1-1.飴と雪
カーテンが閉められた薄暗い子供部屋。
ベットには少女が一人、高校指定のブレザー姿のままで眠っている。
カーテンの隙間からの日差しを浴びて、少女の飴色の髪はツヤツヤと光る。
ヴヴヴヴヴ、というくぐもった振動音。
飴色の少女──七御撫子はポケットからの振動で目を覚ます。撫子は上半身を起こし、ポケットからスマホを取り出した。画面を見るなり慌ててスマホを手放す。床に転がるスマホには、《キョーコ》と表示されている。
少ししてスマホの振動が止まる。
撫子は胸に手を当て、深呼吸をした。
スマホの電源を落とす。
立ち上がり、ふと目の前にある全身鏡に目が向く。
飴色の頭髪に、飴色の瞳。
一見するとクールそうな見た目で、その綺麗な瞳に活力は無く、そして痩せている。
どうしてブレザーを着たまま寝たのだろう、と撫子は思わない。
「(ああ、またか。)」
彼女は死んだような目で、そう思って少し息を吐く。
その後、彼女はシャワーを浴び、また先ほどまで来ていたブレザーを着た。そして大きな黒縁眼鏡──女の子には不釣り合いな──をかけると、通学バックを肩に引っ掛ける。時刻は午前10時を少し過ぎた頃。彼女は高校生であり、学校には大遅刻だが、彼女は急がず、ただ淡々と支度をし、家を出た。
撫子が住んでいるのは、瓦屋根二階建てで、庭のある、広い土地を使った田舎特有の一軒家。門前の表札には撫子を含む五人の名前がある。
しかし今、ここに住んでいるのは撫子ただ一人。
撫子の住む町は田舎も田舎で、山に囲まれたこの町は至るところに田んぼやキャベツ畑が広がっている。夏は肥料で臭うし、虫や蛇が多くでる。冬は雪で交通機関がダメに成るし、数少ない名物の私鉄は資金不足で倒産しそうで、都会に出るための電車は一時間に一本だ。
しかしそんな町が撫子は大好きだった──のは、ついこのまえのこと。
一ヶ月ほど前から、撫子の飴色の瞳に移る世界は変わってしまった。
撫子は畑に囲まれた通学路を歩き、最寄りのバス停に到着する。ボロボロでサビサビのベンチにちょこんと腰掛け、 ふと、錆びたガードレールの向こうの畑に、撫子は目を向ける。
老人。
『あっきゃっきゃっきゃっきゃ!』
畑の周りを老人が走っている。ボロボロの布を纏っていて、走り方は両手をついた四つ足。そしてなによりも目が三つあった。“それ”は彼女に気付いたのか、すくっと上体を起こし、不気味な笑みを浮かべて『おーい』と撫子を叫んで大きく手を振っている。
撫子は直ぐに目をそらす。
『おいってー!』
それは四足獣のような走り方で撫子に迫る。
そのときにちょうどバスが来て、撫子はバスに乗車。
“それ”はしばらくバスを追いかけてきたが、途中でどこかへ消えてしまった。
撫子の世界に突如“それら”は現れた。
“それら”は人間では──ひいては“生き物”でもない。
撫子はそれらを“妖怪”と呼んでいた。
そして妖怪は、どうやら撫子以外には見えない。声すらも聞こえないようだ。
「……。」
撫子はその妖怪に恐怖を感じていたりとか、不安に感じていたりとか、そういう感情は無かった。決して“慣れ”などではなく、それは撫子個人の問題であった。
今の撫子には、そういうものに反応する気力がないのだ。
「……。」
撫子はバスの一番後ろの席にちょこんと座り、窓から流れていく景色を眺める。用水路にかけられた細い橋の上で、子供ほどの大きさの者が押し相撲をしている。遠目だが、くちばし、頭の皿、そして甲羅があるのが分かる。
「(あれが多分、河童っていうんだろうなぁ……)」
その近くを、押し車を押したお婆さんが歩く。お婆さんは河童に気付かずに素通りする。
撫子は何も感じない。
15分ほどバスに揺られ、撫子は高校にたどり着いた。
校舎は鉄筋の校舎と木造の旧校舎に別れており、旧校舎は部活動以外ではほとんど使われておらず、撫子たち生徒は皆、鉄筋の校舎で授業を受ける。トイレに幽霊が出るとか、そんな噂があったりするような、田舎によくある一般的な男女共学の高校だ。
