きっかけ
結局、蒼羅は体調不良を言い訳に学校を休んでしまった。ベッドに転がり、静かに天井と会話する。
昨夜の夕食時の両親の様子は至って普通だった。どうやら見えていない様である。
そのことにほっとしつつも、いつ何を言われるか内心でどきどきしていた。
していたのだが、今朝それは杞憂であると判ってしまった。
後ろから来た父親に気づかずぶつかった時、翼がぐにゃりと布のように曲がったのだ。それはもう、あの硬質さが嘘のように。
父親は普段通りに、おう、ごめんとだけ言って去って行った。やはり見えていないようである。
直接見えず、触れても感じないのであれば、ひとまず鏡に鏡に写らないことにさえ気を付ければ良い。
そうと解っていても、人から好奇の目を向けられるのではないかと気になって、外出する気にはなれなかった。
気を紛らわそうと、らしくもなく教科書を開いて目を這わせる。
しかし当然のように、目は行儀よく並んだ文字の列を滑った。みっともなく彼方此方に割り込んで内容が入ってこないものだから、何度も何度も同じ場所をぞんざいになめ回す。
そして何より、ちらちらと視界の隅を掠める翼が、いつの間にか蒼羅を思考に引き戻してしまう。
そんなこんなで他に考えることもなく、ずっと家に引き込もっているものだから鬱屈して仕方がなかった。その上、明日も明後日もこうしている訳にはいかない。
散歩にでも行って気分転換しようと決心し、重い腰を上げた。
人の目がないか確認しながらこそこそと家を出る。
十字路を曲がったところで老夫婦とすれ違い、心臓が跳ねた。しかし、いい天気ねとの軽い挨拶だけが投げられる。
空に目を向ける余裕もなかった蒼羅は、大変拍子抜けしてしまった。
追い抜いていく自転車も庭先を掃除している夫人も、誰も彼も無反応。この大きな翼が見えている人はいないようだった。
呆気に取られたまま、足を動かす。気がつくと、またあの川沿いに来ていた。
土手の周囲には空を塞ぐ高い建物がない。あっても三階建ての一軒家。ほとんどが平屋と二階建ての建物だった。
開けた空が心地好い。それだけで空気が澄んでいるかのように感じられる。
今なら本当に飛べそうな気がした。謎の翼の存在が、その錯覚に拍車をかける。
そこで空を見上げていて、不意に思い出した。
ここはあの少女から自分勝手に逃げてしまった場所である。良くも悪くもそれ以上の一大事によって頭の片隅から消えていた。
そして今は、学校が終わって少しした頃である。
これではまた出会ってしまう。
また、空を見ている変な人だと思われてしまう。
場所を変えようと視線を下ろして、固まっている少女と目があった。
「あ」
時既に遅し。手遅れであった。
「……えと、先日は失礼しました。決して変な人などではなく、その……」
開き直って歩み寄るも、少女の耳には届いていないようだった。
「何その羽。天使?コスプレ? いや、それならもっと徹底的に……中途半端だなぁ」
ぶつぶつ独り言のように言っているが丸聞こえである。すぐに我に返ったようで取り繕った。
「あ、いえ、その羽どうしたんですか。随分、手が込んでいる、ようですけど……」
気を取り直しても、どうも聞かずにはいられなかったらしい。
しかし蒼羅はそれどころではなかった。
「……見えるん、ですか。これ」
少女は微かに困惑したように眉を寄せ、しかしそれも一瞬で、直ぐに蒼羅の言わんことを理解したようだった。
「え、見えないんですか、逆に」
「いや俺は見えますよ。でも他の人には見えないようだったんで」
少女は再び顔をしかめて、どうやって、と呟いた。随分考え込んでいるが、そもそも論点が違う気がする。
「えっとー、まだコスプレだと思ってます?」
はたと顔を上げた少女の表情は、やはり勘違いしていたようである。
「いや当然でしょ。そこ驚く!?」
