衣の旨さもトンカツの旨さ(好事百景【川淵】出張版 第七i景【トンカツ】)
どっちも食べたい!
じゅわあ。
厨房から、揚げ油の音が聞こえる。
残者が厳しい季節。都会で忘れていた蝉時雨のように、おれの耳をざわめかせた。
おれのカツ丼と、こいつのトンカツ御膳。
運ばれてくるのを待たずに、カウンターのとなりに座るこいつは、その重い口をひらく。
「悩んでても、腹は減るもんなんですね。
お時間、ありがとうございます」
かしこまった言いかただが、なにをいまさら。こいつの悩みだか愚痴だかを聞いてやるのは、はじめてじゃない。むしろ、この話題はいつものことだ。
しかし今回は、おれたち絵描きにとってちいさくはない展覧会を迎える時期。選考もおわって全敗のおれを、本来ならこっちが慰めてほしいものだが。皮肉にもおれのほうが、三枚もエントリーが決まったこいつのなだめ役となっている(しかも、めしをおごって、だ!)。
「とりあえず乾杯だ。
展覧会のエントリーおめでとう」
度数の軽いアルコールのグラスをもちあげて祝っても、とうの本人はやはり浮かない顔。画家一族のエリートさまは、このていどのこと、祝うにもあたいしないのかもしれないが。事情はそれだけでもない。
「だから、それはおれの実力だけで選考されたものじゃないんですってば!
言ってるでしょう? おれは、先入観ぬきで。おれ自身の実力で評価されたいんですってば!!」
やや、声を荒げて。何度となくくりかえしたそのことばを、この大衆むけのカツ屋でも口にする。
この店を選んだのは、このおれである。画家一族のエリート様にはむかない店だが、こちらのふところ事情をかんがみて、がまんしてほしいところだ。
ひとのおごりなのもおかまいなしに。おれの頼んだカツ丼よりも、やや高値のトンカツ御膳を頼んだこいつは。まずは、曽祖父が美術の教科書に載るような画家であるうえに。父こそやり手の画商であるものの、祖父母に、母とふたりの母方の叔父が絵描きという、まさに画家一族。おれたちのような同業者ならば、ひととおり、それぞれの代表作までその絵を頭に描けるはず。
とうぜん、その末席であるこいつも。キャリアとしては、まだ駆け出しながら、期待の超新星として、それなりに顔が売れていた。結果、展覧会でのエントリーも票が集まりやすくなる、というわけだ。
誤解のないように言っておくと。たしかに、一族の名前で拍車がかかっていることは否めないが、それを抜きにしても、こいつの実力はたしかなもの。七光なんぞなくても、おれのように、全敗なんてことはまずないだろう。
だが、生真面目なこいつは、そのたしかな実力をいくらかライトアップする七光さえ、疎ましく言う。
「評価されないなら、されないでいいんです。
でも、一族の名前とかじゃなくて。おれそのものを評価してほしいんですよ」
グラスを飲み干しながら、なおもつづけられるお決まりの文句であったが。それをさえぎるように、おれのカツ丼とこいつのトンカツ御膳が、カウンターに届いた。
「わかったから、とりあえず食えよ。うすっぺらいおれの財布からのおごりだ。ありがたくいただけ」
「……いただきます」
まだ、ぜんぜん言いたりないといった顔で、こいつはトンカツに箸をはこぶ。カリッと立った衣に藻塩を軽く振ると、熱さをさますために、二、三度吹いてから口へと。
それを見て。
おれは用意していた、なだめ文句を、ここぞとくりだす。
「おまえ、トンカツ食うとき、わざわざ衣を剥がして食ったりしないだろ?」
「なんですか、それ?
あたりまえじゃないですか」
意をはかりかねているところに、おれはたたみかける。
「だよな?
衣もふくめて、トンカツ。衣の旨さもトンカツの旨さだぜ」
おれも、卵に綴じられたトンカツを、汁のしみた米と箸にのせた。
「トンカツが、衣を剥いで、豚肉の旨さだけで味わえなんて言わねえだろ?
だったら、いいじゃねえか。
おまえだって、一族の家名もふくめて、おまえ自身なんだってひらきなおっちまえよ」
口直しのキャベツをかじる、こいつの箸が止まる。
「だいたい、の英才教育のたまもので。爺さんやおふくろに、ガキのころから筆をにぎらされてきたんだろ? おまえの筆癖・色遣いは、おまえの一族の絵だよ。
そいつを無視して、おまえ自身だけを評価してくれなんて、できるわきゃねえぞ」
口をひらき、なにか反論をしなければと考えつつも。相応しいことばが出てこないこいつに、おれはさいごにもうひとことつけくわえてやる。そして、これ以上はもうつきあってやる気はない。
「トンカツは衣まで込みでトンカツで、その旨さなんだ。
一族の家名に恥じない実力があるんだから、おまえはその名前まで、おまえの一部だって顔してりゃいいんだ。
わかったら、さっさと食え」
それきり、おれたちは黙って。目のまえのめしをたいらげることに、いそしんだのだった。
おれのありがたいはなしで、納得できたかどうかは知らないが。
これ以降も、こいつはトンカツの衣を剥いで、豚肉だけを食うなんてことはなかった。