震えた。
震え――か。
彼は自覚した。昨日の夢以後、ときどき身体のどこかに“ノイズ”が乗る。だが検査では「正常」。〈ペイル〉も“問題なし”。ならば、これは何だ。
「セレン?」チーフが覗き込む。
「大丈夫?」
「はい。……チーフ、“痛み”って、ゼロじゃないとダメですか」
「定義次第だ。生理的な痛みは危険信号だが、心理的な“厳しさ”は学びの余白を作る。だが都市としては、平均を守る」
「平均……」
「君の目は、平均を少し、はみ出してるね」
「見えますか」
「見えるとも。新人は大抵、はみ出してる。歓迎しよう」
背中を軽く叩かれる感覚――圧力も角もないタッチ。それでも、確かに“触れられた”と思えた。
*
退勤時刻。
ルカと合流して〈無痛の街〉の“夕刻モード”を歩く。灯りは柔らかく、人々の声は昼より少し低い。誰も急がず、ぶつからない。
「ねぇごはん行く?」
「どこでも」
二人が入ったのは“味のないレストラン”。名物は“記憶で味わう食事”。
店員ロボが微笑み、タブレットを差し出す。
「本日のお勧めは“夕暮れのパンと、やわらかいスープ”です」
「具体性が……」セレンが苦笑する。
「具体性はお客様の心が補完します。当店は味覚の空白を売りにしております」
「(空白……か)じゃ、それで」
パンは温度を持たず、スープは香りだけが立った。
セレンは一口食べ、目を閉じる。
なぜだろう――“海”の匂いがした。
見たことのない、潮の冷たさ、波の音、濡れた砂。
胸の奥にぎゅっと何かが寄って、すぐに〈ペイル〉が均す。
「セレン?」
「なんでもない。……海を、知らないよな俺たち」
「うん。知識アーカイブで動画だけ。でも“塩味”って昔はほんとに塩の味がしたのかな」
「今は“塩味の記憶”だ」
「ちょっと詩的!」
笑い合う。
その笑いの終わり際、セレンは皿の縁に指をぶつけた。
――痛っ。
反射的に手を引く。
痛みは、あった。ほんの針の先ほど。
〈ペイル〉が反応して、波は平らになる。
だが、確かに、あった。
「どうしたの?」
「いや、少し……いや、なんでもない」
“なんでもない”。
この街で一番使われる言葉だ。
“なんでもないようにするために”、どれだけの仕組みが回っているのだろう。
*
食後、二人は“同期式ホール”へ向かう。
広いホールの中央に白い塔。ゆるやかな音。床の光が心拍と同期し、参加者の〈ペイル〉とリンクして“安心の輪”を作る儀式。
「本日の演目は“幸福の反復”です」
司会の声が響く。
「皆で、今日の“良かったこと”を言います。小さなことで構いません。“痛み”や“不安”はここでは扱いません。後日、個別に調整されます」
ルカが小声で「ねえ、ちょっとは扱ってよね」とぼやく。
セレンは、塔を見上げた。
塔の上部に、円の光。
どこか、懐かしい形。ずっと昔に誰かが“空に描いた輪”。
目が離せない。胸が、じりじりと熱い。
「セレン? 順番きたよ。“良かったこと”、何か言って」
「え」
周囲の視線が、穏やかに集まる。圧力はない。だが目は、ある。
「今日……えっと――」
口を開いた瞬間、塔の光がわずかに瞬いた。
耳の奥で、青い声が、囁く。
――君は、まだ痛みを覚えているの?
セレンは、言葉を誤魔化した。
「“普通のコーヒー”が、普通に出てきたこと」
柔らかな笑い。司会が褒める。
「なんでもない幸せ、いいですね」
ルカが横で、肘でつつく。
「うそつき」
「違う、ただ……」
「ただ?」
「声がした」
「誰の?」
「分からない。でも、知ってる人だ」
*
夜。
帰り道の歩道は、星に似た低い灯りで点々と縁どられていた。
ルカはスキップ、セレンはゆっくり。アリアから“就寝前ストレッチの提案”が何度も来る。
「ねえセレン」
「ん」
「もしもさ、痛みってやつに、ほんのちょっとだけ触れられる場所があるとしたら……行ってみたい?」
「どこだよ」
「さあ。都市の外の方。灰域。噂でしょ、噂。笑い話」
「笑い話にしては、目が本気」
「そりゃあね。だってさ、私たち、何も怖くないって言いながら、怖がる練習、したことないじゃん」
「怖がる練習?」
「そう。怖いのに逃げない練習。痛いのに手を伸ばす練習。……ねえ、それ、ちょっと、やってみたくない?」
「……危険だ」
「ほら言った。危険、って言えるの偉い。でも、それを選ぶかは、私たちで決めるんだよ」
「ルカ、お前は昔から突拍子もない」
「褒め言葉として受け取ります!」
笑って、別れの角に立つ。
ルカはひらひらと手を振り、「明日の髪も左右対称ねー!」と叫んだ。
セレンは独りで歩く。
街の音が薄くなる。
〈ペイル〉の灯が微かに脈打ち、均質な安堵が首筋から染み込む。
――それでも、胸の内側、どこか一点が、均されない。
青い声が、遠くで呼ぶ。
(君は、まだ痛みを覚えているの?)
