春風駘蕩
その夜、窓を開け放ったリビングには、春の夜風がやさしく流れ込んでいた。食後のまったりした空気の中、二人は床に座って温かいお茶をすすっていた。
「ねえ、おじさん」
「ん?」
「名前って、どうやって決まるの?」
「名前? そうだな……普通は親が、生まれてすぐにつけてくれるものだよ」
「そっか……。じゃあ、あたしには……なかったのかも」
「え?」
「覚えてないんだ。自分の名前。ずっと誰にも呼ばれたことなかった気がする」
こはるはぽつんとした声でそう言った。寂しい響きに、陽一は胸が締めつけられるような思いになった。
「でも、今は“こはる”って呼んでくれてるから、それがあたしの名前でいいや。うん、それでいい」
「……いいのか?」
「うん。おじさんが呼んでくれるなら、それで十分」
陽一はこはるの頭をやさしく撫でた。
「じゃあ、“こはる”って名前は、これからも大切にしていこうな」
「うん!」
こはるは嬉しそうに笑い、畳の上にごろんと寝転がった。
窓の外から、小さく「ちりん」と音がした。お隣の家で、少し気が早い風鈴が吊るされていたらしい。
「風鈴……もう夏の準備かな」
陽一がつぶやくと、こはるは目を閉じたまま「いい音だね」と微笑んだ。
春の空気の中に、ほんの少しだけ夏の気配が混ざっているような、不思議な夜だった。