表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/47

第三部《黎明の継承者》第1章 無痛の街


 朝の光は、温度を持たない。

 窓から射し込む白い帯は、ただ「起床時刻」を知らせるために最適化された照度パターンで、やさしいが、やさしさの理由がない。

 セレンは、その白帯に指先をかざした。熱も刺す痛みもない。世界は角が取れて丸く、必要なもの以外は、最初から存在しないみたいにできている。


「――起床、セレン。昨夜の睡眠スコアは99.1。非常に優秀でした。ご褒美に“雲味コーヒー”はいかがですか?」


 枕元の壁面スピーカーから、家事AI〈アリア〉の声音。

 セレンは目を細めた。

「雲に味はないだろ」

「比喩です。あなたが“風味のある無味”を好む傾向を、過去180日分のログから生成――」

「もういい。普通のコーヒーで」

「普通……という語は曖昧です。標準化合成、深層抽出、あるいは――」

「“普通”って言ってる時点で、普通が出るのが普通じゃないの?」

「了解。通常より3.2%“普通寄り”の抽出を開始します」

「……どういう計算だよ」


 湯気の立たないカップが自動台から滑り出る。香りはあるのに、熱はない。やけど予防規格により、液体は舌の温度と±1.5度以内に調整されている。


「今日の予定は?」

「午前:感情衛生チェック。午後:共感設計ラボOJT。夕刻:市民同期礼拝――」

「礼拝って言うな。あれ、“感情同期式”だから」

「語の選択が宗教的ニュアンスを帯びていた場合、通知義務が生じます。報告しますか?」

「いらないから。……あ、今日、同期式はパスできない?」

「できます。代わりに“罪悪感軽減カプセル”を推奨――」

「そういうの出すなよ」


 軽口の応酬はいつも通り。

 いつも通り、何も刺さない。

 セレンはカップを置き、首筋に指を当てる。そこには、誰もが持つ薄い金属の皿――感情制御ノード〈ペイル〉。痛み、怒り、悲哀――過度な揺れが起きれば、均す。世界は転ばないように作られている。