撫子が到着した時間帯がちょうど休み時間だったこともあり、撫子はあまり目立つこと無く教室へ向かうことができた。
撫子は目線を下げ、なるべく足元のみを見るようにして歩く。教室に入り、自分の席へと向かう。
撫子に気づいたクラスメイトが「あっ、七御さん」と撫子に話しかける。
「……。」
撫子はそれに答えること無く、窓側の席に行って、黒渕眼鏡を机におき、腕を枕にして顔を臥せった。
クラスがざわつく。
男子の二人組が、遠くから撫子を見て話をしている。
「七御のやつ、やっぱヤバそうだな……」
「……そりゃあオマエ、家族が亡くなってまだ一ヶ月もたってないんだぞ?」
二人組は心底心配そうに撫子を見ている。
この話は本当で、撫子は一ヶ月ほど前に、事故で家族全員を亡くしていた。
二人組の話し声が撫子の耳に届く。撫子は手の間からチラリとその男子生徒を見た。
「あっ、」
男子生徒と目があった。
その瞬間、撫子の飴色の瞳がうっすらと輝き、飴色の髪がふわりと風になびく。不思議なことに、撫子の瞳に“その男子生徒が今何を思って、何を考えているか”が鮮明に映る。
撫子は慌てて目を閉じるが、瞳の煌めきは収まらず、撫子は強制的にその“男子生徒のこと”を見ることとなる。
瞳に写る男子生徒は言う。
『一ヶ月前』
『親父の運転する車が猛スピードで電柱に突っ込んだんだろ?』
『七御以外は全員死亡』
『確かに気の毒っちゃあそうだけど、実際、何があったんだろうな』
『聞くのはダメだよな。でも、知りてえよな』
『気になるな』
『聞きたいな』
『何があったか聞きたいな』
『だって面白そ──』
撫子は両目を、潰れてしまうのではないかというほどに強く瞑り、そして手を振り上げ、力任せに机を叩く。
──バンッ!
大きな音。
クラスは静かになる。
撫子は目をつぶったまま通学バックからイヤホンを取り出し、耳につけ、また机に臥せった。
撫子は一ヶ月ほど前から妖怪が見えるようになった。それとほぼ同じタイミングで、撫子の瞳はもうひとつ、あるものを映すようになった。それはきっと“他人の心の中”、撫子の憶測にすぎないが、他人の考えていることが映像として見えるのだ。
撫子が他人を見たとき、具体的には主に“目と目が合ったとき”に、撫子の意思とは関係なく、相手の本心のようなものや、思い出している記憶が、撫子の瞳に映るのだ。
撫子はその力を、“観る力”と呼んでいた。
「……。」
少しして担任教師がやって来て、授業が始まる。
撫子は机に臥せったままだ。
やってきた担任教師が撫子に何か言うが、撫子はそれに反応せず、そのままの姿勢で授業を受け始める。
授業が中盤まで進み、撫子はようやく顔を上げる。目をつぶったまま顔を上げ、直ぐ様メガネをかけて、その後に目を開ける。
メガネに度は入っておらず、レンズはただのガラスで、つまりは伊達メガネだ。
どうしてメガネをかけるのか。
これが亡くなった父親の形見であるということもあるが、メガネ越しに見ることにより、一応はその“観る力”を押さえることができていた。
それに気づいたのだって、つい最近のことだ。
「……。」
撫子は何の気なしに、窓から外の景色を眺める。撫子のクラス(二年三組)は鉄筋校舎三階にあり、そこから見える校庭では三年生が持久走をしている。
撫子は校庭へ顔を向けたまま、教室の音を聞く。
板書で削れるチョークの音。
黒板の方へ向いていても教室の隅々まで届く教師の声。
教科書をめくり、そしてノートを取るシャーペンの擦れる音。
小声で雑談する廊下側後方席の男子生徒。
クラスメイト含め、撫子の身の周りではなにも変わらない日常が繰り返されているが、撫子は自分だけがその日常に入り込めてないように思えてしまう。
独り、教室に取り残される撫子。
「?」
撫子は雑音の中に、何かが聞こえた気がして耳をすます。
『………………ぃ』
『…………ぃぃ』
少年の声が廊下で反響している。
『……おいぃぃ』
そして少年の声はどんどんと教室に近づいてくる。声のする方を、つまり撫子は教室前側の、開けっ放しの引き戸の向こうの廊下を見た。
