不思議な夢
皆様、お変わりなくお過ごしでしょうか。
私は風邪を引いてしまいました…早く治したいです。
気が付くと、私は森の中を必死に駆け抜けていた。
まだ鉄猪に追いかけられているのかと思ったが、どうやら違うらしい。
ただ、早く逃げないと自分の命は勿論、この両腕で必死に抱きしめている小さな存在の命すら危うい。
必死に逃げて隠れて、漸くたどり着いたのは結界が張られている国境付近だった。
結界自体は見えないが、とても強い魔力で張られているのは感じられた。
「……この子だけでも逃がさなきゃ」
自分の意思とは関係なく言葉が零れた。
体の全てに宿る魔力を、自身の能力に注ぎ込むために集中する。
グズグズしている暇は無い。
早くしなければ、あの者が追いついてしまうのだ。
せめてこの子だけでも生き延びれば、きっと……。
愛しい我が子との今生の別れを惜しむ気持ちが込み上げてくる。
最後にもう一度だけ顔を見れば、この目に映るのは綺麗な黒髪に金色の瞳を持った我が子だった。
……いや、これは私の子では無く私自身だ。
そう気がついたのは、自分の口から呪文が零れた瞬間だった。
「――転移!!」
眩い光に包まれた赤ん坊……いや、私は光の球となり飛んでいく。
バリバリと大きな音を立てて結界を通り抜けようとする光の球を、祈るように見つめる。
やがて音と共に光の球は消え、上手くいったのだと悟った。
それと同時に、自身の魔力が切れたのを感じる。
眩暈を起こして膝を着くと、後ろから誰かが近付いてくる音が聞こえた。
「こんな結界の側まで逃げ回ってご苦労だな」
「こんな結界の側まで逃げた人間を、わざわざ追いかけてきた貴方もご苦労な事ね」
「貴様の娘は何処へやった」
「……もう居ないわ」
「貴様の能力で何処かへ飛ばしたのか。だが残念だな……何処へ逃がそうと国中にいる同胞たちが直ぐに探し出す」
どうやら目の前の男は結界の外へ逃がしたとは考えなかったらしい。
それもそうだろう、この強固な結界を通り抜けるには莫大な魔力が必要だからだ。
魔力切れを起こすほどの魔力量でも、上手くいったのは奇跡かもしれないと思ったくらいだ。
「さて、あの娘が居ない貴様は用済みだ。何か言い残すことはあるか?」
目の前の男は魔族の象徴である黒髪を後ろに流すように撫で付けて結んでいる。
一見灰色に見える瞳は、よく見れば岩場を閉じ込めたような不思議な色合いをしている。
そして一番印象的なのは、蜘蛛の形をしたペンダントと、額から左頬に掛けて蜘蛛の巣模様の刺青が入っていることだ。
まるで人形のように美しい顔をしているが、眉すら動かさない無表情が、得体の知れない怖さを感じさせる人物だ。
「……本当かも分からない御伽話に踊らされて、哀れね」
「そのような負け犬の遠吠えが遺言になる方が惨めだと思うがな」
男は掌をこちらに向けている。
恐らく攻撃魔法だろうが、もう力が入らず逃げる気力すら出ない。
だが、不思議とやり切った気持ちで胸がいっぱいだった。
口端を上げて微笑んだ瞬間、物凄い威力の魔法が猛スピードで向かってきた。
あっという間に辺りが光で包まれ、そして……。
――――……
「プリムラ様!」
名前を呼ばれたことで意識が覚醒する。
ベッドの側には、ニレが心配そうな表情を浮かべてこちらを覗き込んでいた。
辺りを見回して此処が自分の部屋だと認識する。
「……ニレ」
「申し訳ありません……魘されているようだったので、思わずお声掛けしてしまいました」
どうやら私は、夢を見ていたようだ。
しかし、あれだけハッキリした夢だったにも関わらず、殆ど内容を覚えていなかった。
随分と不思議で怖く悲しい夢だった気もする。
唯一覚えているのは、夢に出てきた男の得体の知れない怖さや印象的な瞳の色だった。
「やはり、昨日の一件で疲れが溜まっているのかも知れませんね」
「大丈夫よ、ニレ。どうやら夢見が良くなかっただけみたい。体は問題なさそうだわ」
沢山寝たお陰か身体はスッキリとしていた。
両手を組んで体をグッと伸ばし疲労感を確認したが、驚くくらいに体は軽かった。
しかしその瞬間、昨晩のものは比較にならない程大きくお腹の音が鳴る。
