八.無限ループ
皆、一斉に息を潜めた。紀香はつばを飲み込んだ。何十年ぶりだろう。突然姿を消したユージ。
(次男のアース? いったいなぜ。そこで何をしているの)
問いただしたい気持ちをぐっとこらえた。達也のことは理解している。ユージには十分な休息が必要だった。高ぶる気持ちを必死に落ち着かせた。
「皆さん、ユージです。突然姿を消して申し訳ありませんでした」
久しぶりに聞く声。あの頃の日常が一気に思い浮かんだ。達也とユージが一緒に楽しそうに過ごしていた日々。紀香は思わず声を荒げた。
「ユージ、あなた一体今までどこにいたの? 次男のアースってどういうこと? 突然いなくなって、どれだけ心配したと思っているの。達也のことは仕方がないことなのよ。あなたまでいなくなって、私はもう……」
紀香は涙がとめとなく流れた。決して責めたりはしない、そう決めたばかりなのに。ユージの声を聞き、溢れ出る気持ちを抑えきれなかった。
ユージは紀香の悲しむ心を感じた。久しぶりに聞く声。タッキーと過ごしたあの頃の記憶が一気に蘇った。心の奥に安らぎを感じた。もし、自分に母親がいるならきっと……秋山の声が聞こえた。
「君の行動については私は何も言うつもりはない。君は私の息子だが、自分の意志で自由にその道を決めればいい。地球の危機、君の力が皆を救ってくれることを期待しているよ」
暖かい心。父親とはきっとこのように見守ってくれる存在なんだろう。ユージは二人に出会えたことを心から感謝した。ブッダの心配している心も感じた。そして、岡本さんの強い決心も。最後に皆に出会えて本当に良かった。僕一人の犠牲でなんとかなるなら……。
うう……紀香のむせび泣く声。岡本も鼻をすすっている。長い沈黙が流れた。
「やあ、皆さん。横からすいません。聞こえますか。はじめまして。私は岡本紬です。もう一つのアースの」
やわらかな男の声が全員に聞こえた。突然の見知らぬ声に紀香はドキリとした。
(岡本紬? 並行世界の? 私達とは異なる歴史を歩んだ、私達と同じ人たちが住む世界の住人か?)
秋山からその可能性は示唆されていた。謎の惑星の地形が地球に酷似しているというJAXAの報告。それらから推測された我々が認知できない並行世界の存在。彼の説明には驚いたが、正直、半信半疑だった。
しかし、父親の説明を受け、別世界の岡本紬と名乗る男の声を現実に聞いて唖然とした。本当に存在していたのか……
秋山に目を向けた。厳しい表情。彼はどこまで知っていたんだろう。もしかして、彼でさえ、今、初めてこの真実に直面したのかもしれない。あまりにも我々が知らない所で物事が進みすぎている。
「皆さん、驚かれていますね。私もこうしてユージさんを通じて、コミュニケーションを取ることができて感激しています。貴方たちの世界のことはユージさんから聞いていました。私たちより遥かに進んだ世界。悲しいことにそのことが今回は裏目に出てしまったようですが」
紀香は少しホッとした。彼のかもしだす雰囲気。他の世界の住人も我々とそれほど違いはなさそうだ。しかし……眉をひそめた。
(裏目に出たとはどういう意味だろう? 我々のアースが最も危険な状態にある、確かに父親もそのようなことを言っていたが)
紬が続けた。
「今回の件。長兄により銀河の持つ理、精錬された魂を全宇宙に放出するという理が早まったわけですが。特にあなたたちのアースに顕著に悪影響が出ている。何故か。理を変えたからです」
(理を変えた……?)