 廊下に出ると、隣室のドアが勢いよく開いた。

「おはよ、セレン! 今日の髪、左右対称90%超えてる?」

 飛び出してきたのはルカ。セレンの幼馴染で、朝から笑顔がうるさい。

「左右対称の何を競ってるんだ」

「ハルモニアの朝は“整い”から始まるの! で、今日の共感ラボ、初現場だって? 緊張する?」

「しない」

「ほら出た、無痛の街の申し子」

「ルカ、君も〈ペイル〉あるだろ」

「もちろん。でも私のは“かわいい過剰リアクション”は切らない仕様」

「そんな設定はない」

「あるの。心の問題」


 二人はエレベータに乗り、透明な筒で街を見下ろす。

 滑らかに曲がる歩道、ぶつからない人々、互いに同じ速度と距離で進む群れ。

 歩行者の顔は穏やかで、笑い声は一定の音量を保ち、泣き声は、ない。


「ねえセレン」

「ん」

「夜、夢みた? 最近、ぜんぜん夢を覚えてられなくてさ。仕様だっけ?」

「仕様だよ。夢のログは睡眠衛生上、不必要部分をクリアする」

「ふーん。じゃ、恋の夢も?」

「それは、どうだろ」

「ほら、ちょっと食いついた。やっぱあるんだ、恋!」

「違う。ただ――」

「ただ?」

「……“青い声”を聞いた気がする」

「青い声?」

「説明しづらいけど、透明で、冷たくて、でも温かい……矛盾してるな。とにかく、声だ」


 ルカは目を輝かせた。

「それ恋だよ。間違いない」

「色のついた声が恋なのか?」

「恋は全部に色がつくの。髪も声も通知も領収書も」

「領収書に恋の色はつかない」

「つくって! つけて!」

「……つけない」


 エレベータが地上階に到着する。

 足元の床が柔らかく沈み、二人は同じ速度で街路へ押し出された。温度は快適、匂いも不快域は自動でカット。自販機が通行者の顔色から“適正飲料”を提示する。


「いらっしゃいませ。本日のあなたにふさわしいのは、ふつうの水です!」

「お前も“普通”の定義が怪しいのか」セレンが突っ込む。

「ふつうの水は、ふつうなのでふつうです!」

「言葉遊びやめろ」

「じゃ私は“ちょっと幸せになる水”!」とルカ。

「成分は?」

「“ちょっと幸せ”」

「だから成分で言え」

「“ちょっと幸せ”の成分は“ちょっと幸せ”」

「はいはい」


 笑いながら歩き出す。

 街角の巨大スクリーンに“今日の心拍指数”が表示され、人々の平均が穏やかに波打つ。乱れはない。

 セレンの胸の奥で、しかし、微かなざわめきが一度だけ、ぎゅ、と縮んで、すぐに均された。〈ペイル〉が仕事をしたのだと、理屈では分かる。



 午前の感情衛生センター。

 淡い色の壁、柔らかな光、角のない家具。係員は安堵のマニュアル笑顔で迎えてくれる。


「セレン・リードさんですね。はい、首元の〈ペイル〉に触診プローブを――ありがとうございます。痛みはありませんから安心して」

「最初から痛いという選択肢がないですよね」

「すてきなご指摘。痛みは選択肢ではありません。当市では、“痛みのデザイン”は法律で禁止されています」

「……“痛みのデザイン”? そんな業界があるんですか」

「過去にはありました。ホラー娯楽産業、刺激食品、サプライズ求婚、など」

「最後の行で急に平和になったな」

「驚きは人を傷つけます」

「(言い切った……)」


 係員はプローブで〈ペイル〉に接続し、画面に滑らかなグラフを出す。

「全指標、正常。怒り・恐怖・悲哀の振幅、低値。共感受容性、良好。昨夜、夢の記憶がわずかに残存してますね。クリアしますか?」

 セレンは、少しだけためらった。

「残しとく。気になるから」

「“気になる”は、緩やかな好奇心。健康です」

「じゃ、それで」


 診察室を出ると、ルカが待合椅子から飛び出てきた。

「どうだった! 怒り、出た?」

「出ないよ。お前、俺を何だと思ってる」

「怒るセレン、見たいんだよねー。かわいいから」

「可愛い怒りって何」

「語尾が丸い“ぷん”ってやつ」

「やらない」

「ぷん?」

「やらない」



 午後、共感設計ラボ。

 セレンの配属は“公共空間対話設計課”。市民同士が摩擦を起こさず、しかし“会話の温度”を保てるよう、街の音・光・対話支援を調整する裏方だ。


 ラボのチーフ、オルソンは大柄で笑顔が厚い。

「セレン君、歓迎するよ。まずは、街角の“あいさつ密度”の最適化からだ。今期は少し低い。寂しさを訴える苦情が0.2%増えた」

「0.2%……誤差じゃ?」

「誤差を埋めるのが、我々の仕事だ。挨拶は“生存確認の儀礼”だからね。増やしすぎると面倒になり、減らすと孤独になる。最適点がある」

「なるほど」

「そこで、新人の君には**“こんにちはの返答バリエーション50”**を提案してもらおう」

「50!?」

「“こんにちはに対する、こんにちは以外の返し”だ。なお、攻撃性はゼロ、驚かせない、詩的すぎない、でも少し楽しい――さあ、どうぞ」

「(無茶振りが高速だ……)えっと、“今日も空が白いですね”」

「良い。季節に依存しない観測表現。次」

「“健康という退屈、悪くないです”」

「哲学寄り。0.3秒だけ長い。削るなら?」

「“退屈、悪くない”」

「よし、次」

「“あなたの靴、左右対称ですね”」

「街の価値観を褒める、いい。だが特定個人の容姿評価は避けよう。靴ならギリだが。次」

「“こんにちはの返しはこんにちは以外という宿題を出されました、助けて”」