そんな、ありえない、とでも言いたげな表情に思わず叫んでしまった。
瑞瑠は全力で突っ込み返したい衝動をどうにか理性で抑え込んでいた。
コスプレでないならば何なのか。翼の生えた人間など見たことも聞いたこともないのだが。
この前の人だよな。
あの時もおかしな人だとは思ったが、ここまで来るともう気狂いである。この前って昨日か。
「あのすいません、私はこれで」
これ以上関わるべきではない。
瑞瑠は目を合わせないように俯いて、そそくさと立ち去ろうとした。しかしそう簡単にいくはずもない。
「待ってください」
彼は両の手を広げて、瑞瑠の進路に立ち塞がる。
思わず顔をしかめて軽く睨みつけてしまったが、それもすぐに戸惑いに塗り替えられた。
「え」
「これなら信じてくれますか」
彼の背中の翼が土手の幅よりも大きく広がったのだ。
もちろん彼は手を広げたまま動いていない。何か仕掛けがあるようには見えなかった。
そして翼は、そのままゆっくりと前後に動き出す。
「俺、触ってないですよね」
瑞瑠は何も言えなかった。
信じがたいが、彼には本当に翼が生えていてそれを操れるということなのか。
しかし自分の身に起きた超常と目の前の現象が、否応なく異常な現実を突きつけた。
瑞瑠は即座に体裁を整え、何も驚くことはないように振る舞う。
「翼が本物で、自在に操れるとして、それを私に言ってどうしたいんですか。空でも飛んでみたらどうです、私には関係ないですが」
ひどく冷たく言い放ってしまった。
どうも彼の前では当たり障りのない人間になりきれない。
少し後悔して下を向いた。
すぐに反応が返ってこない。
様子を伺うように彼の表情を覗き見る。予想通りというか予想外というか、呆けた顔をしているがそこに怒りや苛立ちは見えなかった。
「確かに……」
瑞瑠は、あのような言い方に不快ではなく納得を返す人間に出合ったことがなかった。
己の内で好奇心が顔をあげたのがわかる。気になる、何になら怒るのか、何になら……。
「……あの、相談、聞いてもらってもいいですか。……あでも迷惑、ですよね、関係ないですもんね……」
かなりナイーブな性格のようだ。自分に自信がない。
他人の顔色を伺って生きているのは、瑞瑠も人のことを言えない。
「少しなら、いいですよ」
彼の表情が微かに明るくなった。
警戒心の強い仔犬が懐くきっかけとなる瞬間を見たような気分になる。
「えっと……翼、生えたからやっぱり、空を飛びたいと、思ったんです。でもこれ、とても軽くて、空気も掻けない。何のために、生えたんでしょうか。どうしたら……」
最後の方は相談というよりも嘆きだったが、幸か不幸か瑞瑠はその答えを持っている。
「……もっと、イメージしてみたらどうですか。飛べるって。こう羽ばたいたから、こう空気が流れて身体が浮くっていう、イメージが足りないんじゃないですか」
捲したてるように言ってから、彼がぽかんとしているのに気がついた。
「イメージ、ですか。……なるほど」
瑞瑠はイメージ、つまり想像と一口に言ったが、ある程度の論理も必要である。想像だけでは常識を覆すことはできない。
ちなみに瑞瑠は、昨日の夕方からの訓練の結果、コップ一杯程度の水なら触れてさえいれば操れるようになった。
おかげで今日は寝不足だったが。
「ありがとうございます。聞いといてなんですが、思ってたよりちゃんと考えてくれて。やってみます」
今日出合った時の憂いが嘘のように、彼は晴れ晴れとした表情になっていた。
それじゃ、と言って瑞瑠は立ち去ろうと歩き出す。
そこで思い立って振り返った。
「明日は学校行きなよ。今日行ってないでしょ」
もはや何度目かわからない彼の間抜けな顔に苦笑しながら、今度こそ歩き出した。
今日は案外悪くない日だったと、瑞瑠は内心で噛みしめるのだった。