廊下には不思議な少年が立っていた。紺色のボロボロの和服を着ていて、頭にはディスカウントストアなどで売っている馬の被り物をつけている。そして、その少年には右手と右足がなく、右足にあたる部分からは木の枝が延びていて、義足のように脚の代わりをしている。
少年とは見た目の話で、この者は妖怪であった。
『ッ!』
撫子はギョッとした。
『あおい』
妖怪は馬の被り物をしているので目を見ることができないが、撫子はその少年と目が合ったのが分かった。被り物をした妖怪は撫子を指差し、
『あおい』
あおい、とだけ言って、撫子の席へとやってくる。
驚いて固まる撫子。
そんな撫子へ、被り物をした妖怪は静かに抱きつく。
『あおい、あおい。』
被り物をした妖怪の声に抑揚は無く、無感情に『あおい』とだけしか言わない。
撫子の“観る力”は人間だけではなく、妖怪にも効いてしまう。だから撫子は、自身に近付いてくる妖怪が“自身に悪意があるかどうか”がなんとなく分かる。通学中に撫子を追いかけてきた三つ目の妖怪は、恐ろしいことに“悪意があった”。そういう妖怪からは逃げるのが先決なのだが、中には“なにも考えずに目的無くやってくる妖怪”もいる(撫子は、この飴色の髪や、そもそも妖怪が見える人間が珍しいから、好奇心で寄ってきていると考えている)。そういう妖怪は“無視する”ということを一貫して行っていた。大体の妖怪が直ぐにどこかへ行ってしまう……のだが、この馬の被り物をした妖怪は違った。
「……。」
『……。』
馬の被り物をした妖怪は撫子に抱きついたまま放そうとしない。
そうこうしている内に授業が終わる。
「……。」
授業終わりの号令の後、撫子は力ずくでその馬の被り物をした妖怪を引きはがし(思うように力が入らず、少し手こずった)、通学バックを持って足早に教室を出る。
『待って。待って。』
早歩きで生徒の間をすり抜ける撫子の後ろを、馬の被り物をした妖怪がついてくる。
『待って。待って。』
撫子は階段を下り、渡り廊下の先、木造校舎三階の空き教室にたどり着く。この教室の鍵は壊れており(施錠していたとしても開けることができる)、常に入れる状態である。当然誰もやってくるはずがなく、そこは撫子が見つけた穴場であった。
「……。」
『……。』
その穴場に飴色の少女(撫子)一人と、馬の被り物をした妖怪が一体。
撫子は窓側の席に、そして馬の被り物をした妖怪は横の席にちょこんと座っている。
先に話を始めたのは、その妖怪から。
『元気ないか』
声には相変わらず抑揚がない。
「……。」
撫子は無視を決めこみ、なにも聞こえていない体でいる。撫子は通学バックに手を伸ばし、中からお昼御飯を取り出した。おにぎりが1つと、120ミリリットルパックのお茶が一本。
『元気ないか』
妖怪の問いに答えず、撫子はおにぎりの封を開け、口に運ぼうとして、止める。
「……。」
活力の無い瞳でおにぎりを見つめる。
撫子には食欲が無かった。
ふと、撫子は妖怪の方を見る。
馬の被り物は首をちょこんと横に傾ける。
撫子は口を開く。
「あなた、名前は?」
撫子の声は透明感のあるソプラノで、辺りの空気を心地よく揺らす。美しさとは裏腹に、その声に活力は感じられない。
妖怪は首を傾げ、復唱。
「なまえ、か。」
妖怪は名を名乗らず、「んん~」、と腕を組んで首を傾げる。撫子はそんな妖怪のことを、少し可愛いな、と思った。
撫子は手に持っているおにぎりを妖怪へ見せる。
「これ、食べたい?」
『うん。食べたい。』
「じゃあ、あげる」
『いいのか。』
撫子は、うん、と頷いたあと、言葉を続ける。
「帰ってくれるんなら、あげてもいいよ」
妖怪はコクリと頷き、おにぎりを受け取って立ち上がる。『ぷれぜんと、ぷれぜんと』とその場で二回ジャンプ。
撫子の瞳がかすかに光り、髪の毛がそよぐ。
撫子は、ふふ、と笑む。妖怪が本心から喜んでいるのが分かったから。
妖怪はおにぎりを懐へしまい、嬉しそうに教室の周りを走ったあと、
『またあした。』
と言って手を降り、教室から出ていく。