同時に、まるで二、三日何も食べていないかのようなとてつもない空腹感に襲われた。
魔力切れを起こすとお腹が空くとお義母様が言っていたが、昨晩はそれ程の量は食べてはいなかったので当然だろう。
「申し訳ないのだけれど……」
「承知しておりますよ。ルバーブ様から、本日は自室で食事ができるよう取り計らうようにと指示されております」
ニレがそう言って、昨晩と同じようにトレーを持ってくる。
本日の朝食は、硬めのパンを甘藍と赤茄子のスープにチーズを掛けた物だった。
それから、鹿の炙り焼きの苺ソース掛けと、昨日ニレが買っておいたと言うフリローレンがあった。
普段なら到底食べられる量では無いのだが、一口食べ始めると手が止まらなかった。
食べても食べてもお腹がいっぱいにならないのだ。
これが魔力切れの弊害のようなものなのだろう。
結局、パン入りのスープを二度、鹿の炙り焼きは一度だけおかわりした。
ちなみにフリローレンはカイムと約束していたので、ニレの隙を見て伏魔殿へ送り込んでいる。
食後の紅茶を飲みながら、あれだけ食べたのに苦しくないお腹が不思議で思わず撫でた。
「プリムラ様、お茶のお代わりはいかがですか?」
「ええ、頂くわ」
「普段、食が細めのプリムラ様がこれ程食べるとなると……料理長と相談して食事量の調整をした方がよろしそうですね。イベリス殿にも、何時もより多めに焼き菓子を提供して貰えるよう伝えておきましょう」
「ありがとう……あ、」
「どうかなさいましたか?」
「い、いえ、なんでもないわ。一先ず私は部屋でゆっくりしてるので、下がってもらって大丈夫よ」
「わかりました」
私は冷静を装ってニレに下がるよう指示を出す。
少し不思議そうな表情をしながらも、ニレは料理のお代わり分を運ぶために持ってきたワゴンに食器を乗せ、部屋を後にした。
そういえば、昨日の買い出しの表向きはイベリスの新作お菓子の為の材料探しだったことを思い出したのだ。
それがあんな騒動になってしまい、お菓子の材料の事などすっかり忘れてしまっていた。
イベリスの切望するショコラが手に入れば違うのかもしれないが、あれは何時手に入るか分からない品物だ。
(新しい食材が無くとも、新作のお菓子はできるかもしれないけど……)
〈プリムラ様、おはようございます。お身体の具合は如何ですか?〉
(うわぁっ!? お、おはようカイム……私は大丈夫よ)
私が思考の海に飛び込む寸前で、カイムから思念によって話し掛けられたのでそれは阻止される。
驚きつつも返事を返すと、伏魔殿が小さく開いて何かが飛び出してきた。
飛び出してきたのは、昨日の召還契約で居なくなっていたイベルだった。
「あ、イベルだわ! また魔法で出したのね」
〈ええ。視覚が共有出来るのは便利ですが、プリムラ様からの目線でしか見られないのは少し心配な部分もあるので。念の為です〉
イベルは前と同じように、そこら中を自由に飛び回っている。
カイムの魔力で出来ているとはいえ、私のせいでいなくなってしまった感覚があったので安心した。
しかし、肝心のお菓子の材料の件はどうにもなっていない。
イベリスには悪いが、何とか今までのレシピから応用してもらうしかないか……。
そんなことを考えている私に話しかけたカイムの言葉は、私の思考を再び停止させるのには十分であった。
〈例の新作焼き菓子の材料の件で悩まれていらっしゃるのですか? そんなに悩まずとも、もう用意が出来ておりますよ〉
「は……?」
用意が済んでいると言われても、私にはどれの事を言っているのか検討がつかないので、改めて昨日の事を振り返る。
さすがにマンサック家にいた時ではないだろうと、カイエンに着いたあたりから順に思い出していく。
そして、一つだけ思い出したのだ。
あの時はカイムから言われるがままに集めていたし、その後の出来事の方が印象的だったのですっかり忘れていた。
確かに、学園時代でもアレを食べるという話を聞いたことがなかったし、珍しいものかもしれないが……。
とりあえず、後でイベリスにお菓子の材料として使えるか聞いてみようと思ったところでニレが戻ってきたので、カイムとの会話を一旦終了させることにした。




