0-1.白銀の世界
1.白銀の世界
飴色の少女はハッとして、辺りを見渡した。
辺りは濃い霧で包まれ、1メートル先ですらろくに見えない。
地面へ目を向けると、確認できる限りは雪で覆われている。
はらはらと空から優しく雪が降る。
霧の中から若い男の声がした。
「参ったね、こりゃあ。なにも見えんわ。」
サク、サク、という足音とともに、飴色の少女の目の前を、その若い男が歩いていく。
男は特徴的な服装をしていた。
飴色の少女はその服装を見たことがあった。
具体的には歴史の教科書の中で、邪馬台国だとか、そういう時代の服装として。
男は腰に剣を下げ、右手に方位磁針を持っていた。
不自然なことに、その方位磁針はプラスチック製であった。
飴色の少女は無意識に男を追った。
彼女は雪の上を歩くわけだが、雪には足跡がつかなかった。男には彼女が見えなかったし、声をかけたとしても、きっと聞こえないだろう。
彼女はこの世界に干渉ができない。
見ることしかできない。
それはまるで、物語を読んでいるように。
読者は物語に干渉できない。
飴色の少女は知っていた。
これは誰かの記憶(物語)なのだ。
男は方位磁針を見て、ため息をつく。
「コンパスも効かねえし、どうしようかな」
呟いてから少しして、ザク、ザク、と足音が聞こえてきた。足音が近づくにつてて、あんなに濃かった霧が何かの間違いだったように晴れてゆく。
現れたのは一匹の獣。
少女は獣を見て──否、見上げて、目を見開いた。
白いオオカミであった。
地面から頭まで、実に3メートル以上はある。その大きな口には、自身よりも大きかったであろう白鹿の生首を咥えていた。オオカミの瞳はザクロの果肉のように赤黒く、白目はピンク色に充血していて、目の焦点は合っておらず、双方がギョロギョロと独立して動いていた。
何よりも注目するのはオオカミはその口だ。
白鹿の生首でよく見えないが、過剰に生えた牙がデタラメに伸びているのがわかる。牙が顎の中に収まっておらず、おかしな方向に生えた牙が、何本も何本も、唇や鼻の辺りからを突き抜けていた。
飴色の少女の心臓が、キュッ、と強張る。
無意識に汗が吹き出る。
これはダメなやつだ。
関わってはいけない類のものだ。
飴色の少女はそう思った。
男はそう思わなかった。
「おおっ、随分とリッパなワンちゃんだな!」
ハハハ、と笑ってオオカミを見上げている男。
場違いにも程がある。
すると、
『鳴くか 乞うか。』
無感情な声がした。
冷たい声色だ。
それは間違いなくオオカミの声だった。
男は苦笑い。
「乞うってなにを?
縄張りに入っちゃってごめん、的な?」
オオカミは白鹿の生首を離した。
その大きな口が露わになる。
異様に発達した顎は、上と下とで大きさが異なり、歪んでいて、噛み合わせることが全く出来なそうであった。不揃いの、そして過密なほどに生えた牙は下顎からも突き出ていた。
口が閉じられないので口の中が少し見える。
少女はゾッとした。
口の内側、本来は生えない場所にまでも、みっしりと牙が生えていた。
『お、おオオ、御オオ。
命は贄か。乞うか。
口をみみみヌヌぬか。怖れよ。』
オオカミの声に感情はない。
まるで無機物が発しているようで、冷たい感じがする。
男は顎を触り、んん、と考える。
「ああ、そういうこと?
いや、オレは生贄じゃねえし。
あと、別にオマエも怖くねえし。」
『……。』
オオカミはなにも言わず、スンスンと鼻を鳴らして男に近付けた。
男は抵抗せず、オオカミに臭いを嗅がせたあと、オオカミの鼻と口元に手を置いて、軽く撫でた。
「いやぁ、怖いってか、むしろカッコいいと思うんだが。オレ個人としちゃあ。」
男はオオカミを讃えた。オオカミの大顎を褒めた。男の言い方と態度は、本心からの言葉のようであった。飴色の少女はそう思ったし、実際にもそうであった。
ザクロの瞳が、初めて男に向けられた。
オオカミは低い声で、ヴヴ、と喉を鳴らし、声を出す。
『メ。』
「め?』
『め、め、名、、を、言えよ、名ヲ。』
「……。」
男は黙って聞いている。オオカミが言い終わるのを待っている。
『言えよ、ちい、さき者よ、チチチ、、き、口の者。』
「んん、ああっ、名前?名前を聞いてる?
オレ、ここでは──────っていうんだ」
男は名を名乗ったが、突如吹いた風のせいで、少女の耳には届かなかった。
「で、オマエは?」
『……。』
「オマエの名前は?」
『………。』
オオカミはなにも答えなかった。答えられなかった。オオカミには名乗る名前が無かった。
「ん~、じゃあ勝手に、××、って呼ぶわ。」
××のところだけ、ノイズが入った。少女は××の部分を聞き取ることができなかった。
「で、頼みたいことがあんだけどさ、」
『……。』
「オレを美濃の国まで案内してくんない?」
オオカミは返答をせず、代わりに顔を右方向へ向けた。
「あ、そっちなの?
いやぁ、助かるわマジで。」
オオカミは歩き出す。男はその後を追う。
これから始まるオオカミと男の旅を、優しく降る雪が隠す。
雪が一粒、
読者であるはずの少女の肌に触れ、
溶けた。
溶けた雪は水滴一滴分にも満たない。