しまった、と撫子は思った。あの妖怪は明日も来るらしい。
「……。」
まあいいか、と撫子は心の中で呟く。
撫子はお茶に手をつけず、バッグにしまった。そしてイヤホンをつけ、眼鏡を外し、組んだ腕を枕にして机に臥せる。
窓から指す日の光は太陽が天辺にあるので教室へ差すことはない。明かりのついていない教室は薄暗く、臥せる撫子に影を落とす。
開きっぱなしになっている撫子の通学バッグには、頑丈そうなロープが、わっかを作ってある状態で入っていた。
昼休みが終わり、撫子は教室へ戻る。
午後の授業も午前と同じように、机に臥せったり、外の景色を眺めたりして過ごす。何度か教員に注意されたり、何か言われたりしたが、撫子はそのすべてを覚えていなかった。上の空というやつで、耳に入ってももう片方の耳からすっぽ抜けてしまうのだ。
ホームルームが始まり、担任の女性教員が教卓の前に立つ。その教員ーー五木田奈緒子という教師は三十代で小太り。去年赴任してきたとは思えないほど、クラスメイトとは打ち解けている、明るい人だ。アダ名は誰がつけたか、“ナオちゃん先生”。
「──では、プリントを配りますね。」
しゃっきりとした、教室の隅々まで届く声。
ナオちゃん先生は列の先頭へ人数分のプリントを配る。撫子はまわってきたプリントを見ず、半分に折った。
配られたプリントを見て、クラスがざわつく。
プリントには“進路希望調査”と書いてある。
「進路について、しっかりと考える時期になりました。若さは可能性です。みんなはなんにだってなれますよ!」
ナオちゃん先生の言葉に、クラスの男子が面白半分に反応する。
「それじゃあオレっ、東大行っちゃおっかなぁ~!」
行けるわけないじゃんよ、と女子生徒からヤジが飛び、クラスは笑いに包まれる。
笑い声の中、ナオちゃん先生は良く通る声で声を張る。
「いいよ行ける!でも“東大に行って何をするか”が重要ですけどね。もちろん、“東大が好きだから東大に行く”っていうのも全然有り!」
予想外の真面目な返答に、少し笑い声が収まる。
ナオちゃん先生は続ける。
「わたしが先生になろうって決めたのは、ちょうどこの時期だったの。担任の先生がとっても良い先生で、“わたしもこうなりたい!”って思ってね」
気づくと、笑っている生徒は居ない。
ナオちゃん先生は続ける。
「そのときの“なりたい”っていう気持ちに気付く切っ掛けになったのが、進路希望調査でした。みんなも“将来の自分がどうなりたいか”を考えるが切っ掛けにしてほしい。しっかりと考えて、悩んでみてほしいな。分かんないことがあったら先生、相談にのるから。」
めんどくせー、とさっきの男子生徒がブー垂れる。
クラスの雰囲気はとても良い。
「……。」
撫子はナオちゃん先生の話の意味が分からなかった。将来のことなんて、撫子には想像が出来ないのだ。
だって、今日を生きることに必死なのだ。
息をするのですら失敗しそうになる。
今日が通りすぎるのを耐える日々のなかで、明日のことなど考えられるだろうか。
現実が無茶苦茶で、未来のことなんて想像できるだろうか。
それを“時期だから”なんて理由で考えさせるなんて、なんと無責任なことか。
将来のことなんて知らないし、知りたくもない。
明日のことを考えると死にたくなる。
今ここで死んだっていい。
生きていることに申し訳なさすら思う。
「……。」
撫子は気分が悪くなり、手に持っている進路希望調査を握りつぶす。くしゃくしゃにして、通学バッグに入れる。
ナオちゃん先生はそれをチラリと見たが、咎めず、そのままホームルームを進行する。
「じゃあ、明日の予定ね。体育の加藤先生から体操服の忘れ物が──」
そうして、ホームルームが終わる。
帰りの号令が終わると、撫子は通学バッグを肩にかけて足早に教室を出る。ナオちゃん先生が引き留めるが、ナオちゃん先生の声は撫子の耳に入らない。
「……。」
撫子は目線を下げ、廊下を歩く生徒達の間を縫うようにして足早に歩く。
撫子はとにかく、一人になりたかった。
