鉄猪(アイアンボア)②
今年もよろしくお願いします。
諸事情で年明け最初の投稿が遅れてしまいましたが、頑張って執筆をしていきたいと思います。
右側に逃げた私は即座に後ずさり、鉄猪から離れるように走り出す。
一度身体を震わせた鉄猪は、動き始めた私の匂いを捉えたのだろう、鼻先でこちらの動きを辿るような素振りを見せる。
「こっちへ来ないで!」
此方に意識が向くように、敢えて鉄猪に向けて叫ぶ。
私はある程度の距離まで進んだ後、そこで立ち止まり、怯えるような姿勢を取りながら左脇に両手を隠す。
……あくまでも自然に、不自然さを見せないように。
鉄猪は左の蹄でガリガリと地面を引っ掻いた後、標準を定め終わったかのように動きを止める。
この後に起こるであろう動きは想定内であるものの、どうしても怖さを感じずにはいられない自分がいた。
――一瞬の静寂の後、鉄猪は再び茶色のオーラを纏って私の方へと突進し始めた。
「ブオォォォォォォオッ!!」
(来る……っ!!)
先程と似たような状況であるにも関わらず、鉄猪の巨体が勢いよく迫ってくる光景に足がすくむ。
今すぐにでも悲鳴をあげて逃げ出したい。
だが、ここで逃げたら折角の作戦が無駄になってしまう。
鉄猪が私の間近に迫るその瞬間、ギリギリまで引きつけなければ意味がないのだ。
実際は十秒もない時間が、とても長く感じられる。
――そして、ついにその瞬間が来た。
「――――――火炎爆発!!」
――――――ボオォォォォンッ
怯えるように見せていた体を目隠しにして、両掌の中に溜めていた上級魔法を鉄猪に向けて思いっきり放った。
恐怖のあまり、呪文を唱えると同時に両眼を瞑ってしまい、直後に至近距離で爆発した魔法の衝撃で軽く吹き飛ばされる。
背中から地面に打ち付けられた衝撃で呻き声が溢れてしまった。
すぐさま眼を開けて鉄猪がどうなったか確認する。
鉄猪は火炎爆発を間近で食らったものの、右の牙が折れただけだった。
私が怖がって眼を瞑らなければ、両方の牙を折ることができていたかもしれないが、それは叶わなかった。
しかし、もう一つの目的――私に向かって直進していた鉄猪の軌道を、私の左側へと逸らすことができた。
予想をしていないはずの反撃を食らったことで、恐らく鉄猪を操っているあの男も状況を把握できてないだろう。
しかし、こちらはその状況を把握させる前に決着をつける作戦なのだ。
「――おおぉぉぉぉぉぉぉおっ!!」
――――ドゴォンッ!
辺りに痛烈な打撃音が響き渡った瞬間、鉄猪の動きが止まった。
私には鉄猪の後ろ姿しか見えないが、まるで時が止まったかのように何も動かない。
やがて、鉄猪の巨大な体がぐらついたかと思うと、大きな地響きを立てながら崩れ落ちた。
その鉄猪の巨躯と入れ替わるように現れたのは、戦槌を持って息を切らしているセージ様だった。
「――ってぇ! 腕が……っ!!」
「セージ様っ!!」
私は地面から起き上がり、腕を抑えて蹲ったセージ様に駆け寄る。
近くで彼の腕を見ると、どうやら少し痙攣しているようだった。
……無理もない、全力疾走で向かってきた鉄猪の鼻を、渾身の力を込めて殴ったのだ。
腕にダメージが来るのは当然だろう。
だが、その彼の協力がなければ、今此処で鉄猪が倒れていることはなかったのだ。
完全に気絶しているのであろう、鉄猪の首周りで光っていた例の模様は一切輝きを失っていた。
……そして恐らく、気絶しているのは男の方も同じなはずだ。
「セージ様ごめんなさいっ!私がもう少し上手く魔法を当てられていれば、鉄猪のスピードをもっと抑えられたのに……っ!」
「何をおっしゃるのですかお嬢様。お嬢様はあの鉄猪の気を私から逸らすためとは言え、囮になったではないですか」
「でも……」
「それだけではなく、全力で駆けてくる鉄猪の軌道を逸らし、更には鉄で出来た牙を一本折るような上級魔法を放ったのですよ!あれは素晴らしかった……!」
セージ様の口調がだんだんと早くなっていく。
どうやら彼は興奮しているようだ。
……こんなにも興奮しながら話す姿は、お義父様と話す時にしか見せたことはない筈だ。
「そもそも!あの男と魔物との繋がりの強さを逆にこちらが利用するという今回の作戦!思わず膝を叩く思いでしたよ!」
そう、カイムが私に教えてくれた作戦は、あの男と魔物の繋がりの強さ――つまり、共有される感覚の内の皮膚感覚を利用して攻撃をする事だった。
私は、カイムから作戦の説明を受けた時のことを思い出す。
カイム曰く、感覚の中で主要なものを五感と呼び、視覚・聴覚・味覚・嗅覚・皮膚感覚を指すのだという。
その中でも皮膚感覚には触覚だけではなく、温度を感じる為の温覚と冷覚、そして痛みを感じる為の痛覚も含まれるらしい。
それならば、鉄猪の弱点になる所へ攻撃が入れば、その痛みも男に共有される筈だと教えてもらった。
〈鉄猪の身体強化は、厳密に言うと皮膚ではなく体毛を固く強化しています。その為、剥き出しになっている鼻先は弱点とも言えるでしょう。そこをセージ様の能力で出した打撃武器で狙うのです〉
(鼻先って……小さいから狙いにくいんじゃない?)
