有為転変
春の陽射しがカーテン越しに差し込み、部屋の中をやわらかく照らしていた。
「おじさん、起きてー。ほら、パン焼けたよ」
こはるの声が響く。いつもの、変わらない朝だった。
リビングに降りていくと、トースターの前でこはるが立っていた。エプロン姿に、ちょっと得意げな笑顔。焦げ目がついたパンの匂いが部屋中に広がっている。
「すごいな。ちゃんとタイマー使えるようになったのか」
「ふふん、もう何回もやったもん。今日はジャムもあるよ、見て見て」
テーブルの上には、小さなガラス瓶に詰められたイチゴジャム。陽一が先日スーパーで買ってきたものだった。
こはるは相変わらず、外には出られない。家の中で、彼女はすべてを完結させている。テレビも、本も、おもちゃも、ゲームも――そして、陽一との会話も。
ふと、昨夜読んだ新聞記事のことが頭をよぎった。
(……あの子は、本当に“こはる”じゃない。でも、俺がそう呼んで、彼女がうれしそうに笑って……それだけで、もう十分な気もする)
「おじさん、バターもあるよ。塗る?」
「うん、お願い」
手渡されたパンを受け取って、テーブルにつく。こはるもその向かいに腰かけ、同じようにパンを食べ始めた。
「……ねえ、最近さ」
「うん?」
「すっごく楽しい」
こはるはジャムをぺろりと舐め、にっこりと笑った。
「ここに来て、毎日がすっごく楽しいの。おじさんとゲームして、おやつ食べて、おしゃべりして……なんか、夢みたい」
陽一は一瞬、手を止めた。
「こはる」
「ん?」
「もし、ある日……何かを思い出したり、戻らなきゃいけなくなったら、俺にちゃんと教えてな」
こはるの笑顔が、ふと、曇ったように見えた。
「……うん。わかった。でもね、おじさん」
彼女はパンをかじりながら、ぽつりと続けた。
「私、今が一番しあわせなんだ。だから、もうちょっとだけ……ここにいてもいいかな?」
陽一は黙ってうなずいた。
その日、陽一は仕事に出かけたが、道すがらまた小さなラッキーがあった。普段なら渋滞する交差点がすいすい通れ、通勤途中のカフェでコーヒーを買うと、「今日は1周年記念です」と言われ、半額だった。
こはるの笑顔が、ふと脳裏に浮かぶ。
(本当に、不思議な子だな)
家に戻れば、またいつものように彼女がいて、同じように笑ってくれる。それが、どれだけ大切なことかを、陽一はようやく理解しはじめていた。