少なくともあんな、未来に思いを馳せている者の中には居られなかった。
そうして下駄箱にたどり着き、靴を履き替えて学校を出ようとした時、一人の女子生徒に腕を強く掴まれる。
女子生徒は声を張る。
「ちょっとデコっち!!どーして電話でないわけ!どんだげウチが心配したと思ってんの?!」
その女子生徒の、少しだけ低く深みのある大人っぽい声は、怒りに満ちていた。
デコっちという愛称で呼ばれた撫子は、目を丸くしてその女子生徒を見る。その女子生徒はつやつやした黒のロングヘヤ―で、少し丸顔。背は高く、ブレザーの上からでも分かるくらいに胸が大きい。
「キョーコ……」
撫子は彼女の愛称を呟く。
彼女は撫子の幼馴染にして親友。
名前は七重杏子。
杏子は火を吹く勢いで口を開き、しかし撫子の顔を見るや否や目を丸くする。
「デコっち、また痩せたんじゃない……?」
撫子は杏子の手を振り払う。
「……もう構わないでって言ったよね」
撫子は振り絞るように、何とか声を出した。
聞いて、杏子はダンッと足を鳴らす。
「なんでよ?!ウチら親友ぢゃん!タケちゃんも心配してたよ?」
撫子は杏子の目を見る。撫子の瞳がうっすらと煌めく。メガネは既に意味を成していなかった。撫子は杏子を“観て”しまう。撫子の瞳に“観えているもの”は想像を絶するもの。撫子は吐きそうになり、口元を手でおおう。
杏子は泣きそうな顔で言う。
「ウチがなにかした?言ってくんなきゃわかんないよ!デコっちがツラいときくらい、力にならせてよ!」
目に涙をためて熱く迫る杏子。
しかし撫子の瞳に写る杏子は、その言葉と真逆の態度・言動だった。撫子の瞳と髪の毛が煌めき、髪の毛は風になびいたように揺れる。撫子の瞳は杏子の本心を“観る”。
『消えろ……』
撫子の“観る”杏子は撫子の首を両手で掴む。
撫子の“観る”杏子の顔は影になっていて、表情が読み取れない。ただ、杏子が狂おしいほど自分を怨んでいるのが分かる。この感情の起源に撫子は心当たりがない。
『消えろ。』
『消えろ。』
段々と力が強くなっていく。
『消えてしまえ。』
『あんたさえ居なければ!』
『居なくなれ!!』
その言葉に、現実の杏子の言葉が重なる。
『デコっちが居なくなっちゃいそう』
撫子は絶叫。辺りに金切り声が響く。
「あ゛ああ゛ああうるさいうるさいうるさい!!!!」
杏子はビックリして後ずさる。
「デ、デコッち……?!」
杏子は撫子に触ろうとする。
「触んな!!!」
撫子は叫ぶ。
カアッと足の先から頭の天辺に血流が巡る。
撫子の瞳、髪の毛から稲妻のようなギザギザの光が漏れる。
撫子と杏子の間の空間がグニャリと渦を巻き、飴色に色付くと、飴細工のように柔らかく広がり、飴色で半透明な壁となって出現する。
杏子は撫子に触れようとするが、その飴色の壁に遮られる。
「え……?」
杏子にはこの飴色が見えていない。
撫子は一ヶ月前、人の心が“観える”ようになった。だがそれだけではなかった。撫子は身の危険があるときや感情が高ぶったとき、どういうわけか、今のように“飴色の壁”を出現させることがあった。
撫子は“妖怪”と呼称する得たいの知れないものが見えるようになったと同時に、得たいの知れない力を持ってしまったのだ。
撫子は立ちくらみを起こして頭を押さえる。飴色の壁は空間に溶けるように広がり、直ぐに消えてなくなった。
撫子は通学バッグを落としてしまうが、そんなこと関係なく、その場から駆けて逃げる。杏子の声は撫子の耳に入らないし、入っていたとしても、撫子は振り向かなかった。
撫子は夢中で走る。途中で何度も転び、砂にまみれ、擦り傷をいくつも作る。
「(もういやだ!)」
撫子は走る。
「(もういやだ!!)」
撫子は限界だった。
一ヶ月前はこんなこと思わなかったし、こんな気持ちも知らなかった。撫子は一ヶ月前に戻りたいと思った。一ヶ月前の、家族がいて、親友とも他愛もない話ができていた、あの美しい世界に戻りたいと思った。この瞳や髪の毛だって、元々は……。
何もかもが変わってしまった、