〈そうです。更にもうひとつの懸念として、感覚の共有は向こうから切る事もできる恐れがあります。向こうが危険を感じて共有を切られてしまうと意味がありません。そうさせずに、確実に鼻先を狙いやすくする為にも囮が必要になってくるのです〉
カイムの作戦の流れを説明すると、まずは私が囮になってセージ様から鉄猪の気を逸らす。
鉄猪の注意を惹きつけた私は、あたかも怖がって何も出来ないように振る舞う。
敢えて私を狙いやすい状況に持っていくことで鉄猪――もとい、使役者の男が油断し、感覚の共有を切らずに攻撃を仕掛けるように仕向ける。
鉄猪はものすごい勢いで突進する為にぶつかった時の衝撃が強い反面、突進し始めたらすぐには軌道を変えられないという欠点がある。
軌道を勝手に変えられないように、攻撃を仕掛けた鉄猪をギリギリまで惹きつけて、私が今使える中で一番強い魔法を放って攻撃をする。
そうして、攻撃を受けて軌道が逸れた鉄猪へ、間髪入れずにセージ様に攻撃を入れてもらうという流れだったのだ。
〈人間も鼻や目がある顔は急所になります。そこに、直接ではないとはいえ武器で殴られるほどの痛みを感じれば相当なダメージになるかと〉
(成程……でも、突進の軌道を変えるくらいなら、中級魔法の火爆弾じゃ駄目なの?)
〈猫に追い詰められた鼠が思わぬ力で反撃をすること程、強力な一手になるものはないかと。それに、お嬢様にはセージが攻撃を狙いやすいよう、鉄猪の牙を折っていただきたいのです〉
(うーん…………うん?)
猫と鼠の例えはなんとなく分かる。
要は追い詰めたと思った私が強力な魔法を放つことで、使役者の男を混乱させるということだろう。
弱いと思っていた相手が繰り出す強力な一手は、強いものにとっては強大なダメージになる。
だが後半、鉄猪の牙を折って欲しいという言葉は、私の中で納得し難いものであった。
(鉄猪の牙を折れだなんて……上級魔法の火炎爆発はおろか中級魔法の炎弾もさっき使ったばかりの私ができるとでも?)
〈おや、プリムラ様自身が“身を守る術を教えて欲しい”と仰ったのですから……今更出来ないなどと弱気な言葉を吐いている場合ではないかと〉
ニコッと、顔が見えないのにも関わらず、貼り付けたような笑顔を浮かべているカイムが想像できた。
……つまり、カイムの言葉を乱暴に訳すと「泣き言を言ってないでやれ」という事だ。
どこか圧を感じるように言われてしまっては、私は何も言い返せない。
彼は恐らく自身の能力が高い分、教える際には周りにも同じレベルを求めるタイプなのだろう。
先程の黒子胡桃の件もあるし……カイムに指南役を頼んだのは迂闊だったかもしれないと少し考えてしまった私であった。
――――――――――――……
「お嬢様……此度の一件での立ち振る舞いを見て、私は敬服いたしました」
セージ様から掛けられた言葉によって、ハッと意識を戻す。
両腕に相当なダメージが入っているにも関わらず、そのような事を微塵にも感じさせないような笑顔で喋り続けている。
やたら両眼がキラキラと輝いて見えるのは、気のせいであってほしい。
「実践に出たことがないにも関わらず、周囲の状況を見極めて冷静に判断する力。あれだけの上級魔法を放つことが出来る魔力量。……そして、領民の為に自らが進んで立ち向かっていこうとする仁慈。正しく貴女様は、ルバーブ様の信念を受け継ぐ方だと感じました」
「あ、あの……セージ様?」
「どうぞセージとお呼びください!これからも私は、プリムラ様を守る剣であることに誇りを持って身を尽くすことをここに誓います!」
「っ!? お、お止めください!!」
セージ様が跪いて両手を組み、まるで神に祈るような姿勢になるのを慌てて止める。
これは……セージ様の中での私が、「ルバーブ様の慈悲深さの象徴」から「ルバーブ様の信念を継ぎし者」へと神格化されてしまったようだ。
なんとかして彼の心の暴走を止めようと悪戦苦闘している間に、ニレと残りの護衛二名、そして街の警備を担当している衛兵たちがやってきた。
ルバーブ信者として有名なセージ様が、私に跪いている姿は皆にとって不思議だったに違いない。
セージ様が怪我の手当をするため、ようやっと私の側から引き剥がされていくのを見送っていると、彼と入れ替わるようにニレが私の側までやってきた。
「もうっ! プリムラ様が率先して間者と戦うなんて、なんて危険な事をしたんですかっ!」
「ご、ごめん、ニレ……」
「カイエンの街中どこを探してもお姿が見当たらないし……本っ当に気が気では無かったのですよっ!?」
珍しく感情をむき出しにして怒るニレを見て、ようやくホッと安堵する。
――その瞬間、ぐにゃりとニレの顔が歪んでいく。
不思議に思っていると、カイムがポツリと呟く声が頭に響く。
〈おや……これは、魔力切れですね〉
――そういえば……あれだけ沢山の魔法、打てるほどの魔力量なんか持っていたかしら?
そんなことを考えながら、ニレの悲鳴をぼんやり聞いたのを最後に、私の視界は真っ暗になった。