紀香は眉をひそめた。そのことは秋山から聞いていた。世界大地震の裏で繰り広げられた銀河を巡る想像を絶する試練。クリエイターにより仕組まれた、人類の魂をより高次元に昇華させるための無情な選別システムとの戦い。そして、シンと名乗る少年。
〝親鸞聖人〟
1173年、日本の京都、比叡山延暦寺に生まれた、浄土真宗の開祖。彼はクリエイターの考えに疑問を感じていた。ネイティブシナプスの濃度が三十パーセントを超える魂しか天国へのゲートは通過できない。それ以外はアースで永遠の輪廻を繰り返し、その回数が閾値を超えたとき、自転が停止して人類は滅亡する。
こんな無常が許されていいものか。シンはゲートを守るブッダに抗議し、全ての人類を救う道を自らの力で切り開いた。
〝他力本願〟
善人と悪人の分け隔てなく、ただ一念に念仏を唱えさえすれば、他力、すなわち阿弥陀如来の力により、誰もが極楽に、天国に行くことができるという教え。その理論をゲートに適用させた結果、アースの多くの魂がグランマに移送され、自転の停止は回避。人類はギリギリで絶滅の危機を乗り越えた。理を変えることもまた理。シンは見事に銀河の常識を覆した。
(だが……)
紀香は眉を潜めた。それの何が原因なのだろうか。紬が続けた。
「あなた達はシンの他力本願により多くの魂をグランマに移送してしまった。しかし、未精錬の魂が地球に残されるのには意味があった。銀河から魂が放出された後の生命維持の源としての利用。それが無いあなた達の星は現状では真っ先にその命が終わる。早急に対策を打たなければいけません」
そんな。紀香は言いしれぬ無力感に襲われた。シン、秋山、達也、ユージ、そして父親が命をかけて地球を救い出した。その行為が逆に仇になるなんて。
「そういう事か」
うつむき考え込んでいた秋山がつぶやいた。
「少しいいでしょうか?」
何かに気づいた様子の秋山を紀香は息を潜めて見守った。紬の頷く気配がした。
「紬さん。改めまして、こちらの世界の秋山といいます。本部のプロフェッサーをしています。今、我々が住む地球では、ある不思議な事象が発生しています。子どもたちの成長の停止。いや、もしかしたら気づいていないだけで我々大人も停止しているかもしれません。これはもしかして、他力本願による地球の魂の濃度が薄まったことが原因だったのではないでしょうか? おっしる通り、魂とは生命の源。徐々に地球は生命維持の能力が衰えだしていた。成長の停止は時間の停止。これが意味する事。もしかして、サイクリック宇宙論の収縮フェーズに入りつつある、という事でしょうか」
(サイクリック宇宙論ですって?)
紀香は唖然として、遠い学生時代の記憶を思い起こした。確かあれはいまだに確立されていない不安定な理論のはず。
〝サイクリック宇宙論〟
この宇宙は膨張と収縮を繰り返す。ビッグバンで爆発した宇宙が限界まで伸び切った後、収縮に転じて一点にまで凝縮。超高圧に凝縮した宇宙は再び膨大なエネルギーを発し爆発する。宇宙が始まってから、現時点は四十九回目のサイクルと言われ、今後も永遠に繰り返される。無限ループ。あまりにも突拍子もない理論のため、未だ多くの論争が行われている。
「あっ」
紀香は小さく声を上げた。秋山の意図を理解した。
この理論の特に興味深いのは、収縮時に時間が逆行する事象。落ちたボールは上に登り、前に歩いた人は逆再生のように後ろに戻る。死んだ人が蘇り、若返り、赤ん坊となり、母体に戻る。経験した記憶は徐々に薄れ消えていく。信じられないが、その状態に置かれた人たちはそれが自然の理だと認識する。未来とは経験したことを忘れるもの、モノは破壊から秩序に移り変わるものと。
もし、現時点で地球が収縮フェーズに移行しているのなら、子供たちの成長の停止は説明できる。しかし、そうならば次に待つのは。紀香は未来を想像してゾッとした。平行世界の紬が関心してうなずく声が聞こえた。
「……さすがですね。やはりあなた達のアースは素晴らしい。特に秋山さん。ユージさんのオリジナルであり、アイコス創世記の立役者。きっとあなた達のアースで生きていた私、岡本紬も、私なんぞははるかに超えた存在だったのでしょうね。時間の停止。今回、長兄の攻撃により、その影響がさらに強まっている。サイクリック宇宙。現状は停止状態ですが、そのうち、いや、すでにもう……」
不意にブッダが大きな声をあげた。
「そういえばあの漆黒の惑星。あの調査に中央政府から応援を頼まれていた話。地球からはシンにでてもらおいと思いますが、秋山さん、いいでしょうか?」
秋山がうなずぎ答えた。
「ありがとうございます。助かります。あきら君とアイコスJrは前回の件で相当体力を消耗しているようなので」
二人の会話に岡本は眉を潜めた。調査団? いったい何の話をしている? ふと紀香の視線に気づいた。目を麗せじっとこっちを見ている。
「まだ、合う決心もできていなかったのに。パパ、本当に生きていたのね」
岡本は混乱した。何がどうなっている? 紬の諦めたような声が聞こえた。
「想像以上に時間の逆行が進んでいます。このままのペースだとあと数分で百年ぐらいは戻ってしまうかもしれませんね。我々もうかうかしていられません。長兄のソウル容力もどれだけ持つか。私のアースは出来が悪かった分、魂が無駄に多いのが幸いしていますが」
その自嘲的な笑いに、岡本は何と答えていいかわからなかった。ユージの気配がした。
「岡本さん。最後にあなた達と話せて良かった。銀河の崩壊。それを防ぐ手立てを説明します」