「追い詰められた新人の悲鳴が混ざってる。好きだ。採用」

「え、採用!?」

「市民は少量の“本音”を求めている。だが多量の本音は危険だ。我々は“ひとさじ”を設計する」


 セレンは苦笑し、端末に案を打ち込む。その指先が、ごく僅かに、震えた。

 震え――か。

 彼は自覚した。昨日の夢以後、ときどき身体のどこかに“ノイズ”が乗る。だが検査では「正常」。〈ペイル〉も“問題なし”。ならば、これは何だ。


「セレン?」チーフが覗き込む。

「大丈夫?」

「はい。……チーフ、“痛み”って、ゼロじゃないとダメですか」

「定義次第だ。生理的な痛みは危険信号だが、心理的な“厳しさ”は学びの余白を作る。だが都市としては、平均を守る」

「平均……」

「君の目は、平均を少し、はみ出してるね」

「見えますか」

「見えるとも。新人は大抵、はみ出してる。歓迎しよう」


 背中を軽く叩かれる感覚――圧力も角もないタッチ。それでも、確かに“触れられた”と思えた。



 退勤時刻。

 ルカと合流して〈無痛の街〉の“夕刻モード”を歩く。灯りは柔らかく、人々の声は昼より少し低い。誰も急がず、ぶつからない。


「ねぇごはん行く?」

「どこでも」


 二人が入ったのは“味のないレストラン”。名物は“記憶で味わう食事”。

 店員ロボが微笑み、タブレットを差し出す。

「本日のお勧めは“夕暮れのパンと、やわらかいスープ”です」

「具体性が……」セレンが苦笑する。

「具体性はお客様の心が補完します。当店は味覚の空白を売りにしております」

「(空白……か)じゃ、それで」


 パンは温度を持たず、スープは香りだけが立った。

 セレンは一口食べ、目を閉じる。

 なぜだろう――“海”の匂いがした。

 見たことのない、潮の冷たさ、波の音、濡れた砂。

 胸の奥にぎゅっと何かが寄って、すぐに〈ペイル〉が均す。


「セレン?」

「なんでもない。……海を、知らないよな俺たち」

「うん。知識アーカイブで動画だけ。でも“塩味”って昔はほんとに塩の味がしたのかな」

「今は“塩味の記憶”だ」

「ちょっと詩的!」


 笑い合う。

 その笑いの終わり際、セレンは皿の縁に指をぶつけた。

 ――痛っ。

 反射的に手を引く。

 痛みは、あった。ほんの針の先ほど。

 〈ペイル〉が反応して、波は平らになる。

 だが、確かに、あった。


「どうしたの?」

「いや、少し……いや、なんでもない」


 “なんでもない”。

 この街で一番使われる言葉だ。

 “なんでもないようにするために”、どれだけの仕組みが回っているのだろう。



 食後、二人は“同期式ホール”へ向かう。

 広いホールの中央に白い塔。ゆるやかな音。床の光が心拍と同期し、参加者の〈ペイル〉とリンクして“安心の輪”を作る儀式。


「本日の演目は“幸福の反復”です」

 司会の声が響く。

「皆で、今日の“良かったこと”を言います。小さなことで構いません。“痛み”や“不安”はここでは扱いません。後日、個別に調整されます」

 ルカが小声で「ねえ、ちょっとは扱ってよね」とぼやく。

 セレンは、塔を見上げた。

 塔の上部に、円の光。

 どこか、懐かしい形。ずっと昔に誰かが“空に描いた輪”。

 目が離せない。胸が、じりじりと熱い。


「セレン? 順番きたよ。“良かったこと”、何か言って」

「え」

 周囲の視線が、穏やかに集まる。圧力はない。だが目は、ある。

「今日……えっと――」

 口を開いた瞬間、塔の光がわずかに瞬いた。

 耳の奥で、青い声が、囁く。


 ――君は、まだ痛みを覚えているの?


 セレンは、言葉を誤魔化した。

「“普通のコーヒー”が、普通に出てきたこと」

 柔らかな笑い。司会が褒める。

「なんでもない幸せ、いいですね」

 ルカが横で、肘でつつく。

「うそつき」

「違う、ただ……」

「ただ?」

「声がした」

「誰の?」

「分からない。でも、知ってる人だ」



 夜。

 帰り道の歩道は、星に似た低い灯りで点々と縁どられていた。

 ルカはスキップ、セレンはゆっくり。アリアから“就寝前ストレッチの提案”が何度も来る。


「ねえセレン」

「ん」

「もしもさ、痛みってやつに、ほんのちょっとだけ触れられる場所があるとしたら……行ってみたい?」

「どこだよ」

「さあ。都市の外の方。灰域アッシュフィールド。噂でしょ、噂。笑い話」

「笑い話にしては、目が本気」

「そりゃあね。だってさ、私たち、何も怖くないって言いながら、怖がる練習、したことないじゃん」

「怖がる練習?」

「そう。怖いのに逃げない練習。痛いのに手を伸ばす練習。……ねえ、それ、ちょっと、やってみたくない?」

「……危険だ」

「ほら言った。危険、って言えるの偉い。でも、それを選ぶかは、私たちで決めるんだよ」

「ルカ、お前は昔から突拍子もない」

「褒め言葉として受け取ります!」


 笑って、別れの角に立つ。

 ルカはひらひらと手を振り、「明日の髪も左右対称ねー!」と叫んだ。


 セレンは独りで歩く。

 街の音が薄くなる。

 〈ペイル〉の灯が微かに脈打ち、均質な安堵が首筋から染み込む。

 ――それでも、胸の内側、どこか一点が、均されない。

 青い声が、遠くで呼ぶ。


(君は、まだ痛みを覚えているの?)