問いは、掴めない。
けれど、確かに刺さる。
この街では滅多に経験できない、“刺さる”という感覚。
セレンは立ち止まり、夜空を見上げた。
星は、人工照明に埋もれて見えない。
代わりに、街の灯りが規則正しい星座のように並んでいる。
「……教えてくれよ。俺は、何を覚えてる」
答えは来ない。
ただ、冷たい風が、頬を撫でた。
そこにわずか――ほんのわずかに、ひり、があった。
指で触れる。何もない。
でも、確かに、あった。
*
部屋に戻ると、アリアが柔らかく迎える。
「おかえりなさい。今日の会話スコアは平常より17%増。友人との交流は寿命に良い影響――」
「アリア、少し黙ってくれ」
「了解。やさしい沈黙を提供します」
「(なんでも商品化するな)」
シャワーの湯は体温と同じ、鏡は歪みを補正し美しい輪郭を返す。
ベッドに横たわり、天井の白い輪を見つめる。
目を閉じる直前、セレンは〈ペイル〉の端子を指で押さえた。
「アリア」
「はい」
「〈ペイル〉の介入閾値、ほんの少しでいい。下げられる?」
数秒の沈黙。
「規格値からの逸脱は推奨されません」
「推奨いらない。自分で選ぶ」
「……あなたは“痛み”を望みますか?」
息を吸い、吐く。
「知覚を望む。痛みがあるなら、それも含めて」
「了解。医療リスクを最小に、閾値を0.5%だけ――やさしく下げます」
「ありがとう」
寝室の光が、ゆっくりと薄くなる。
静寂。
セレンは、昨日から続く“青い声”の輪郭を待つ。
すこしして、闇のどこかに、波が立つ。
(……君は、名を持っている?)
声が問う。
セレンは夢の中で、なぜか笑った。
(セレン。君は?)
(わたしは――ノヴァ)
遠い。
でも、確かだ。
名は、光だ。
光は、痛みを描く。
痛みは、生きているを思い出させる。
(セレン、君はまだ痛みを覚えているの?)
(覚えている、かもしれない)
(なら、きっと大丈夫。君は“均される前の揺れ”を、手放していない)
揺れ――。
ベッドの端で、セレンの指が、ほんの少し丸まる。
〈ペイル〉の介入が遅れ、胸に細い針が一本、刺さるように走った。
痛み。
痛みは、消えない。
痛みは、消えなくていい。
セレンは、目を開けた。
闇の中で、笑った。
それはこの街が教えてくれなかった、ぎこちない笑い。
(ノヴァ。明日、教えてくれ)
(なにを?)
(怖がる練習の仕方)
(うん――一緒に、少しずつ)
目を閉じる。
眠りの縁で、セレンは思う。
“なんでもない”で埋められた一日の隙間に、なんでもあるが、たしかに芽を出した、と。
無痛の街の夜は静かだ。
けれど今、ひとつの部屋で、わずかな心拍の乱れが生まれ、それは均されず、揺れたまま、朝を待つ。
朝の光は、また温度を持たない。
けれど、その下で、ひとりの青年は――
温度のない光に、温度を感じる練習を始める。
(つづく)
■ セレン(Seren)
性別:男性 年齢:17歳 出身:ハルモニア都市〈ネオ・コーラス〉
> 「痛みを知らない世界で、“感じる”ことを探している。」
ハルモニア連合体の中でもっとも平均的な少年として育った青年。
穏やかで理性的だが、どこか“他人事”のように生きてきた。
感情制御装置〈ペイル〉によって悲しみも怒りも制御されているが、
ある夜“青い声”を聞いたことで、自分の中に残る“揺れ”の存在に気づく。
会話は皮肉と理屈が多く、周囲からは「真面目すぎる面白人」と評される。
だが本人は、笑いの“温度”を理解しようとしている段階にある。
物語を通じて、「痛みを感じる勇気」と「感情の自由」を学んでいく。
外見:
白銀がかった灰色の髪。瞳は淡い蒼。中肉中背。
服装は市民標準の淡色スーツだが、襟元に古い布の紐を巻いている(夢の中の“誰か”からの贈り物)。