撫子の瞳に写る世界は醜く歪み、撫子自身も醜くなってしまったのだ。撫子は“自身は人間では無くなったのだ”と思っていた。もう駄目だ。
世界は変わってしまった。人は醜いものだと知ってしまった。自分は多分、怪物になってしまった。
この先ずっとこのままなら。
ずっとこのままなら。
このままなら。
わたしは。
わたしは。
わたしは。
「……。」
撫子は立ち止まり、空を見上げる。曇っていた。
「もう、いいかな」
撫子はその考えに行き着き、ホッとして笑みを浮かべる。その表情は清々しいものだった。撫子はシンプルに、死のうと、そう思った。
曇り空を見上げる撫子。ふと後方から遠吠えが聞こえてくる。
『オオォォ────ン』
撫子は気にも止めなかった。空を見ていた撫子は、目線をもとに戻す。
目の前には神社があった。
「……。」
どういう訳か、撫子は神社に居た。
色の完全に落ちている鳥居。石段は朽ちており、シュッとしてスタイルの良いキツネのような狛犬は苔で覆われている。自然と一体化しており、人工物でありながら大自然を感じさせる。
撫子はよくこの神社に来ていた。ある時は家族で、ある時は家出をして行く宛がないとき、そしてなんとなく一人に成りたいとき。
どうして神社にいるのだろう、と撫子は考えなかった。考える余裕が無かった。考えても無駄だと思った。
目の前にある本殿の扉が開くのを、撫子は見た。本殿の奥は暗黒で、中がどうなっているのかは見えない。パラパラと雪が扉から漏れた後、本殿は直ぐに、ゆっくりと閉じた。
撫子は直感する。
奥にはきっと神様がいる。
撫子は少しだけ息を吐く。
木々が揺れた。
撫子の横を風が駆け抜ける。
撫子は風を追って振り向いた。
ブレザー姿の小柄な青年が立っていた。
ピッシリとしたブレザー(撫子の通う高校の物だ)に、良く手入れされた黒のローファー。覗く肌は陶器のように艶やか。下げた短い髪の毛は毛先がほんの少し巻いていて、雪のように真っ白だった。幼さの残る中性的な顔立ちで、若干だがつり目。瞳はザクロの果肉のような赤色。
あまりにも非現実的で、あまりにも完成された造形。
撫子は口を開く。
「あなたは、神さま?」
青年は答える。
『そうだよ、って言えばいいんだろうけど、そんな大層なものじゃないな。どこからが神さまなのか曖昧なところだけど──』
青年の声は透明感のあるアルトで、辺りの空気を心地よく揺らす。美しさと比例するように、その声は活力で満ちていた。
青年は顎に手を当て、んん、と首をひねる。
『──つまる話、“さま”がつくほどの力はボクにはないのさ。』
青年は歯を見せて無邪気な笑みを見せる。とても良い歯並びだが、右側の犬歯が若干大きい。
撫子の髪の毛と瞳が、飴色に煌めく。飴色の瞳に、真っ白な雪色が写る。
撫子は青年を“観た”が、青年の心は“観えなかった”。しかし、青年が“なんであるか”が分かった。
それと同時に目の前から青年が消える。代わりに居たのは一匹の獣。前足から頭まで、つまり背丈は大体1メートルと半分ほどで、赤い目に真っ白な毛並みの、美しいオオカミだ。上顎右側から下に伸びる牙が一本、下唇を突き破っている。
撫子は目を細める。
「わたし、あなたに食べてもらえるのかな。」
先ほどまで青年だったオオカミは、撫子へ目を向ける。オオカミは口を動かさないが、青年の声質をそのままに音声が放たれる。
『そう思うならもっと栄養をつけなよ。到底、おいしそうには見えないよ』
言われた撫子は笑みを見せた。
疲れきった笑みだ。
撫子はその場で肘を降り、地につけ、深々とお辞儀をする。
「どうか、わたしを殺してください。」
青年だったオオカミは撫子を見下ろす。
『顔をあげなよ』
言われて顔を上げた瞬間、青年だったオオカミは大きく口を開ける。
「(やっと終わる……)」
食べられる、と思った撫子。
青年だったオオカミはベロを伸ばし、撫子の顔を一舐めする。大きなベロは撫子の顔を余すところなく舐めた。舌は撫子の飴色を舐め取る。
撫子の意識が遠退く。
『こんなに綺麗な世界なのに、死ぬなんてもったいないよ。』