 問いは、掴めない。

 けれど、確かに刺さる。

 この街では滅多に経験できない、“刺さる”という感覚。

 セレンは立ち止まり、夜空を見上げた。

 星は、人工照明に埋もれて見えない。

 代わりに、街の灯りが規則正しい星座のように並んでいる。


「……教えてくれよ。俺は、何を覚えてる」


 答えは来ない。

 ただ、冷たい風が、頬を撫でた。

 そこにわずか――ほんのわずかに、ひり、があった。

 指で触れる。何もない。

 でも、確かに、あった。



 部屋に戻ると、アリアが柔らかく迎える。

「おかえりなさい。今日の会話スコアは平常より17%増。友人との交流は寿命に良い影響――」

「アリア、少し黙ってくれ」

「了解。やさしい沈黙を提供します」

「(なんでも商品化するな)」


 シャワーの湯は体温と同じ、鏡は歪みを補正し美しい輪郭を返す。

 ベッドに横たわり、天井の白い輪を見つめる。

 目を閉じる直前、セレンは〈ペイル〉の端子を指で押さえた。

「アリア」

「はい」

「〈ペイル〉の介入閾値、ほんの少しでいい。下げられる?」

 数秒の沈黙。

「規格値からの逸脱は推奨されません」

「推奨いらない。自分で選ぶ」

「……あなたは“痛み”を望みますか?」

 息を吸い、吐く。

「知覚を望む。痛みがあるなら、それも含めて」

「了解。医療リスクを最小に、閾値を0.5%だけ――やさしく下げます」

「ありがとう」


 寝室の光が、ゆっくりと薄くなる。

 静寂。

 セレンは、昨日から続く“青い声”の輪郭を待つ。

 すこしして、闇のどこかに、波が立つ。


(……君は、名を持っている?)


 声が問う。

 セレンは夢の中で、なぜか笑った。

(セレン。君は?)

(わたしは――ノヴァ)


 遠い。

 でも、確かだ。

 名は、光だ。

 光は、痛みを描く。

 痛みは、生きているを思い出させる。


(セレン、君はまだ痛みを覚えているの?)

(覚えている、かもしれない)

(なら、きっと大丈夫。君は“均される前の揺れ”を、手放していない)


 揺れ――。

 ベッドの端で、セレンの指が、ほんの少し丸まる。

 〈ペイル〉の介入が遅れ、胸に細い針が一本、刺さるように走った。

 痛み。

 痛みは、消えない。

 痛みは、消えなくていい。


 セレンは、目を開けた。

 闇の中で、笑った。

 それはこの街が教えてくれなかった、ぎこちない笑い。


(ノヴァ。明日、教えてくれ)

(なにを?)

(怖がる練習の仕方)

(うん――一緒に、少しずつ)


 目を閉じる。

 眠りの縁で、セレンは思う。

 “なんでもない”で埋められた一日の隙間に、なんでもあるが、たしかに芽を出した、と。


 無痛の街の夜は静かだ。

 けれど今、ひとつの部屋で、わずかな心拍の乱れが生まれ、それは均されず、揺れたまま、朝を待つ。


 朝の光は、また温度を持たない。

 けれど、その下で、ひとりの青年は――

 温度のない光に、温度を感じる練習を始める。


(つづく)



■ セレン(Seren)


性別:男性 年齢:17歳 出身:ハルモニア都市〈ネオ・コーラス〉


> 「痛みを知らない世界で、“感じる”ことを探している。」




ハルモニア連合体の中でもっとも平均的な少年として育った青年。

穏やかで理性的だが、どこか“他人事”のように生きてきた。

感情制御装置〈ペイル〉によって悲しみも怒りも制御されているが、

ある夜“青いノヴァ”を聞いたことで、自分の中に残る“揺れ”の存在に気づく。


会話は皮肉と理屈が多く、周囲からは「真面目すぎる面白人」と評される。

だが本人は、笑いの“温度”を理解しようとしている段階にある。

物語を通じて、「痛みを感じる勇気」と「感情の自由」を学んでいく。


外見:

白銀がかった灰色の髪。瞳は淡い蒼。中肉中背。

服装は市民標準の淡色スーツだが、襟元に古い布の紐を巻いている(夢の中の“誰か”からの贈り物)。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